現在に続くキャラクターやライフスタイル、ポップカルチャーの源は1979年に生まれた。この考えには強く共感する。私自身は奇跡が起こる前年の1978年を革命前夜として注目して駄文を書いたことがある。
1979年にいきなりガンダムが登場したわけではなく、その萌芽が数年前からあったことを本書も指摘している。
1979年に子どもだった私は父親になってから自分が子どもの頃に親しんだものを子どもに伝えた。ドラえもんもドラクエも、ウルトラマンもマイケル・ジャクソンも私が教えた。
そう考えると「1979年の奇跡」は「父子消費」の基盤となっていることに気づかされる。
昭和ヒト桁の父からそれほど強い影響を私は受けていない。あるとすれば古寺名刹を見てまわる趣味だろうか。これは父の個人的な趣味だったから世代論とは関係ない。
子どもの側からは「父子消費」はどう見えるのだろう。「パパは何でも知っている」という尊敬の気持ちにつながるだろうか。それとも、父に先回りされているような、ちょっと押し付けがましい気がしているだろうか。機会を見つけて訊いてみたい。
本書を裏返して「79年にあったけど今はポップカルチャーの中心にはないもの」を考えてみるのも面白い。
大映ドラマ、横溝正史、川口浩、ノストラダムスの大予言、ザ・ベストテン。
もっとも、人類滅亡の予言はもう聞かないけれど、疑似科学は手を替え品を替え、次々と現れてはいる。
直球のスポ根モノのアニメやドラマも、私の知る限り今はない。その代わり、現実世界で幼い頃から親が鍛えて十代で世界で活躍する人はスポーツでも芸術にもいる。
星一徹・飛雄馬のような親子は現実にいるはずないと思っていたけれど、今はそれ以上の親子鷹がいる。卓球の福原愛はその先駆けの一人。幼い頃から子を鍛えている親は今やさまざまなスポーツで見かける。現実が虚構を超えた感がある。
もう一つ、1979年をめぐってずっと考えているけどうまく言葉で表現できていないことがある。
1970年代末が時代の転換期であるならば、その頃に子ども時代を過ごした人と、その前の時代、70年代前半に子ども時代を過ごした人とでは何かが違うのではないか。70年代前半に幼少期を過ごしたのは、50年代後半に生まれた人。
70年代前半はまだ高度成長期の真っ最中。後半はオイルショックを経て、日本が先進国に仲間入りした時代。豊かさがある程度、行き渡った時代でもある。
二つの世代では何かが違う。何が違うのか。それがうまく言えない。
それは、私の家族史にだけ言えることなのかもしれない。はっきり言えるのは、末っ子の私は、同じ年齢のときに上の人よりもずっとよいものを買ってもらえたこと。
同じ価格でも、おもちゃも自転車もずっと質が向上していた。そこから何か、二つの世代を分かつものがあるような気がするのだけれど、うまく説明ができない。
簡単に言えば、後に生まれた方がより豊かな暮らしができたということ。でも、それだけではない。その豊かさの違いから精神面でも違いが生じているように感じている。
これは結局、私個人の体験だけの感想なのだろうか。
写真は国立科学博物館「日本を変えた千の技術博」展に展示されていたウォークマン。