6/2/2007/SAT
アニソンとアニメ
しばらく前にNHK-BSで、アニメソングの特集番組を見た。出演は、水木一郎、ささきいさお、堀江美都子、前野陽子ら。秀夕木と子門真人は残念ながら登場しない。
70年代のアニメや特撮番組の音楽には不思議な魅力がある。番組を知らなくても歌を聴いているだけで上機嫌になってくるし、何よりすぐに覚えてしまう。
覚えた歌につられて、『マジンガーZ』(1972-1974)と『科学忍者隊ガッチャマン』(1972-1974)のビデオを借りてきた。音楽はそれぞれ渡辺宙明と小林亜星。
かつて熱心に見ていた番組を大人の、また21世紀の番組に慣れた目で見なおすと、物語の設定や筋書きが意外に粗いことに驚く。言ってみれば、ツッコミどころが満載で、いわゆるトンデモとさえ呼べる。それでも、もっと絵が精密で話が複雑な番組を見ているはずなのに、すっかり虜になっている21世紀の子どもを見ていると、主題歌だけではなく物語に強い魅力があることがわかる。
確かに80年代後半から90年代にかけて、子ども時代に見た番組を茶化すようなことが多かった。お笑いのネタや、昔を懐かしむムックのような本でも、あるいは仲間内の酒の肴でも、大雑把な話の揚げ足をとっては喜んでいた。
最近は少し様子が違う。なぜあれほど夢中になったのか、冷静に探ろうとする真面目な批評が増えているような気がする。過去の物語を再解釈した『ウルトラマンメビウス』はその好例。以前は、自分自身をつくったものを正面からとらえることが気恥ずかしかったのかもしれない。アニメやウルトラマンで育った世代も、ようやく自分を外から眺められる年齢になったということだろうか。
『マジンガーZ』には兜博士、『ガッチャマン』には南部博士。70年代のアニメ作品を今見て気づくことは、博士と呼ばれる科学者が多く登場することと、原子力や光子力、磁力などという言葉が頻出すること。最近のアニメやヒーローものの作品を見ると、科学よりスピリチュアルな傾向が強い。
たとえば、凍結したウルトラセブンを助けたのは、ウルトラ警備隊がアフリカの石から取り出したエネルギーだったけれども、同じように動けなくなったメビウスを助けたのは、仲間の心の力だった。架空の物質や元素というものも、SFという言葉そのものも最近はほとんど聞かなくなった。
そういえば、今の番組にも博士が登場するものがある。阿笠博士が登場する『名探偵コナン』。混雑する連休が終わってから、映画館へ出かけた。劇場版を見るのはこれで二度目。最新作『紺碧の棺』を見ながら、『コナン』にはどこか70年代の残像があるような気がしてならなかった。大野克夫の音楽一つとっても『太陽にほえろ』の匂いがする。
新しい作品のテーマは海賊。波を裂いて海底から浮上した海賊船は、アルカディア号そっくりだった。パンフレットにある原作者、青山剛昌からのメッセージを読むと、確かに彼も『キャプテン・ハーロック』が好きだったらしい。
写真は、公園の池で見かけた蓮の花。
6/9/2007/SAT
『銀河鉄道999――君は戦士のように生きられるか!!』(1979、松本零士原作、東映、1997)
アニメソングの特集番組で、ささきいさおが「銀河鉄道999」を歌っていた。この番組は小学校5年生のころ、熱中して見ていた。レンタル店に行ってみると、劇場版は貸出中。そこで隣にあったテレビ版の特番のビデオを借りてきた。冒頭に物語のあらすじが挿入されていて、忘れていた人にも、初めて見る人にも好都合だった。
この回を見た覚えはあったものの筋は忘れていた。この作品は、一話完結をとりつつ、終着駅へ向かっていく。毎週木曜の夜に見ていて、最後はいったいどうなるのか、とても気になっていた。映画で結末を知ってしまったあとは、あまり熱心に見られなくなっていたような気がする。それくらい、映画の結末は衝撃的だった。
子どもの目で見ていたときには、結末は予想もできないでいたけれど、いま見返してみると、伏線がいくつも引かれている。メーテルはもちろん、車掌も最初からなにもかも知っているように見える。
メーテルは終着駅がどういうところか、知っている。彼女がどんな気持ちで結末を迎えようとしているのかはまだわからない。そこが謎めいているところに物語の魅力がある。大人の目でみるとよくわかる。とはいえ、メーテルは鉄郎にただ同行しているのではなく、成長を促し、見守っていることは間違いない。
メーテルは、母の似姿をした鉄郎にとっては偶像のような存在。偶像は導くもの、なのだろううか。そう言える偶像もあるかもしれない。それは、少なくとも偶像の側でも導いていくことを意識していなければありえない。そして、導いていくなかで偶像自身も変わっていく。今度は偶像が導かれるようになる。そのとき、もはや二人の関係は偶像と崇拝者ではなくなる。
鉄郎とメーテルの関係は、そんな風に変化していく。恋愛にしても親子にしても、人間関係は最初から対等ということはむしろ少ない。非対称の関係が少しずつ変化していく。その変化を促していくものは何だろう。
『銀河鉄道999』』は、少し説話的な傾向が強いかもしれない。もっともそういうところが私の気に入った点でもあった。
思い出してみると、『一休さん』『まんが日本昔ばなし』『まんがはじめて物語』『世界名作劇場』など、70年代のアニメには教育的効果を狙った作品も少なくない。ジャンルが多かったのは、それだけ市場が大きかったことを示している。
いまの作品についてあれこれ言う必要はない。いいと思う作品ならば、いつの時代のものであろうと見ればいい。それができることが、いまの時代の大きな利点。そこにあるものを受け入れなければならなかった70年代とは大きく異なる。
写真は、初夏の木洩れ日、梅雨に入る前に。
さくいん:『銀河鉄道999』
6/16/2007/SAT
一週間、国外に出ていた。行き先は、クアラ・ルンプールと香港。香港へ行ったのは、18年ぶり。前回は、天安門事件の直前だった。香港では、はじめて陸路国境を越え深圳まで行った。7年ほど前、上海の浦東空港からタクシーに乗って蘇州に行くことがあった。深圳や東莞へ行ったのは、今回が初めて。噂に聞いていた経済特区の発展ぶりを目の当たりにした。
行きの機内では、買って行った新書を読み終えたので、珍しく映画を見た。選びきれないほどのチャンネルから選んだのは、『フラガール』。衰えはじめた炭鉱町で温泉を利用して町を再興する話。
映画を見ながら、映画のなかの物語に没入するよりも、自分自身の思い出をたどっていた。私が行ったのは、1978年の冬。スイミング・スクールの合宿旅行だった。
週に2回、夕方1時間かけて通った時間は、電車の窓ガラスを見つめながら、はじめて一人で過ごす時間でもあった。10円のコーラ飴、『宇宙戦艦ヤマト』に登場するロボット、アナライザーのシールを貼った会員カード、駅前の屋台と物乞い。1970年代後半の横浜駅東口にはまだ場末の雰囲気が漂っていた。80年代に入り再開発が進み、元オリンピック選手が建てたスイミングスクールはなくなり、巨大なデパートが建った。
家族と離れて寝泊りするのも、初めての体験。異常なほどの緊張と興奮のなかで経験したことは、断片的でありながらもそれぞれの場面はよく覚えているし、同じように異常な緊張と興奮の心理状態にあるとき、閃光のように思い出すことも多い。
朝起きて、朝食の前から泳いで、一日に6時間以上泳いでいたのではないか。学校の違う友達、宇宙戦艦ヤマトの絵が上手だった友達、名前も知らないまま付き合っていた友達。休憩時間に、ジャッカー電撃隊ショーを見たこともよく覚えている。もちろん、フラダンスも見た。
映画にもあったように巨大な温室のなかにたくさん椰子の木があった。お土産に常磐から椰子の実を買って笑われたことも覚えている。それから、もう口に出して呼ぶことはない名前を彫ったキーホルダーを特別なお土産として買ったことも。
あのあと、椰子の木の生えた場所にはいくつか行った。ハワイにも、ハワイ島へ一度だけ仕事を兼ねて行ったことがある。どこへ行っても、椰子の木を見かけると、温泉からただよう硫黄の匂いがしてくる。そして、あの頃のさまざまな映像も甦ってくる。
マレーシアの空港から、真直ぐ伸びた高速道路を走る。ゴムの木だか椰子の木だか、南方の木々が延々と広がっている。私にとって南国といえば、マレー半島のこと。
映画のなかでも、椰子の木はハワイではなく、台湾から持ってきたと言っている。戦中から戦後の日本に暮らした多くの人にとっても南国とはハワイではなく、台湾、グアム、サイパン、そして東南アジア、マレー半島やインドシナのことだったのではないか。それだけに、ハワイとはどこか遠い夢のようなところだったのかもしれない。真珠湾攻撃とは言っても、ハワイ襲撃とは言わない。そのような回避は、いわゆる日本人のハワイへの憧憬と関係があるような気がする。
クアラ・ルンプールで二泊した。マレーシアには何度か来ているけど、市内に泊まったのは初めて。到着した夜は土砂降りの雨だった。翌朝の新聞には、世界で一番高いペトロナス・タワーを背景に浸水した街並みの写真が一面に出ていた。浸水した街とびくともしない摩天楼。この街では、タワーを象徴にして比較することが多い。
夜、街の屋台で香港から来た仲間とサテーをつまみにビールを飲んだ。古い商店の上に小さなアパート、そのはるか頭上にタワーが見える。数十年が一つの画面に入った不思議な空間。
これは時間の差だろうか。この地上に近い場所は取り残されていて、摩天楼のほうが進んでいる、そう言えるだろうか。賑わう屋台を見ていると、そこには留まる意志があるようにも見えるし、確かに置き去りにされた感じもする。よくわからない。
クアラ・ルンプールから香港へ移動した。途中、シンガポールのチャンギ空港で1時間待ち時間があった。この空港には何度も来たことがある。早朝だったり、深夜だったり、何時間もただ待っていたこともある。街には行かれなかったけど、空港に降り立っただけでも、ひどく懐かしい気がした。
出かけた先が懐かしい帰る場所ということもあれば、多くの人には乗り降りするだけの空港で、帰ってきたと感じることもある。
写真は、KLIA、クアラ・ルンプール国際空港、ガラス張りの中庭。
6/23/2007/SAT
マレーシアと香港の出張、東京からクアラ・ルンプール、KLから香港、香港から東京、それぞれ違う航空会社に乗った。その点では、エアライン好きには楽しい出張だった。
香港から帰京する便、また映画を見た。見たのは、『バブルへGO!!タイムマシンはドラム式』。機内で流すに調度いいコメディ。広末涼子は前にも機内映画『秘密』で見た。
映画で大げさに描かれた拝金主義のようなバブルの実感は記憶にない。でも生活が底上げされていく実感は確かにあった。海外旅行が身近になり、1988年、私ははじめて外国旅行をした。香港からの帰路便でも乗った航空会社が北米線を開始したばかりで、テレビでもRod Sewart,“Sailing”を使った広告が流れていた。海外旅行とは縁がなかった私の家族も、パックツアーを手はじめにして、やがてヨーロッパの国々を自分たちだけで旅するようになった。
バブルと言えば、むしろ日本経済が底を打っていた90年代後半が私にとってのバブルだった。その頃、働いていた会社では年齢、役職に関わらず、長時間のフライトはすべてビジネスクラス、ノーマル料金だった。ポイントを貯められたおかげでファーストクラスに乗る機会さえあった。
今の勤務先では、そうではない。航空会社もしわくなり、ポイントを持っていても容易にアップグレードはできなくなった。
過剰なサービスのファーストクラスはともかく、ビジネスクラスに乗ることを私は贅沢と思わない。長時間飛行の出張が頻繁にあるようなら、ゆったりした座席で移動したいと思う。実際、海外出張はどんな状況で命じられるか、わからない。緊急だったり、残業の続いた後だったり。万全の体調で行けるとも限らない。業務で行く以上、移動中に十分休息がとれることはむしろ当然のことと思う。
贅沢は敵だ。そういう標語は戦時中だけでなく、バブル崩壊後にもよく聴いた。でも、贅沢とは何だろう、バブルのもたらしたものは、ほんとうは知ってはならない贅沢だったのだろうか。私には、そういう疑問が残る。バブルという言葉には、“弾ける”という映像と同時に、“流してしまえばいい”という含みを感じて、私は好きになれない。
マレーシア、香港、中国華南を短期間に見てみると、これらの地域では日本より、いわゆる「格差」が大きいことを感じる。恐ろしいほど急速に発展する中国本土では特にそう思う。そこではこれまで社会主義というイデオロギーが一定の歯止めになっていたことを認めざるを得ない。
日本社会では格差がないことが正しいと思われがちで、それゆえに格差を是正するのではなく、格差を隠蔽することに社会が動きやすい。前の首相が格差はあると明言したときも、まずその認識が批判された。
類型的な言い方を承知ですると、ヨーロッパでは格差は初めからあるもので、そこからノブレス・オブリージュという考えも生れる。アメリカ型社会では競争に勝った者が巨額の富を得る一方、やはり格差への責任を倫理的に負っている一面がある。
日本ではどうだろう。総中流と見るにしろ、上下流の二極化と見るにしろ、上流にいる者に上にいる実感がない点では同じ。分析ではなく実感で言えば、競争の勝者は、勝利ではなく脱出や安堵を感じていないか。勝ったのではなく、生き残ったという気持ち。そういう気持ちから格差に対する倫理的な責任感が生れるとは思えない。
言葉を換えれば、日本型の社会では勝者が勝者になっていない。疲れきり、足を棒のようにしてゴールを切り、とにかく休ませてくれと喘いでいる。こうした状況、いや、統計的事実はどうであれ、実感としてそう感じられるのはなぜだろう。
日本型、欧米型など地域を思わせる言葉はかえって本質を見誤らせるかもしれない。どこであっても、格差を是正する心性がある場合もあれば、そうでない場合もある。
広範にある過剰なまでの平等や公平への意識、若年期からの競争の繰り返し、それぞれの競争で勝者が得る報酬の少なさ、その一方で敗者への仕打ちの厳しさ。格差が脱出と結び付けられる要因に思いつくことは少なくないけれど、思いついたところでどうというものではない。
私はどうなのか。引きこもり、フリーター、ネットカフェ難民。機内でながめた週刊誌にあふれる「格差」のキーワードを前にして、結局のところ、そこに当てはまってないことに私は安堵するばかりで、「格差」の上層にいる実感も、それを是正しなければならないという倫理的な責任感ももつことはできていない。
その原因は、いわゆるバブル期と言われる時代よりもっと前にあるように思う。
写真は、香港のホテルから見下ろした川と橋。
6/30/2007/SAT
香港で深圳へ向かうクルマ、正確に言えば、そこへ向かう列車の駅へ向かう車中で、心地よい音楽を聴いた。流れていたのは、The Beales,“In My Life”、それとThe Eagles,“Desparado”。何度も聴いたことのある音楽を、聴いたことのない女性の声がカバーしている。編曲は、簡素でゆったり。緊張と疲労の続く一週間のなかで、そこにだけ穏やかな空気があった。これまでに体験したことがないような心地よさは、滑るように静かに走るクーペと、身体を包み込むようなレザー・シートのせいもあったかもしれない。
深圳の音楽店で教わった、シンガポールでは人気歌手、と運転しながら教えてくれた。会話で音楽が途切れることがもったいなくて、名前は聴かず、声に耳を傾けた。
東京に帰ってから、香港から小さな荷物が送られてきた。開けてみると、CDが一枚。“Camomile Extra, Emi Fujita, Pony Canyon, 2002”。気に入ったことを覚えていてくれたらしい。
ジャケットを広げてようやく、藤田恵美がル・クプルの片割れだったことを思い出した。彼女の声は聴いたことがある。何年か前、大晦日の紅白歌合戦でテレビでもわかるほど緊張した声で歌っていたことを覚えている。
確かに彼女は、シンガポールでは大人気で、台湾、香港でも癒し系ヴォーカルとして知られているらしい。
日本人だったのか。すぐにそう思ったことを否定しない。次の瞬間、それが何だろうと思いなおしたことも嘘ではない。多文化だの国際化だの、どれだけ叫んでみたところで、内と外の間に線を引いているかぎり、多文化世界に身を置いたことにはならない。内にあると思っていたものが外にある。
フュージョンとは、混ざり合うだけではなく、外にある垣根を壊して拡がっていくもの。メルティングポッドにしてもモザイクにしても、中の状態がどうであれば、外の囲いがしっかりしていることを皮肉にも暗示している。
香港の人から、シンガポールや台湾で人気のある歌手を教えてもらう。そんな体験が楽しい。彼女は英語でも歌うし、日本語でも歌う。それだけのことでしかないし、それだけでも十分に私は楽しんでいる。実際、私は彼女の国籍は知らない。
そんなことを考えたのは、ちょうど機内で読んだ本がナショナリズムとインターナショナリズムについて考えなおすいい刺激になったから。この本、『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』(梅森直之編著、光文社新書、2007)の感想は、これから少し時間をかけて書くつもり。
藤田恵美の声のおかげで、“Desparado”という曲を聴きなおした。“Your pain and your hunger, they're drivin' you home”と歌う、この歌も“Home”の歌。
この歌詞を読んでいて、聴こえてくるのはDon Henleyの声ではなくて、深夜のライブ・ハウスのアンコールで聴いた声だったり、Karen Carpenterだったり。Karenの気持ちを代弁したとも言われる“I need to be in love”(作詞はJohn Bettis)に、“You'd better let somebody love you”という言葉遣いが似ている気がするからかもしれない。
写真は、バスから見た香港の海と高層アパート。今回はずっと天気が悪かった。
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