7/30/2005/SAT特選 刑事コロンボ 完全版 美食の報酬 (日本語吹き替え版)(Murder under glass, 1978)、Jonathan Demme監督、パラマウント、1999The Columbo Phile: A Casebook, Mark Dawidziak, Mysterious Pr, 1989夏休みのはじまり。思いがけず一人で夜を過ごすことになった。ふだんはしないこと、できないことをしようと考えて、赤ワインを飲みながらビデオを見ることにした。安酒を飲むのは、いつもしていることと変わらない。 借りてきたのは、70年代の輸入テレビドラマ。放映時にも見た記憶があるし、92年頃再放送もよく見ていた。その頃、東京駅前の書店の洋書売り場で、いわゆるマニア本を見つけて、作品を見るたびに印をつけている。二重の記憶に新しい記憶を上書きする。 ロサンジェルス出身の人に、「L.A.といえば、コロンボ」と話したら大笑いされたことがある。外国から来た人に、「東京といえば『東京物語』」と言われるようなものだろうか。それは案外この作品のスタッフには笑い話ではなかったかもしれない。 東京から来た料理人はMr. Ozu。流暢な英語で犯人のレストラン評論家と話す。吹き替えであっても、二人がわだかまりなく英語で話していることはわかる。宴席に割り込み聞き込みするコロンボは、去り際に、「サヨナラ」と言っているらしい。 とってつけたようなゲイシャは奇妙だけれど、この作品ではイタリアから来た被害者の甥のほうが、合衆国に溶け込んでいない。英語も不自由で、イタリア移民のコロンボに通訳を助けてもらっている。 物語のはじめで、L.A.の名だたるレストランのオーナーたちが囲んでいるのは、しゃぶしゃぶ鍋。1970年半ばにはすでに、西海岸から見て東京はヨーロッパよりずっと身近になりはじめていたのかもしれない。 ほかにも、『ロンドンの傘』でも芸者のろう人形、『さらば提督』では座禅と、『刑事コロンボ』では端々に日本文化が登場する。当時、日本ブームがあったのかもしれない。 当てずっぽうに棚から引き出した作品のわりには、狡猾で高慢な犯人、第一作「殺人処方箋」と同じ戦法で、とぼけながら共犯の女性を脅して落としていく終盤、追い詰めていく最後の場面、どれも『コロンボ』の典型といえるほど完成度は高い。 それにしても、流暢に英語を話しているようにみえたKenji Ozu役の俳優は誰だろう。ビデオ・ケースの裏をみると、MAKOとある。 マコ岩松。日米開戦前に合衆国に渡った絵本作家、八島太郎の息子。父の作品、『道草いっぱい』の日本語訳も手がけている。 こんなところで出会えるとは思ってもみなかった。 はじめて見る作品で、遠いむかしを思い出し、以前の読書を思い出す。いつの間にかワインは空いて、ジンを飲みすぎたのか、いつの間にか眠っていた。 8/6/2005/SATDVD ウルトラセブン(1967) vol.4、パナソニックデジタルコンテンツ、1999
DVD ウルトラセブン(1968) vol.11、パナソニックデジタルコンテンツ、1999
劇場版 カードキャプターさくら 封印されたカード、CLAMP原作、浅香守生監督、バンダイビジュアル、2001なぞの転校生(1972)、眉村卓原作、山根優一朗脚本、黛叶・吉田治夫演出、池辺晋一郎音楽、アミューズエンターテインメント、2001テレビをほとんど見せないかわりに、最近ではビデオを借りてきて見るようになった。夏休みのお楽しみは約束どおり、(約束どおりだぞ!)『セブン』と『さくら』。 最終回を先に見てしまった『セブン』は、金城哲夫の脚本作品を選んですこしずつ。『さくら』は、シリーズ前半の「クロウ・カード編」の再放送が終わってから、順ぐりに後半「さくらカード編」を見てきた。ようやくこれで大団円。これから始まる再放送で、もう一度ゆっくり見なおす。 『なぞの転校生』は図書館で借りてきて、子どもたちにはまだ少し早いだろうと思い、一人で見た。もう一度、『未来からの挑戦』を見る前に。 まるで雰囲気の違う作品を続けて見ていると、混乱してくる。混乱しながらも、子ども向けテレビ作品の歴史について考えてみた。 NHK少年ドラマシリーズを特集したムック『NHK少年ドラマシリーズのすべて(1972-1983)』(増山久明編、アスキー出版局、2001)の中で、少年ドラマシリーズが人気を得た理由として、60年代後半に『ウルトラQ』から『ウルトラセブン』を見た子どもたちが、年齢が上がるにつれ、よりシリアスなドラマと、さらに高度なSFを求めていたことが挙げられていた。 なるほど、『なぞの転校生』にはよく当てはまる。中学校を舞台にして身近にする一方SFの中身は異次元、超能力、核戦争と、より複雑で高度で、そして深刻になっている。 興味深いのは、『なぞの転校生』では恋愛が物語の隅に追いやられていること。山沢典夫に対する香川みどりの気持ちははしかのようにほのかな思いでしかない。それに比べると『セブン』は、子ども向けとしては異常なほどダンとアンヌの関係を執拗に描く。金城哲夫がほんとうに書きたかった作品は、ひょっとすると恋愛ドラマだったのでは、とさえ思われてくる。 『セブン』末期の作品は、アイデアの宝庫。その分、30分ではまとまりきらないほど。「ノンマルトの使者」には、侵略者としての地球人という発想、海にたたずむ少年という風景、さらにはホラー映画の結末のような仕掛けまで盛り込まれている。 もちろん、怪獣はそれぞれ個性的で、戦闘場面も毎回違う。子ども向けらしく、『闇に光る目』のように子どもに視点を置いた作品もある。そこへ男女の恋愛まで持ち込めば30分のヒーロー番組に破綻は避けられない。 『なぞの転校生』は、ヒロインを完全に脇役にしてしまうことで、SF作品としての密度を高めることに成功している。そして、無理に相手役にしないことで、かえって若い女優が印象深く残る効果を結果的にもたらしている。今思い浮かべているのは、『未来からの挑戦』で紺野美沙子が演じた西沢響子のこと。 21世紀も近づくころ、小学生、それもおそらくは中低学年向けに描かれたアニメ作品『カードキャプターさくら』では、物語の中心にあるのは恋愛、いや、恋愛なんて大人びて複雑なものではない、「好き!」という単純で率直な気持ち。『さくら』では、魔法も変身も戦闘も、お決まりのネタでしかない。 ここでいう「好き」という気持ちは、ダンとアンヌのような青年男女のあいだにある恋愛関係だけを意味しない。小学生の真剣な恋もあれば、同性どうしの恋愛、大人と子どもほど年齢差のある恋愛まで、何のてらいもなく、さわやかに描かれている。生れた国が違ってもまるで気にしない。 30年のあいだに、世の中も、NHKも、ずいぶん変わった。 70年代の子どもの頭に恋愛がなかったわけではない。「恋の奴隷」「ひと夏の経験」「やさしい悪魔」、それから「ペッパー警部」。妖艶な歌謡曲を口ずさんでいた子どもは、意外なほどませていた。 たぶん、恋愛が変わっているのではなく、その表現が変わっているだけだろう。 さくいん:『ウルトラセブン』、『カードキャプターさくら』、少年ドラマシリーズ 8/7/2005/SUN魔術、芥川龍之介文、宮本順子絵、偕成社、2005図書館で見つけた芥川龍之介の童話に挿絵をほどこした新しい絵本。童話とはいえ人の心に潜む闇に、いつのまにか目を向けさせる恐ろしい話。 芥川の作品はほとんど読んでいない。あまり多くは読みたくない。それでも惹かれるのは、自分にはないものがあるから。 いや、正確には自分の表面にはなく、おそらく似たようなものが自分の奥深くにあるから。それを掘りだすようにして、そして自分の表面とのあいだで擦り切れる不協和音をときどき楽しんでいるのかもしれない。 文字による物語がすべて終わったあとに、もう一枚絵が続く。絵本ならではの余韻が静かな雨音とともに残る。 さくいん:芥川龍之介 8/13/2005/SAT鹿よ おれの兄弟よ、神沢利子文、Gennadiy Dmititriyevich Pavlishin絵、福音館書店、2004殺しながら生きる命。開きなおるのでもなく、それを忌避したり、懺悔するのでもない。したところで何も変わりはしない。だから、受け入れながら、耐えていく。その耐えていく苦しみと、奇妙なことにそれに伴う喜びを、人間は歌にしたり、物語にしたりして、伝えてきたのだろう。 この絵本を読んでいたら、まえに読んだアメリカ・インディアンの詩集を思い出した。人間がまだ自然と密着していた時代の息吹が感じられる。それを民話の再話ではなく、創作として、しかも現代の日本語で表現する神沢の文章に驚く。 この主題は、思いつきではなく、もともと彼女は、こういう気持ちを大切にしていて、いつか作品に注ぎ込もうとあたためていのだろう。『くまの子ウーフ』(井上洋介絵、ポプラ社、1978)の一話「ちょうちょだけになぜ泣くの?」では、繰りかえされる食物連鎖にとまどいながら、耐えなければならない生命について、子どもにもわかるような語り口でつづる。それだけに、こちらのほうが恐ろしくもある。 『くまの子ウーフ』を読んだのは、NHK教育テレビでアニメ作品を見てから。最近、小学生向けの詩集を読んでいて、「おおきなけやき/はらっぱのけやき」ではじまる詩「おおきなけやき」の作者が神沢利子であることを知った。 この歌は、田中星児の声で「風をみちゃった僕」(井出隆夫作詞、福田和禾子作曲)や「風のバラード」(小坂忠作詞作曲)とともに、ずっと心の底に残っている。ギターの音に郷愁を感じるのは、ここに原点があるかもしれない。 一つ、残る疑問。狩人は鹿を捕らえ、歌を捧げる。では、人間を犠牲にして生き残る人間に、歌う歌はあるだろうか。 8/14/2005/SUN完全無欠の東映ヒーロー100、竹中清編、徳間書店、2004懐かしのアクション・ヒーロー vol.1, vol.2, vol.4、コロムビア、1994ウルトラマンの本を探して、図書館の映画の棚へ。偶然見つけた、いわゆる戦隊ヒーローを集めた図鑑。眺めるだけと気軽に借りて帰ったら、これが始まり。ウルトラマンに加え、ザビタン、イビル、ガブラの「アクマイザー3」三人の絵をほとんど30年ぶりに描きすっかり忘れていた「ゴレンジャー」の歌、「真っ赤な太陽 仮面に受けて」を聴き、戦隊ヒーローの歴史をたどることになった。 ビデオで見ていては切りがない。図書館にはテレビ・ヒーローの主題歌を集めたコンパクト・ディスクもある。意外なことに、これが好評。見得を切った写真を眺めて、威勢のいい歌を聴けば、ほとんど満足できるらしい。手には「カッコいいおもちゃ」を握りしめている。 ウルトラマンと比較すると、円谷家という重圧がないぶん、仮想作家、東映企画部の別名でもある八手三郎は自由奔放にみえる。 歴代の変身ヒーロー、戦隊ヒーロー、メタル・ヒーローなどを見ていると、物語や構成いってみれば世界観もギャグからシリアスまでさまざまある。直球の勧善懲悪ばかりというわけでもない。悪から寝返り悪と戦う者もいる、正義の味方を邪魔する別の正義の味方もいる。 遡ると、過去には女性や遠い外国の人を見下した先入観で描いている場合も少なくない。その一方、時代を反映させながら、内容は変わりつづけていることも見逃せない。太っていて、武道が得意で大食漢という定番のキャラクターは、最近ではまったく見かけなくなった。 最初の『ゴレンジャー』では、女性はモモレンジャー一人だけ。人数も配色も、まさに紅一点。ところが最近では、女性が複数の場合もあれば、ピンクばかりでもない。メカを操る係が女性というのも、近ごろでは珍しくない。 歴代の作品のなかには、テレビや子どもの世界の外でも話題になったものもあれば人気が出なかった駄作もある。二年続いたのは最初の『ゴレンジャー』だけ。子どもの側からみると、熱心に関わるのは就学前後の一、二年のことなので、どの作品にめぐり合うかによって、ヒーローとの付き合い方はだいぶ変わる。 いま放送されている番組もたくさんあるし、レンタル店に行けば、昔の番組を親子で楽しむこともできる。しかしそれは、親の思い入れに子を引きずり込んでいるような気もする。やがて、それに気づいたとき、見せられたから好きなのか、やっぱり自分で好きなのか、考えるときもくるだろう。 音楽だけ聴いたり、宣伝のないビデオだけを見ていれば、「見たもの乞食」との間に無益な衝突もなく、楽しい時間が過ごせる。『懐かしのアクション・ヒーロー』シリーズは、それぞれの決めゼリフや、敵役の声まで入っていて、確かに画面がなくても楽しい。 ヒーローも主題歌もたくさんある。でも、歌っているのは、ほとんどすべて、水木一郎、ささきいさお、子門真人、ヒデ夕木、それから堀江美都子の五人。 ささきいさおは、私が狂喜した「ゴレンジャー」から、目の前の子どもが乱舞する「デカレンジャー」まで、衰えるどころか凄みを増して歌っている。彼らこそ、不滅のヒーロー。 さくいん:ささきいさお 8/17/2005/WED夢路いとし・喜味こいし(お笑いネットワーク発 漫才の殿堂)、ポニーキャニオン、1996エド・サリヴァンpresentsザ・ビートルズ ノーカット完全版1(Ed Sullivan presents the Beatles, 1964)、ビデオアーツ、2003今年の夏休みは、関西方面へ旅行することにした。大阪弁の予習に漫才のビデオを借りる。大阪弁は、『さくら』のケロちゃんと言っても、子どもは少し不安な様子。まったくわからない英語より、端々に違う音の入る言葉のほうが、不思議で不気味なのかもしれない。だからこそ、直に行ってカルチャー・ショックを受ける意味がある。 話の速度もネタも、万人向けの「いとし・こいし」。まだ髪が黒く、メガネもかけていない時代から、白髪混じりになるまでの舞台。年をとるにつれ、喋りもネタも、過激になる。「過激シルバー」といえば、日刊ゲンダイ連載の四コマ漫画。どちらかがどちらかを真似しているのか、よく似ている。湾岸戦争と夫婦喧嘩を混ぜかえす最後の演目は、かなりエグイ。 『エド・サリヴァン・ショー』は、ビートルズより、エド・サリヴァンがお目当て。グッチ裕三扮する江戸川サリバンやBilly Joel,“Tell Her About It”のビデオに出てくるそっくりさんですでに馴染みがある。どちらもほんとによく似せている。 旅行へ行くと、案外テレビが面白い。違う場所へ行くと、番組も宣伝も違う。思いがけない再放送に巡りあわせることもある。 1964年のアメリカのテレビ広告も面白い。ヒゲ剃り石けんの比較広告、重ねたホットケーキにたっぷりのホイップクリーム。色がなくても、まぶしい。戦争を知らない私でも、戦争を知っている両親に高度成長期に育てられたためか、21世紀になっても、まだそう感じるところがある。 昔、テレビは、白黒だったんだ。少しずつ昔の話をしてみる。 色がなかったことは伝えられても、あのホットケーキをどんな気持ちで見ていたのか、なかなか伝えにくい。無理して話しても伝わらない。話すことが伝えることとは限らない。 8/25/2005/THUいちばん好きな絵本はど〜れ? 〈日本絵本賞〉受賞絵本原画展、
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