侏儒の言葉・西方の人(1923-1927)、芥川龍之介、海老井英次解説、新潮文庫、1968

芥川龍之介君のこと、島崎藤村、市井にありて、藤村全集 第十三巻、1967

「廃れし路」の彼方に、原子朗、芥川龍之介全集 第二十三巻 月報23、岩波書店、1998



以下、断章という芥川が用いた形式だけを模倣して書評とする。

  芥川
   芥川龍之介は、高校の現代文の授業で読まされた「羅生門」しか知らない。最近日経新聞最終面にある文化欄で「大正文化に見直しの兆しあり」という記事があり芥川も採りあげられていて気になっていた。大正時代には少なからず興味がある。整いはじめた国力、豊かになりはじめた社会、その一方で膨張と崩壊への兆しもみえる。昂揚感と閉塞感のあいだで、人々は何に満足し、何に抵抗したか。

私の読書癖は、文学史でみれば自然主義とロマン主義に傾いている。その一方、批評エッセイを好む。王朝物や古典を題材にした小説はほとんど読まない。芥川は私の守備範囲からはかなり遠いルソーを読んでもニーチェは読んだことがない。

芥川の本を手にとったのは、偶然。しかし、これまでの読書を振りかえってみるといつかたどりつくことになっていた、必然とも言える

  アフォリズム
   読んでみると、アフォリズムという形式は面白いけれど、少し物足りないようにも感じる。

「こうした『人生』とか『神』とかは、結局は言葉の問題に過ぎなくなっており、そこに晩年の芥川の問題が露呈されているというべきであろう」という解説に書かれた言葉を読むと、確かに言われていることの前半は正しいようにも思う。

ただし後半に書かれているように、この問題が芥川個人に帰する問題なのか、彼の文学の全体を知らない私には判断できない。誰が書こうと、アフォリズムという形式はこうした問題を避けられないように私には思える。

アフォリズムは、限られた語彙や表現のなかで思想を一息に表現する。それでいて、実は形式に限りがない。俳句や短歌は形式に縛りがあるからこそ、かえって自由な表現を生み出す。この逆説とは反対に、自由な形式は意味の空虚を生みやすい。その空虚を埋めるために結局、音や語義の形式的な技法に陥りやすい。

もちろん、そうなりやすいだけであって、すべてがそうというわけではない。アフォリズムを理解できないのは、作者が技巧だけに走っているか、自分が修辞にしか目が行かないか、どちらかだろう。今はまだその見分けがつかない。つまり、アフォリズムを読むにはまだ早いということかもしれない。

  又
   アフォリズムという表現形式には確かに魅力的な一面もある。とはいえ、ただの言葉遊びになってしまう危険も小さくない。その理由は、アフォリズムは言葉で思想を表現するということ以上に形式に限定がないところにある。俳句、短歌、絶句、律詩などは皆、厳格な形式がある。形式に従いながら、表現を豊かにし、なおかつ何らかの思想をこめるところに、こうした文芸ジャンルの面白さがある。

アフォリズムには、外部から押しつけられた形式がない。自由に表現できる。自由になれるところで自由にふるまうのは、実は自由になれないところで自由にふるまうことよりも難しい。自由に思想を表現しているつもりでも、陳腐な形式に酔っていることにもなりかねない。

そう考えると、アフォリズムはそれだけで成り立つものではなく、ある全体、ある形式のなかに埋め込まれて、より輝きを増すものではないだろうか。人物を配置して小説にしたり、起承転結をはっきりさせて、論説文、批評文にしたり。あるいは、アフォリズムを無数に重ねて、小惑星群のようにする方法もある。

個人的には、断章集や警句集は読んでいて疲れる。以前、名言集のような本を好んで読んだこともあったけれども、いまではもうしない。利き酒のように、一度にたくさんの種類を少しずつ飲まされるような感じがするから。

小説でもエッセイでも、ある程度の長さのある文章の中で、はっとさせる一文を見つけたときの悦びが、私には読書の楽しみにもなっている。つまり今でも私は、アフォリズムを探している。好きになりたくないのに、嫌いにはなれない。私にとってアフォリズムは、心に住まう憎みきれない家族のようなものかもしれない。

  又
   アフォリズムは、利き酒のようなもの。美味しそうな酒がすこしずつ、小さな杯に注いである。どれを飲んでも美味しい。もっと飲みたくても、もうおなじ酒はないからほかの杯に手を出す。それを繰り返すと、だんだん酔ってくる。初めに飲んだ酒がどんなふうに美味しかったのかもやがて忘れてしまう。

  又
   アフォリズムは、研ぎすぎた小刀。なんのために、そこまで鋭く研いであるのか。挙句の果てに、どれだけ鋭いか見ただけではわからないから、自分自身に当てて試してみろ、と言われてはかなわない。しかし、他人の刃物を自分にあててみても、自分は何も傷つかない。アフォリズムは、書いた人に対して過剰に鋭い。

だから、アフォリズムは、書いた人にとってのみ意味がある。他人のつくったアフォリズムには感心したり、感電したりしても、結局それは言葉の問題にすぎない。

もちろん、自分が書きなおしたものとして読みなおせば、事情は異なる。そういう事態が一番危険ではある。他人の毒素が混ざっている恐れがあるから。

  又
   アフォリズムが言葉遊びに終わるものなら、それで構わない。そのほうがありがたい。問題は、形式的な技法が表面的な装飾に終わらず、本来、やわらかく、広々とした言葉の世界に人工的な鋭利さだけをともなって戻ってきてしまうこと。この鋭さが言葉の豊かな内実を切り刻み、虚無感を増大させる。

  ニヒリストとユマニスト
   芥川は、「果たして『新生』はあったであろうか」と島崎藤村を難じた。藤村は、「慧敏であることは、もとより多くの人が芥川君に許したところである。もっと君が心の貧しい人であの鋭さを挫いたなら、と思はれないでもない。」と悼んだ

芥川は心が狭かったとは思わないし、藤村だけが憐れみ深い人だったとも言い切れない。芥川にも貧しい心はあっただろうし、藤村にも鋭利な心理はなかったはずはないだろう。

ユマニストがニヒリストを包んでいるのか。それとも真のユマニストは心の貧しさを内に秘めた者であるとすれば、ニヒリストがユマニストを包んでいるのか。

  友人
   断章は言葉遊びに過ぎないかどうか。芥川を真似して、断章を一つ書いてみる。

知人と言えるすべての人間のなかから、自分を馬鹿にする人間と自分が馬鹿にする人間を除くと何人残るか。勇気があれば数えてみるといい。

この断章は私にとって言葉遊びに過ぎないか。それとも、この文章は私にとって表現と言えるか。こういう文章を書き連ねて、何か得るものがあるか。

  芸術至上主義
   読み終えても何一つ読後感をまとめられないでいたため、ほかの作品も読んでみようと、いつもの癖で全集の最終巻を手にとった。『芥川龍之介全集 第二十三巻』は、日録、講演メモ、ノート、手帳、詩歌未定稿などのほか、冷静につづられたようにみえる遺書も収録している。

これもまたいつもの癖で目を通した月報に、詩人の原子朗が「『廃れし路』の彼方に」と題して、散文に生命を賭けた芥川の芸術家としての生き方について書いている。もちろん、原の文章の主旨は、芸術派だから死に至ったなどという短絡的なものではない。ただ、書くということと生きるということの重なり方が以降の作家たちとは異なる、その意味で、もはや現代において、文学とは「失われし道」ではないにしても「廃れし路」であると書いている。

芥川にとって、アフォリズムという形式は、言葉遊びで済まされるようなものではなかったに違いない。また、アフォリズムは、彼にとって芸術表現の一形式以上ではなかったに違いない。芸術至上主義ではもちろんなかっただろう。芸術をすべての上に置くのなら、それを表現する自らの命はその上に来なければならない。

  最期
   芥川について考えるとき、とりわけ『侏儒の言葉』について考えるとき、彼の最期について考えないわけにはいかない。

芥川の最期は、心の交通事故、そう思わないではいられない。現代社会では、誰でもが交通事故に遭う可能性がある。事故を避けるためには一切車に乗らない、車に近寄らないこと。それはほとんど無理な話。車は便利で、現代生活になくてはならない。

それでは事故は避けられないかというと、そういうわけでもない。ある程度、事故に遭遇する確率を低くすることはできる。シートベルトをちゃんと締める、車間距離を十分にとって、スピードを出しすぎない、左右をよく見る、もちろん酒を飲みながら運転するなどもってのほか。そういうことに気をつけれていれば、事故に遭う確率を低くすることもできるし、万一事故にあっても、致命傷を負うことは避けられる。

アフォリズムを書き連ねるということは、文芸上の飲酒運転のように思える。危なすぎる。飲酒運転が言いすぎなら、レーシングカーで走るようなもの。速すぎる。快適な装備は、ほとんどない。運転席は蒸し暑く、視界もよくない。こういう運転をするときにはよほど注意しなければ、一度の事故が致命傷になりかねない。

レーシングカーはサーキットを走るもの。それでは、アフォリズムはどこを走ればいのだろう。

  事故
   レーシングカーがサーキットを走っているかぎり、事故はそれほど多くはない。レーシングカーが公道を走れば事故は避けられない。芸術を生命の上に置けば事故の確率は否応なく高まる。芥川のアフォリズムはそんな無謀な試みではない。理知的で、形式的に逸脱することもない文章は、サーキットをマシンの限界で走り続けている様子に似ている。

現代のレーシングカーは、めったに大事故を起こさない。それでもまったくないというわけではない。マシンの限界と人間の限界に挑むとき、「音速の貴公子」でさえ一瞬の出来事で壁面に激突した。周到に準備した冒険者であっても、冬山に消えてしまうことがある。

彼らはいずれも、準備不足だったわけでもなければ、力量が不足していたわけでもない。まして死んでもかまわないという捨て身で出発したはずがない。

芥川は芸術に殉じたのでもなければ、芸術に負けたのでもない。ましてや俗世を見捨てたのでもなければ、自分を見切ったのでもない、と思う。それは、やはり、事故と呼ぶべき事態だったのではないだろうか。「悲劇」という言い方はしたくない。まして自分で選んだとは

  冒険の準備
   事故、というのは避けられなかったという意味ではない。技術が進歩するとき、そして注意力が十分なとき、その確率は低くすることができるということ。

レーサーがレーシングカーでサーキットを走ることは、整備不良の改造車で公道を走ることとはまるで違う。彼らは危険を楽しんでいるのではない。冒険者もそう。厳寒の山頂や極点を目指していても、彼らはけっして無謀なことをしているつもりはない。万全の装備、周到な準備、何よりも彼らには引き返す勇気がある。 優れた冒険者ほど、冒険は生きて帰るために出かけると言う。

  又
   文芸は思想の冒険、そして思想はスタイルの、すなわち人間そのものの冒険。激しいスピードで走ったり、強烈な重力に押しつぶされそうになったりするかもしれない。耐えきれない寒さや希薄な酸素のなかでも前に進まなければならない。

そんな冒険にでかけるためには、周到な準備がいる。そして、引き返す勇気と、立ち帰る場所がいる。引き返す場所がないのに出発するのは、冒険ではない。

文芸は思想の冒険、とすれば、文芸にあって周到な準備とは何だろうか。引き返す勇気とは何だろうか。


さくいん:芥川龍之介自死


碧岡烏兎