絵本の選び方、読みきかせ方


自分が読む本はたいてい図書館で借りてすますけれども、子どもの本はなるべく買うようにしている。はじめは図書館で借りてみて、気に入ったら買う。同じ本を繰り返し読むことで、絵本が子どもの生活の一部になり、生活に溶け込んでいつか本が心の糧になる、そう期待しているから。

子どもにとって読書は、わらべ歌のようなもの。意味がわかってもわからなくても繰り返し聴いているうちに、歌詞だけでなく、リズムや旋律も身体にしみこんでくる。言葉や文も、いつの間にか覚えてしまう。そうして知らないうちに覚えた言葉が、知らないうちに口をついて出るようになる

気持ちが安心するのも、同じ本を読む効用の一つ。絵本は、寝る前に読みきかせることが多い。一日の終わりに新しい本はあまり聞きたがらない。筋書きから台詞まで知り尽くした文庫本やマンガを手にとってリラックスするのは大人でもすること。

その意味で、絵本はたくさんの種類を読めばいいというものではない。量は少なくても、いい作品を繰り返し読んだほうがいい。これは変わった主張ではない。絵本の出版社が出している案内には、ほとんど必ず書いてある鉄則。


いい作品とは何か。「絵本の古典」「成人を迎えた絵本」を読むといいとよく言われる。20年以上にわたり発行されている作品は、評価も定まっており、安定して人気があるということは、とりもなおさず多くの子どもを虜にしたという証拠でもある。私自身が読んでもらった絵本は、子どもたちも大好き。自分もなじんだ作品なので、読み聞かせながら自分が読んでもらった声が思い出され、こちらもリラックスする。

中には20年どころか30年以上発行されている絵本もある。出版業界は移り変わりがはげしいと言われるけれども、絵本の世界は意外と時がゆっくりと進んでいる。1950年代から60年代に子ども時代を過ごした人は、そこから20年前、30年前の絵本を読むことあまりなかったのではないか。その間では、政治や社会も大きく変わり、かな遣いも異なっている。

私は両親が子どもの頃に読んだ本を読み聞かせられた記憶はない。それに比べれば今、30年前の絵本を読んでも言葉づかいなどに違和感は意外と少ない。

とはいえ20年も時間が経てば、社会の変化に伴いどうしても違和感が残る作品もでてくる。『ちびくろさんぼ』はそのいい例だろう。『ちびくろさんぼ』のように、今は「古典」として人気のある作品でも、近いうちに読めなくなる本もでてくるだろう。

例えば、『いやいやえん』は日本語の絵本としては、古典中の古典。でも、男女共同参画の時代にふさわしくない場面が少なくない。くじらとりに行くのは男の子だけで女の子はみんな留守番だったり、男の子がちゃんばらで女の子はままごとだったりと、遊び方も明快すぎるほど書き分けられている。言葉づかいでの違和感はほとんどないのものの、「ごふじょう」はさすがに古い。いずれ注記が必要になるのではないだろうか。

『おしいれのぼうけん』も、懲罰的な体罰がこれだけ問題にされている以上、誰かが苦言を呈すれば、残念ながら槍玉にあげられてもおかしくないような内容。過去においてどんなに高い評価を得たとびきり面白い作品でも、時代によって評価が変わるのは仕方がないように思われる。なぜなら、子どもは大人のように歴史的遺産として受け入れるとか、差別的な表現だけを差し引くとか、条件付きの読書はできないから。

ただ、願わくは、読者の自発的な選択によって自然に淘汰されてほしい。ヒステリックな非難で強制的に退場させるのは、一時代を築いた作品に対して礼を失している。『ちびくろさんぼ』のような悲劇は見たくない。たくさん楽しませてもらった古い作品に、感謝を込めながら舞台から退いてもらういい方法はないものだろうか。


ところで、絵本を選ぶときには、マンガを手にとらないように気をつけている。今さらマンガが低俗だなどと言うのではない。むしろマンガは難しい。高度な読解力が必要になる。

マンガは絵と字の組み合わせが面白さを作っている。マンガは字だけ読んでも面白くないし、もしフキダシの字がなく絵だけではまったく物足りなく感じるだろう。マンガを読む難しさ、同時に面白さは字と絵とフキダシの三要素をバランスよく眺めて、同時に話の展開を追うところにある。あるマンガであまり上手でない女性の絵を矢印で指して「いい女」と書かれているのを見てあきれたことがある。マンガが言葉で説明したら、マンガではない。

マンガのような絵本はつまらない。つまらないどころか読むことができない。子どもにマンガを読み聞かせようとしたことがあるが、子どもはまずコマ割りに追いつけない。朗読されているのがどこのコマの台詞なのかわからない。そして、フキダシをいつ読んだらいいか、読み聞かせているこちらがわからない。

マンガを読み聞かせるのは馬鹿馬鹿しい。しかし、驚くことにマンガのような絵本は存在する。フキダシがついていたり、地の文とは別に台詞が入っていたりするものもある。どう読み聞かせたらいいか迷うような絵本は、読みたくないので、自然に敬遠してしまう。もちろん、成長とともにマンガも読むようになるだろうし、そのために練習となるようなマンガ絵本があればありがたい。


2011年2月26日追記。

マンガを読む練習になる絵本といえば『となりのせきのますだくん』(武田美穂、ポプラ社、1991)。この文章を書いたあとで紹介してもらった。『ますだくんのランドセル』(1995)、『ますだくんとまいごのみほちゃん』(1997)もよく読んだ。


経験的に言って、面白い絵本には共通点がある。朗読だけでも面白く、絵だけでも面白く、絵を見ながら読んでも面白い。別な言い方をすれば、いい絵本とは字の本でもあり、絵の本でもあり、絵のついた字の本でもある。

絵本について書いてきた最後に、読み聞かせの方法について。紙芝居のように抑揚や声色を使い分けて絵本を読む人もいるようだけれど、私はしない。それは読み聞かせを生活の一部にしたいから。

疲れていたり、少々のどの調子が悪かったりしても平凡な声なら読める。一度抑揚をつけてしまえば、子どもは劇的な朗読をいつも求めるようになり、普通の声で読めば、手を抜いたと思われる。疲れていて断れば、子どもは面白くない。だんだん「読んで」と頼んでこなくなる。

「読んで」と言われたら、いつでも読んでやりたい。そのためにはいつでもできる程度の力で続けるほうがやさしい。もちろん、ふだん話しかけられている声が、子どもを一番安心させると信じているからでもある。


碧岡烏兎