『ちびくろ・さんぼ』のこと


絵本『ちびくろ・さんぼ』が復刊された。自分の考えを整理するために文章をひとつ、残しておく。

この問題は単純ではない。その点が、まず重要である気がする。もとの作品に明白な悪意があるわけではない。そのことをいくら議論しても、結論はでない。つまり、この絵本を読んだだけで、黒人に対する差別や偏見を明らかに助長するわけではない。この作品がたどってきた歴史が、不幸にしてこの作品に差別的な響きを与えている。それは不幸としか言いようのない偶然かもしれない。

以下、私の調べた限り、事実関係を整理する。


原著者ヘレン・バンナマンはスコットランド出身。19世紀末、インドに住み、現地で聞いた民話をもとに自分の子どもに聞かせる話を創作した。

その際、登場する人物名とトラはそのままに、おとぎ話にするためにか、遠く離れたアフリカを舞台にした。

イギリスに帰国の後、バンナマンが子どもに話したお伽話が、作品として出版された。やがて同じ英語圏であるアメリカでも出版された。

ところが合衆国では、インドではありふれた名前だった「サンボ」がアフリカ系の人々に対する蔑称だった。またアメリカで出版された絵本に採用されたフランク・ドビアスの挿絵にも、アフリカ系の人々に対する差別的な固定観念が入り込んでいた。

日本では岩波書店がドビアス版を翻訳して出版し、のちに販売をとりやめた。今回復刊されたものは、岩波書店版=アメリカ版を元にしている。


バンナマン自身にも黒人蔑視の傾向があったと考える人もいる。植民地時代の宗主国の人間であれば、ないほうが珍しいだろう。そのことを追究しても、絵本そのものから悪意ある蔑視は見出せないことに変わりはない。挿絵についても、そこにどれほど差別の意図があったのか、証明は難しい。

問題は、原作者に差別の意図がなかったとしても、作品が辿ってきた道程が、もはやこの作品を差別の問題と切り離すことをできなくしていること。にもかかわらず、その経緯を、まるでなかったかのようにして、岩波版と同じまま、何の説明もなく再販することに私は疑問を感じる。

過去に書かれた作品のなかには、作者に差別の意図はなくても、今の視点では問題になりかねない表現を含むことがある。そういう場合は、但し書きがつく。『ドリトル先生』(ヒュー・ロフティング、井伏鱒二訳、岩波書店)や『ブラック・ジャック』(手塚治虫、秋田書店)は、そうしている。

そうすることで、差別の被害者と感じる人に、出版社が少なくとも差別を感じさせる可能性があることを承知している事実を知らせることができる。それだけでも、ある程度の安心感を与えられるのではないか。そこをきっかけにして差別について考えることもできる。

何も書いていないというのは、どういうことか。出版社は「差別的ではないと判断した」と言っているらしい。ならば、その意見を復刻版に明示すべきではないか


合衆国に暮らしているのではない私には、サンボという呼び方がどの程度差別的か、わからない。程度はわからないけれども、この絵本が、日本だけではなく合衆国で何年も議論の俎上にあること、「サンボ」が今でも差別語であることは知っている。出版社も知らないはずはない。

知っているくせに、「寝た子を起こすな」式に何の説明もなく、過去に問題になった作品をそのまま出版するのはなぜか。「ほとぼりがさめたから」ではないのか。そんな疑問がわく。

日本に住んでいれば、黒い肌の人と接する機会はそれほど多くはない。多くの子どもにとっては、この絵本が有色人種の人との最初の出会いになるかもしれない。そうして育った人が、いつか肌の黒い友人ができたとき、「黒い肌の人といえば『さんぼ』だよね」と言ったら、相手はどう思うだろうか。

こちらの言っている「さんぼ」に悪意はなくとも、むこうが受ける「サンボ」には、悔しさや怒りがあるかもしれない。そのとき、「知らなかった」では取り返しのつかないことになりかねない。


多くの人は、懐かしさから買うのだろう。しかしその懐かしさは、思考停止と同義語ではないか。自分が楽しんだ思い出だけを抽出し、この作品が抱え込んでしまった複雑な歴史や状況を忘れ、そこからさまざまな思いをめぐらす人がいるかもしれないという想像もしない。そのうえ廃刊復刊について議論や紆余曲折があった事実にも目を向けず、自分の思い出だけに寄りかかる。

こういう心理状態が実は差別や偏見の温床になっているように私には思える。そして、何の解説もない復刻絵本は、そういう心理を助長しているように思えてならない。