1/18/2004/SUNWe're Going on a Bear Hunt (1989), written by Michael Rosen, illustrated by Helen Oxenbury, Alladin Paperbacks, 2003WHERE THE WILD THINGS ARE (1963), Maurice Sendak, Harper Collins, 1988Starry Messenger (1996), Peter Sis, A SUN burst Book / Farrar Straus Giroux, 2000出張先で立ち寄った大型書店で購入。日本語版の『きょうは みんなで クマがりだ』(山口文生訳、評論社、1991)と『かいじゅうたちのいるところ』(神宮輝夫訳、冨山房、1975)はもっている。どちらもリズミカルな言葉遣いが気に入っているので、原文がどうなっているのか読んでみたくなった。 “We're Going on a Bear Hunt”は、わらべ歌をもとにした絵本。擬態語が繰り返して登場する。擬態語は、第二言語を学ぶ時にもっとも難しい分野。単語としては覚えられても、なかなか感覚としては身についてこない。本書でも、地の文はともかく、擬態語の部分は日本語のほうがしっくりくる。 ポストモダン絵本の古典“WHERE THE WILD THINGS ARE”のペイパーバック版には“40th Anniversary”とステッカーが貼ってある。センダックの絵本を買うのは、実ははじめて。 以前から最後の「まだ ほかほかと あたたかかった。」の原文が何であるのか気になっていた。読んでみると“it was still hot”。あっさりしたもの。英語しか使わない人にはこの文で、「ほかほかとあたたかい」というニュアンスが伝わるのだろうか。 松任谷由実のアルバム『悲しいほどお天気』が、“Grey Sky”と英訳されていることを知ったときにも、物足りないような、そんなものかもしれないと納得するような、不思議な気持ちになった。 この「ほかほか」という擬態語の意味合いについて考えると、私の言葉の世界の中で日本語が重要な部分を占めていることを思い知らさせる。 ここから、日本語が英語に比べて、情緒的な言語であることもわかる。“still hot”が「まだあつい」ではなく「まだ ほかほか」になるように、“wild things”は「野生の生き物」ではなく「かいじゅうたち」になる。 翻訳は何でもそうかもしれないけれど、絵本ではとくに、一つ一つの文ではなく、絵本全体の世界を翻訳する難しさがあるように思う。子どもは、もともと別の言葉で書かれた本として接するのではない。言葉をかえれば、日本語の絵本は、もとが何語であろうと、日本語としての完成度が求められる。その意味で、これら二冊は、英語の絵本としてはもちろん、日本語の絵本としても傑作といえる。 “Starry Mesenger”は、日本語訳の『星の使者』(原田勝訳、大川修 手書き字、徳間書店、1997)を昨年読んだ。この絵本では、手書き文字が多用されている。シス本人が書いたと思われるアルファベットの手書き文字は、かなり読みづらい。日本語版では、あらためて別の人に日本語の手書き文字を書かせている。読みやすく、原文の気配も伝わる。絵本としては、こちらのほうがよくできているように感じる。 この背景には石川九楊が指摘する、文字の美しさにこだわるアジア書字文化があるのかもしれない。その一方で、原文の地の文に使われている活字も美しい。アジア系の手書き文字の美しさ、西欧系の活字文字の美しさ。英語版と日本語版とには、そうした違いも現れている。 さくいん:マイケル・ローゼン、モーリス・センダック、ピーター・シス 1/25/2004/SUNTHE BICYCLE MAN, Allen Say, Parnassus Press, 1982年が明けてから、初めて図書館へでかけた。北米への出張でせっかく英語に慣れたので、続けて英語の絵本を借りる。昨年の春に読んだUri Shulevitz, “The treasure”を借りなおし、拙い和訳になっていた引用文を英語の原文に戻した。優れた翻訳を読むのは楽しい。としても、自分で読むときは、訳さず読めるものはあえて訳す必要はない。 セイの作品は、これまでにも読んだことがある。本書は、『おじいさんの旅』(ほるぷ出版、2002)をはじめとする日系米国人を描いた一連の作品より以前に書かれた作品。16歳で日本を離れ、今もサンフランシスコに暮らすセイが少年時代の運動会の様子を回想している。 のちの『おじいさんの旅』に比べると、この作品は、少年時代の素描にすぎないようにみえる。運動会に闖入する米兵は、自転車の曲芸をみせて、帰っていく。異文化は通り過ぎるだけ。作者はそこへ侵入していくのでもなければ、異文化のほうでも自分に浸透するわけではない。確かに彼が日本生まれで16歳までそこで過ごしたことは、裏表紙に略歴として書かれている。『おじいさんの旅』を知っているいまでは、彼の祖父が日米を往復した後、戦争前に日本に定住したこと、そのことがおそらく、セイの異文化に対する感性に少なからず影響を与えていることがわかる。 作品の周辺の情報を知れば、作品をよりよく知ることができる。その一方で、そうした情報を必要とせず、作品だけで読者に訴える力が、作品の真の力ともいえる。私がはじめて読んだセイの作品、『おじいさんの旅』は、他の恒星を必要とする星座の一部ではなく、それだけで強い引力を放つ惑星のような作品。 しかし、そういうことはすでにセイの作品をいくつか知っているからいえること。仮に、この作品が、最初に出会った作品だったらどうだろう。『おじいさんの旅』には描かれてはいない、この作品にしか書かれていない魅力を発見できたかもしれない。作品の受け止め方は、出会った順序や出会い方で違うもの。つまり、人それぞれ。それでは、作品それ自体がもつ価値はどうなる。いつもの疑問へ戻ってしまった。 あとになるほど作品では笑顔をめったに描かなくなるセイ。遠い少年時代を振り返るこの作品では笑顔が多い。なかでも恩師、Morita Senseiの笑顔は格別。本書は彼女に捧げられている。やしまたろう『からすたろう』も、小学校の先生に捧げられていた。 故郷を遠く離れた表現者は、故郷というと、まず幼いころの恩師を思い出すものなのだろうか。 1/31/2004/SAT国際理解に役立つ よくわかる世界の宗教 イスラム教(Muslim)、Richard Tames、堀内一郎訳、岩崎書店、19991月4日の雑記に、宗教について日ごろからもっている疑問を書いた。 多くの人々をひきつけている、いわゆる世界宗教のなかで、自然破壊や殺人を奨励している宗教などあるだろうか。個人の内面がひとり神と対峙することを禁じて、集団に帰属することだけを迫る宗教があるだろうか。 反語のように書いておきながら、多くの人々を信じている、いわゆる三大宗教のうち、イスラム教については偏見になるほどの知識さえないことに気づいた。カーバ神殿への巡礼を取材した写真集は見たことがある。そのときも、おびただしい人の群れに驚いただけ。 子ども向けの入門書を見ると、基本的な知識は得られる。偶像や教会を通じてではなく、神との直接的な交流に主眼があること、貧しい人に施しをすることが重きをおいていること、などがわかる。天文学と深い関わりがあることは、『ルバイヤート』の解説にも書かれていた。 わかりやすい本だけれども、何かものたりない。理由は、子ども向けだからというわけではない。題名にはっきり表れているように、この本はイスラム教を知識として、それも自分とはかけ離れた存在としてしかとらえていない。仏教やキリスト教については、それぞれの教典をやさしく説いたものや、説話集、過去の偉人、聖人の伝記も数多くある。図書館の児童書棚にも置かれている。 イスラム教について、ムスリムが日本語で書いた本はなかなかない。外から見て知り国際理解に役立てようという本がせいぜい。内在的な理解に学ばなければ、外在的な知識にとどまる。それでは偏見も生み出さないかもしれないが、理解にもつながらないような気がする。 2/1/2004/SUN教えて!21世紀星空探検隊1 宇宙探検 そこが知りたい! 宇宙の秘密、藤井旭、偕成社、2002教えて!21世紀星空探検隊9 秋・冬星座図鑑 もっと知りたい秋・冬の星座、藤井旭、偕成社、2002写真絵本『よくわかる世界の宗教 イスラム教』と正反対で、新しい天文絵本はかなり本格的。『宇宙の秘密』は、文章はやさしくしてあっても、用語はそのまま。クエーサー、ジェット、ダークマスターなど、新しい研究成果も説明されている。 物理化学は苦手で興味もない。でも星の話は好き。ところが宇宙の話は必ず物理化学の話になる。とくに宇宙のはじまり、さらに「無のゆらぎ」と呼ばれるはじまる前の話となると想像を絶する。 宇宙の絵本を借りてきたのは、イスラム教が天文学と関わりがあると知ったからではない。都会でも冬の夜空はきれいなので、オリオン座以外も探してみようと思ったから。おかげでオリオン座のベテルギウス、こいぬ座のプロキオン、おおいぬ座のシリウスからなる「冬の大三角形」がわかった。『イスラム教』に、アラビア語で信徒を表わすと紹介されていたおうし座のアルデバランも見える。 星を見上げていると、ギリシア神話も読んでみたい、宇宙の起源ももう少し知りたい、とも思う。頬が冷たくなってくると、本などいいから、いまはきれいな星空を黙って見ていようとも思う。寒い公園に立って星座を見ていると、だんだんぼんやりしてくる。 白鳥座やカシオペアがきれい 輝く夜の星座たち この曲はライブ・ビデオ『MORITAKA CHISATO 1997 PEACH BERRY SHOW』のオープニング曲にもなっていた。 「何も考えずに」というところが、ほんとうに森高は何も考えていないようでいい。 2/21/2004/MONきんいろのしか バングラデシュの昔話、Jalal Ahmed Sheikh案、石井桃子訳、秋野不矩絵、福音館書店書店、1968昔話や民話は思いもよらない結末が少なくない。予想を裏切る展開が爽快。本書の終わり方も、そう。読みながら想像してしまう結末とは違う。 さわやかな結末。むしろ、あっさりすぎるかもしれない。そう思うのは物語のせいではなく、自分の俗物根性のせい。この絵本は、それに気づかせてくれるけれど、洗い流すことまではしてくれない。 本が元気をくれるわけではない。元気になるのは、自分。本が大切ななにかを教えてくれるわけではない。気づくのは自分。気づいたのに忘れるのも自分。気づいて何かを変えはじめるのも、自分。 絵は穏やかで、文章は読みやすく、のびのびとしている。私には郷愁さえ感じさせるけれども、いかにも国語の教科書のような作品にも、受けとられるかもしれない。今の感覚からみれば、堅苦しすぎるだろうか。こういう教養主義的ともいえる文体が、私にはひどくなつかしい。 4/11/2004/SUNふしぎなたいこ、石井桃子文、清水崑絵、岩波書店、1975百まいのきもの(The Hundred Dresses)、Erenoa Estes文、Louis Slobodkin絵、石井桃子訳、岩波書店、1954
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