去年の夏休みは、奈良と大阪へ旅した。今年は、春先に長い旅行をしたので、遠出はしなかった。かわりに、近くでこれまで行かなかったところへ行ったり、したことがなかったことに挑戦してみたりした。
近所といえば、今年の夏は、「き」ではじまる出来事が多かった。キャンディーズ、キャッチボール、金城哲夫、キレンジャー、機関車、恐竜、餃子、きもの、切り通し、それから、きもだめし。
以下、感想は無理にまじえず、思い出すまま書き残しておく。
キャンディーズ
キャンディーズ 2000 BEST、ソニー、2000
決定版 ザ・ピーナッツ、キング、1994
アコースティック・ヤマト、宮川彬良・平原まこと、コロムビア、2005
劇場版 宇宙戦艦ヤマト(1977)、西崎義展製作、松本零士原作、舛田利雄監督、バンダイ、1990
夏の背景音楽は、キャンディーズだった。夏休みのはじめ、テレビで特集番組を見た。数々のヒット曲と後楽園球場の解散コンサート。懐かしいというよりは、メロディも歌詞も覚えやすくて新鮮な気がした。子どもたちも一度で歌詞や振り付けまで覚えてしまった。とくに「春一番」「夏が来た!」など、横文字でサビを作らない穂口雄右の作品は、親しみやすい。
図書館には、キャンディーズの古いアルバムもある。初期の『なみだの季節』(ソニー、1974)には、「グリーン・グリーン」や「帰らざる日々」のようなフォーク・ソングも収録されていて、当時流行していた音楽がわかる。
夏休みには、ザ・ピーナッツの特番も見た。こちらはヒット曲の「恋のバカンス」と「恋のフーガ」を除くと、ムード歌謡の趣きで今の子どもには馴染まない様子。同時代に聴いていなかったのに、私にはなぜか懐かしい。きっと宮川泰の音楽に馴染みがあるから。
番組は、アイドル・グループの先駆者を回想しながら、その育ての親だった宮川泰を追悼する。宮川自身が解説してみせた「恋のフーガ」(作曲はすぎやまこういち、宮川泰編曲)のティンパニは、『交響組曲宇宙戦艦ヤマト』(1977、コロムビア、1995)の「出撃」でも聴ける。
アニメ・童謡の棚で、宮川彬良・平原まこと『アコースティック・ヤマト』(コロムビア、2005)を見つけた。息子から父親へのトリビュート・アルバム。宮川彬良は、子ども番組「夕方クインテット」でなじみがあるし、去年は暮れに「マツケン・サンバ」をよく聴いた。
アルバムではボサノバ風に編曲されている、ささきいさおが歌っていたテレビ版『宇宙戦艦ヤマト』の後主題歌「真っ赤なスカーフ」は、ザ・ピーナッツ「ウナ・セラ・ディ東京」を下敷きにしていると書かれていた。「ウナ・セラ・ディ東京」は、知らなかった。この解説を読んでからザ・ピーナッツの番組を見たので、宮川メロディーに不思議と懐かしさが倍増したのだろう。
『宇宙戦艦ヤマト』といえば、この夏、冥王星が惑星でなくなるというニュースを聞いたとき、最初に思い出したのが冥王星にあったガミラスの前線基地。地球を真っ赤な星に変えた遊星爆弾の発射基地があった。
地球か、何もかもみな懐かしい
ふと、そんな台詞も思い出して、30年前のアニメ映画を借りてきて見た。
キャッチボール
野球(小学生・スポーツ全集1)、梅本二郎監修、北村唯志、ポプラ社、1987
5月の連休に道具を買ったときはおっかなびっくりだったグラブさばきも、次第にさまになってきた。朝は日陰がなくなるまで、夕方は暗くなるまでただただ投げ合う。少し上手になると単純な動きで十分に楽しい。キャッチボールをしていると、中年以上の男性はほぼ全員足を止める。しばらく立ち止まって眺めている人もいれば、後逸したボールを拾ってくれる人もいる。サッカーボールを蹴っていても、こういうことはない。
日本の戦後文化、男性文化のなかで、野球が広い裾野をもっていたことを実感した。事態はおそらく、すでに「いた」と過去形で言うべきだろう。夏の甲子園にオールスター・ゲーム。今年はいつになく、野球の話題は多かったけれど。
ビリー・ジョエルが十代のころを歌った“Keeping the Faith”には、草野球が必修科目だったという歌詞がある。私も辛うじてそういう世代に入る。はらっぱに行けば、誰かが野球をやっているという時代では、いまはもうない。
今では、野球やサッカーはクラブ・チームで、水泳はスイミング・スクールで、ピアノは音楽教室でするもの。いつの間にかはじめていて、暗くなったらやめる、そういうものが少なくなっている。草と名前につく遊びが減っている。
蛇足を承知で書けば、哲学や思想も、自力で身につけるものではなくて、学校で学ぶものと思われている。草哲学や草思想のようなものを見かけることはめったにない。そもそも書店にあるものは、すでに草ではない。
私自身、そういう抗えない波のなかで育ってきた。川で裸になって泳いだこともないし、野球をはじめたときも、グローブは店で売っていたものだった。
通りがかった男性が少年チームに誘ってくれた。お揃いのユニフォームで試合をする姿はかっこいい。でも、低学年の子どもが監督の怒声を浴びて走る姿は痛々しい。
以前、感動するとすすめられて映画『フィールド・オブ・ドリームス』を見たとき、結末に感動するどころか、意味もよくわからなかった。私自身はキャッチボールにそれほど思い入れがなかったかもしれない。いまになって、なるほど、こういうことだったのかと、小さなグローブめがけてボールを投げ込みながら思う。
当分はこのままでいい。いまは野球をしたいわけではない。キャッチボールがしたい。いつか、「夢の球場」でもできるように。そのときもきっと、おそろいの55番のシャツを着ているだろう。
図書館の廃棄資料、リサイクル文庫に、うまい具合にルールや基本動作を解説した本があった。野球中継を見ながら、本を読んでいると、外に出たくなってくる。
新しく何かに興味を持ったら、昔ならまず、小学館の入門シリーズを手に取っていた。そんなことも思い出した。
最近では、絵本とゲームの攻略本が増えたために、入門シリーズのほかにも、学研のひみつシリーズのような小学生向けの本を書店であまり見かけなくなった。
金城哲夫
不滅のヒーロー・ウルトラマン展、世田谷文学館
今年は、ウルトラマン誕生40周年。それを記念して円谷プロの地元、世田谷文学館で開かれている展覧会「不滅のヒーロー・ウルトラマン展」を見に行った。
再放送がはじまった『セブン』も、新しい『メビウス』も欠かさずに見ている。部屋には、マグマ星人にゼットン、ウーとキング・ジョー。遊園地では、まっさきに科学特捜隊のビートルを模したライドに乗った。ウルトラマンは、すっかり生活に溶け込んでいる。
展示は、シナリオや撮影道具、実際に使われた着ぐるみ、各時代のおもちゃなど。
大人の目に面白かったのは、金城哲夫の自筆ノートや、シナリオ初稿。「史上最大の侵略 後編」でダンが告白する場面、番組ではシューマンのピアノ協奏曲が流れる。シナリオには、一言「ガーン!」。この脚本に音楽、演出、そして俳優の演技が加わり、映像化された。大河の源を見たような気がした。
展示は子どもの目には少し難しいのか、とまどった顔をしていた。撮影風景の写真やシナリオには興味を示さない。それどころか目を背けているようにもみえる。
前にも、こういうことはあった。不安そうな顔で、ダンとセブンがなぜ同じ写真に写っているのか、聞かれたこともある。いまは、もう質問もしなくなった。
聞けば、自分が望んではいない答えが返ってくることを予感しているのかもしれない。つまり、半分はもう知っている、ウルトラマンは作り話に過ぎないことを。
ウルトラマンが存在すると信じられる時期を過ごした人は、それだけでも幸福だろう。初めからドラマと思ってみるのとでは、あとでもう一度見たときの感動もきっと違う。
ウルトラマンが創られた作品とわかったとき、それは夢が終わるときではない。それを生み出すために人々が尽くした誠意のなかにウルトラマンが存在していると思うようにもなれるだろう。
そうすれば、ウルトラマンが体現しようとした勇気や献身も、この世に存在すると信じることができるかもしれない。
キレンジャー
秘密戦隊ゴレンジャー(1975-1977)Vol.1、石ノ森章太郎原作、上原正三脚本、渡辺宙明音楽、東映、2003
ウルトラマン40周年の今年は、戦隊ヒーロー30作品の年でもある。30周年ではなく30作品というのは、最初の作品の『ゴレンジャー』だけは一年以上続いたから。
去年の夏、特撮ヒーローの音楽をまとめて聴いたとき、とくに好評だったのが、「進め ゴレンジャー」。威勢がいい音楽で、一度聴いたら耳から離れない。
穂口雄右の歌と同じように、「進め ゴレンジャー」にも横文字がまったくない。作詞は原作者の石森章太郎となっている。作曲の渡辺宙明は、『マジンガーZ』『キカイダー』、大好きだった『アクマイザー3』の音楽も担当したという。
渡辺宙明は渡辺俊幸の父親ということも知った。渡辺俊幸は、さだまさし「夕凪」(『帰去来』、ワーナー、1976)の作曲者。1979年の暮れにテレビで見たコンサートにも、今年夏の稲佐山でのコンサートにも出演していた。意外なつながり。
歌を覚えて興味をもったか、繰り返す思い出話に気を使ったのか、『ゴレンジャー』を見たいと言い出したので、レンタル店でDVDを借りてきた。
ドラマは、時代劇と刑事ドラマと子ども番組をうまく混ぜ合わせている。当時見ていた子どもにとって、大人向けの時代劇や刑事ドラマを見るためのいい練習になっていたに違いない。
そう考えると、時代劇と刑事ドラマをパロディにした『特捜戦隊デカレンジャー』は、ある意味、コロンブスの卵だった。
最近のヒーロー番組は、先行作品や大人の視聴者を意識しすぎているのか、物語も音楽も複雑すぎるような気がする。思い切って過去の人気作品をリメイクしてみたらどうだろう。脚本や音楽はそのまま、演出と特撮を新しくすれば、新旧のファンが喜ぶのではないか。
ところで、以前からキレンジャーはカレーの食べすぎで死んだと半ば都市伝説のような噂を聞いていた。確かに劇中キレンジャーは殉職している。ただし、亡くなったのは初代キレンジャーの大岩大太ではない。
その大岩大太は劇中では二代目殉職後、キレンジャーに復帰しているが、番組終了後に亡くなっていた。死因は、カレーの食べすぎではなかった。
そういうことも、この夏、知った。
機関車と機械人間
海底超特急マリンエクスプレス(1979)、手塚治虫原案、出郫哲監督、大野雄二音楽、手塚プロダクション、パイオニアLDC、2002
27年前の1979年、日本テレビの『24時間テレビ』内の特番として放映された作品を、図書館の視聴覚棚で見つけた。「愛は地球を救う」の題目と直接には関係ないけれど、人間とは何か、生命とは何かといった手塚作品に一貫する主題に加え、エコロジーや環境破壊も視野にある。
何と言っても面白いのは、『ブラックジャック』同様に、手塚治虫が生み出してきた人気キャラクターが総出演していること。B・J、ヒゲオヤジ、アトム、ランプなどなど。
人間に奉仕するためのロボット、機械化する人間と人間化するロボットの矛盾、ばら色の未来、その先にある科学技術の破綻、それとは対照的に一見幸福そうに描かれる未開社会。どこをとっても手塚治虫。
音楽は、大野雄二。同時期の『ルパン三世 カリオストロの城』と同じ音色。宮崎駿と手塚治虫の意外な交差点を見つけた。
驚いた拍子に床を突き破ったり、顔から目鼻が落ちたり。大げさなギャグは、当時は少し時代遅れに見えていたかもしれない。『ヤマト』にしろ『ガンダム』にしろ、一見するとコミカルにみえる『ルパン』でさえ、非現実的なアクションはリアルな描写を基にしている。いま見ると、これも手塚アニメならではの演出で面白い。
夏休みの終わり、宮崎駿の劇場版『名探偵ホームズ』(1984、ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント、2002)を見た。話を聞きながら椅子を食べてしまうワトソンの演出に、手塚アニメの名残を見た気がした。
恐竜
国立科学博物館、東京都台東区
恐竜に興味をもつようになったので、混雑しているスーパーサウルスの展示は避けて老舗の博物館へ。ティラノサウルスの骨格でも十分に迫力がある。
大型哺乳類の剥製の展示が変わっている。生態系を再現したジオラマではなく、木の床のうえにオオカミからバイソンまで陳列されている。ただ並べてみせるという発想が、きわめて博物学的。
随想「森有正エッセー集成 索引について」のなかで、「山奥につくられた人造湖の底まで、遥か彼方からの宇宙線が降り注ぐように」と書いたのは、新館地階の宇宙・物理・化学の展示室でスーパーカミオカンデの模型を見たから。
歩き回って疲れてしまい、日本の科学技術史の展示は見残してしまった。それでも、零戦21型だけはひとまわりして眺めた。零戦は機体は三菱で、エンジンは中島飛行機。展示の機体はカウルを外して、中島製の栄エンジンをむきだしにしていた。
ほかには、蘭学者が使った木製の骨格模型だけを急ぎ足で見て帰った。
餃子
この夏、一番の遠出は宇都宮だった。遠出といっても、クルマで日帰り。夕方、名物と言われる餃子に誘われた。ところが有名店ではすでに売り切れ。
仕方なく、家の近くまで帰ってからラーメン屋で餃子を食べた。この店の餃子は東京の無形文化財に値すると私は信じている。
夫婦で切り盛りする、カウンターだけの小さな店。はじめて来てから、もう15年になる。住まいが遠くなったり、子どもが小さかったりして来られない時期もあった。ようやく食べたいときに来られるようになった。
この店は、ラーメンと餃子のほかにも、レバニラライスが美味しい。いつもバカボンのパパになったつもりで頼む。
頻繁にではないにしても、定期的には来ていたので、顔は覚えられている。といっても世間話をするわけでもないし、特別なあいさつも、もちろんサービスもない。はじめて来たときと店の様子も、店主の応対も変らない。こういう醒めた関係が、長続きする理由かもしれない。目が合うと、ほんの少し微笑する。
山口瞳は、愛想のよすぎる店には通わなくなると書いていた。
文豪の通った店に興味はない。でも、一人の人間がどんな風にある店を愛したのかということには興味がある。
はじめて味の文化財を口にして、思わず声をあげる人もいる。美味しく食べて、お代をつけにしないこと。それを三回続ければ、もう立派な常連客とも、山口瞳は書いていた。
きもの
男の着物人生、始めませんか、泉二弘明(もとじこうめい)、リヨン社、2003
銀座もとじの男のきもの (別冊家庭画報 きものサロンMOOK)、泉二弘明監修、世界文化社、2005
島崎藤村や西田幾多郎の和服姿の端然とした肖像写真を見て、すこし着物に興味をもつようになった。調べてみると、男の着物がいま静かなブームらしい。
着物姿で印象に残っているのは、文豪たちのほか、ロサンジェルスの近代美術館で根付の展示のわきにあった着流し姿の男。根付の使い方を紹介するための写真だった角刈りの男の後姿は、ただ者ではない、もっと言えばとても堅気には見えない雰囲気があった。
いま、着物というとヤクザか結婚式か温泉旅館か、そうでなければ観光客の土産か。生活からだいぶ離れていることは間違いない。
ムックの連続写真を見ながら浴衣を着て、夏祭りに行ってみた。玄関先でこそ風情を感じるものの、次第に足元や袖口が暑苦しくなってくる。明治人と私とでは、身体感覚にかなりの距離があることをあらためて感じる。
男の和服ブームを仕掛けている呉服屋店主の本を読んでいたら、偶然、日本舞踊の公演に誘われた。行ってみると、館内は和服姿の人ばかり。和服が生活に根ざしている人もまだまだいる。
日本舞踊の公演で目を奪われたのは、踊りではなくて音楽だった。歌舞伎を見たとき遠くから簾の向うにいる囃子を聴いたことはあったけれど、舞台のうえから直接聴くのははじめて。楽器も声も、生は迫力が違う。これまでラジオでも邦楽になるとチャンネルを変えていたけれど、これからはラジオの音でも、この日のことを思い出してしまいそう。
一度、何かに興味をもってその世界に踏み込むと、不思議なことに、次々と出会いが続く。NHKの公開番組「らいぶ館」で、村治佳織と渡辺香津美を録画するつもりが、一日間違えてしまった。撮れていたのは、浪曲界のプリンスこと、国本武春の「ザ・忠臣蔵」。
ロックの演奏を取り入れ、朗々と歌いあげる。一つの死は終わりではない。一つの死から始まった壮大なドラマ。この演目は、あとで大阪へ向かう機内番組でも聴いた。
翌日録画しなおした村治佳織の出演番組では、はじめて“Sunburst”を演奏する姿を見て、これにも満足した。
きものといえば、今年の夏、『百まいのきもの』(“The Hundred Dreses,”1944, Eleanor Estes文、Louis Slobodkin絵、石井桃子訳、岩波書店、1954)をはじめて読み聞かせた。今訳しなおせば、間違いなく「百枚のドレス」となるだろう。
原作初版は、1944年、石井桃子による日本語版は、1954年。手元にあるのは、私が生れた年に印刷されたもの。何度も読んだわけではないので、あまり汚れてはいない。見開き裏に名前が書いてある。絵本は古いけれど、物語は古くない。加害者は最後まで被害者の気持ちがわからないという絶望的な一面も描く。何度も読み返した本ではないけれど、いつまでも忘れることがない。
七五三でもきものを着たことのない私にとって、きもの原体験は、dressの古い訳語にあった。
切り通し
花をたずねて鎌倉歩き 春夏秋冬8コース、唐島江里子、学研、2005
鎌倉には、何度も行ったことがある。でも、これまで花や庭に関心はなかったし、鎌倉時代にもあまり興味がなかったので、何となく海を見たり、有名な場所を通り抜けるだけだった。
この数年の読書で、鎌倉に対する見方もずいぶん変わった。前と違う気持ちで鎌倉を歩いてみたくなり、新しい、花を中心にした案内書を借りてみた。
久しぶりの鎌倉は、中世につくられた古道、いわゆる切り通しを歩いていった。気温が高くても、木陰の山道は気持ちがいい。炎天下に石段を上った大阪城とはだいぶ違う、さわやかな思い出になった。
建長寺では、きれいな蓮の花を見ることができた。仏殿にあった、ふくよかな鎌倉仏と対照的な、痩せぎすのガンダーラ仏も記憶に残る。目的を果たして、気分はいい。
ところが、欲張って山上の天狗像を見ようとしたら、階段はきつく、日差しはまぶしくて難儀した。しかも、山上から北鎌倉へは下りることができず、上ってきた来た階段を笑いそうな膝で戻るしかない。
東慶寺の前を歩くころはすっかりくたびれて、誰の墓参もせずに帰った。
きもだめし
修正義に学ぶ——禅に生きる五章(1986)、佐藤俊明、大法輪閣、2006
曹洞宗 お彼岸・お盆・ご命日のお経 家庭で出来る法要、前川博邦 クラウン、1980
日常のおつとめ 曹洞宗(修証義全文)、大本山永平寺、ポニー・キャニオン、1990
夜の墓場へ行った。西の空が薄い紫色になるころから、提灯の灯りがないと歩けなくなるころまで、じっと待つ。次第に人が集まり、あいさつを交わす声があちこちで聞こえ、あたりはにぎやかになる。街はずれの寺、暗い墓地に、人影と提灯の灯り。誰もいない墓地よりかえって異様な雰囲気がする。そのうちドラがなり、読経の列が練り歩く。
聞こえてくるのは、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」。私にはもっと耳に馴染んだ経がある。『修証義』。十代のはじめ頃、今では怖くて思い出せないほど激しい気持ちで、この経文を何度も聞いた。だから今でも出だしの部分だけは覚えている。
生をあきらめ死をあきらむるは仏家一大事の因縁なり
生きることを諦めることは、人間らしく死ぬことを諦めることと同じ。そしてそれは仏の道に背いている。勝手にそう解釈していたけれど、ほんとうの意味は知らなかった。因縁という言葉も、悪い言いがかりのようにしか聞こえない。
いつまでも忘れないでいる言葉の意味を知らないでいるというのもおかしな話。今頃になって、意味が気になりだした。
書店の宗教の棚で、手ごろな入門書を見つけた。『修証義』が編まれたのは、明治23年(1890)。曹洞宗開祖、道元の主著『正法眼蔵』を抜粋したものという。道元の名前は森有正の日記にもあった。晩年にはフランスの学生と『正法眼蔵』を読んでいる。
また、ひとつ、つながった。
冒頭の「あきらめ」は「諦め」ではなく、「明らめ」、すなわち究明すること。生きることと死ぬことの意味を知ることが仏の道。耳が覚えていた幼い解釈は、まったく違っていた。ところが、読みすすめていくと、それほど的外れでもないらしい。
図書館には読経のビデオやCDもある。ビデオは二人、CDは一人での読経。宗派や読む人によってリズムや息遣いが少しずつ違うらしい。ビデオのほうが、私の記憶にある「修証義」に近い。全面にカラオケのように大きな文字が色を反転させながら進んでいく。意味はわからなくても、聞き覚えのある響きが記憶の底に眠っていた風景や顔色や声を甦らせる。
きもだめしのつもりで行ったのに、まるで怖がる様子はなかった。『ゲゲゲの鬼太郎』もテレビでやらない時代では、もう墓場も怖いところではないかもしれない。墓とは何かを知らなければ、怖がるわけがない。
自分が会ったことのない先祖について、その人を知っている人から聞くのは不思議な体験だったろう。目を輝かせて、質問を繰り返していた。
墓場で『鬼太郎』を思い出したのは、昔のテレビ番組を見たからではなくて、図書館のリサイクル文庫で水木しげるが少年時代を回顧した『のんのんばあとオレ』(ちくま少年図書館、1979)をもらってきたから。
ほかにも同じシリーズから、松田道雄『恋愛なんかやめておけ』(1977)、福本武久『新世界に学ぶ 新島襄の青春』(1985)、宇佐美承『真実と勇気の記録』(1977)。懐かしい本、まったく新しい本、最近、知った作家が昔書いた本、。懐かしいシリーズでいろんな本をもらってきた。装丁を見ていると、図書館で背表紙を眺めていたころを思い出す。
夜のバイパスを走り抜けて帰り、盆帰りの行事は終った。行事の名前は、墓施餓鬼。