土を掘る 烏兎の庭 第三部
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2008年7月


7/26/2008/SAT

「新約聖書」がわかる。 (アエラムック (40))、「キリスト教信仰」という名の電車、大貫隆、病気・現代医療から見る悪霊とイエスの癒し、平山正実ほか、朝日新聞社、1998

支倉常長像(国宝)、仙台市博物館、宮城県仙台市


「新約聖書」がわかる。

夏が来た!

夏休みがはじまった。今年は去年のような長い旅行はせず、小さな予定をいくつか入れた。

最初の連休には、日帰りで仙台へ行った。目的は、仙台で生れた赤ん坊を見ること。松本竣介佐藤忠良の作品を所蔵する宮城県立美術館は改装で残念ながら閉館中。涼しくてゆっくり話せるところを探して、博物館の喫茶店で会った。

仙台市博物館には、国宝にも指定されている、支倉常長が残した慶長遣欧使節団関連の資料がある。旅のもう一つの目的は、よく知られた支倉常長の肖像画を見ることだった。

天を仰いで祈りをささげている肖像画。よく見ると常長は仏教寺院でするように指を伸ばしたまま手を合わせている。当時はこんな形式の礼拝だったのだろうか。


いつからだろう、夜、目を閉じる前に聖書を開くようになった。気になるところを英語版とフランス語版で読みなおし蛍光ペンを引いている。ほかに枕元に置いてあるのは、『眠られぬ夜のために』(1901、Carl Hilty、草間平作・大和邦太郎訳、岩波文庫、1973) 『キリストにならいて イミタチオ・クリスチ』(1973、由木康訳、2002、教文館)

私の拙い理解では、キリスト教の本質は、古い少年漫画の台詞を借りれば「お前はすでに救われている」となる。しかし、同時に「お前は救いようのないほど罪深い」という言葉も同じようにキリスト教の教義のもう一つの一面を表わしている。

これまでの私の限られた読書からは、これらの二つの言葉がどう結びつくのか、よくわからない。コインの裏表なのか、並列であるのか、往復や循環する運動なのか。何にしても、この二つの言葉を結びつける蝶番の役割を、イエス・キリストという存在が果たしていることは想像がつく


正直なところ、聖書を読んでも、イエスという人物には私はあまり興味がわかない。私が引きつけられるのは、イエスの死後の人びと、弟子やたちやパウロなど、イエスを知っていた人たちの生きる姿勢の変化。

おそらくこのような関心の持ち方は、遠藤周作『キリストの誕生』(新潮文庫、1982)に負うところが大きい。

思うに、キリスト教がほかの宗教と大きく違う特色は、一人の人間の生と死の意味について、二千年近くも、ずっと考えつづけていること。

ある人はイエスは復活したと言い、ある人は彼は神の子だったと伝えて、ある人は神そのものだったと語る。その議論も解釈もいつまでも尽きない

自然科学と違い、人文科学では、発見されたことすべてを受け継ぐことはできない。方法論やきっかけなら学ぶことはできる。しかし発見そのものは当事者自身が自らやりなおさなければならない。

一つの体験が真に血肉となるには、さらにそれが他の体験によって超えられることを要する。

吉田満の言葉は、このことを意味しているに違いない。

そんな風に、イエスの生涯そのものではなくて、彼の生き死について考えつづけるという姿勢に、私は興味をひかれる。言い換えれば、信仰や宗教としてのキリスト教ではなく、キリスト教の思想に私は興味がある。

それは、私自身が、一人の人間の生と死の意味についてようやく考えはじめたから。平易ながらも学問的に『新約聖書』を解説するムックは、それを私に気づかせた。


どちらかといえば、プロテスタントよりカトリックの思想に興味を持つ理由もここにある。会ったこともないイエスとの直接的な接触ということを、そう感じる人がいることは否定もしないし、想像できないわけではないが、私にはまだ信じることができない。

イエスの名前や顔を知っていた人たち、イエスとともに生きた人たちから語り伝えられてきたこと、というほうが、私には信じるに価するように思われる。そこには純粋さより、人間世界の泥臭さがより多く含まれているかもしれないとしても。

もっとも、現在の私は私が名前も顔も知っている人の生と死が私にもたらした意味さえも測りかねている


宗教としてのキリスト教に私が足を踏み入れることがあるとすれば、キリスト教の思想について自分なりの理解を得られたあとのことになるだろう。

その道程はまだはじまったばかり、それなのに、もう挫けてしまい、膝をすりむき、肩を落としている。考えることも、まして文章をつづることが、ここのところ辛くてならない。以前に比べると、読書もずっと減っている。

信仰と宗教としてのキリスト教に本質的な関心をもっていないと気づいたとき、なぜか安堵とも失望とも言えない複雑な気持ちに襲われた。宗教に対する偏見と信仰に対する畏怖がまだ私のなかでは大きい。

写真は香港からの帰路に撮影した、主翼の端についている小さなウイングレットと夕景。まだ夏らしい写真は一枚も撮ってないので、先月のファイルから。


さくいん:遠藤周作平山正実


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