2/1/2013/FRI
英語学校での体罰
体罰といえば、高校時代に通っていた英会話学校でも体罰があった。しかも、平手打ちされたあと猛々しい女性講師に礼を言わなければならなかった。あれは完全にカルトだった。中学時代を思い出すと嫌悪感が込み上げてくるのに、英語学校については記憶そのものが希薄になっている。私のなかに潜在的に容認するところもあるのだろう。
「殴られて英語ができるようになった」とはさすがに思わないが、多くの人が嫌気がさしたりバカバカしくなって辞めたのに、一年半近くも通ってしまった。カルトや集団主義になじむ性向が十代のころは強かった。その気質は選良意識と表裏一体だった。
いまは落ちぶれて今更昔の体制服従を後悔してる。阿呆。
2/2/2013/SAT
2月第一金曜日
今年は2月最初の金曜日が1日だった。1980年の2月もそうだった。そのとき私は11歳、小学五年生だった。その翌年、1981年は6日が第一金曜日だった。そのとき私は12歳、卒業式を間近に控えた小学六年生だった。
『庭』を作りはじめたころは、2月の第一金曜日には休みを取り、一人きりの時間をもつようにしていた。1980年の2月から1981年の2月までのことをあてもなく思い返し、追憶に沈む時間を過ごした。2006年を最後に、仕事が忙しいわけではないのに、休みを取ることもなく、忙しなく過ごし、立ち止まり考えることもなく、2月を過ごしている。
2009年の2月には、その頃の「日常生活」を書きとめている。そのころ、整理解雇の対象となっていたため、そのあと「日常」が大きく変わることがわかっていたので、備忘録として書き残しておいた。読み返してみると、確かに最近の生活は4年前とだいぶ違う。
今の「日常」がいつまで続くのか、わからない。会社の先行きもわからない。子どもはどんどん成長している。一つの里程標として、この頃の暮らしについて素描しておく。
朝、5時過ぎに目覚まし時計を鳴らし、15分後にもう一度鳴らす。よく眠れている。正月明けから休日前以外に酒を呑んでいない。薬を呑んではいても夜中に2時間おきくらいに目を覚ます。それでも、眠りは十分に深いのか、以前よりも目覚めはいい。
6時半過ぎには家を出る。7時を過ぎると混んでくるので早めに出る。会社に着くのは8時過ぎ。一時間半の通勤のあいだ、前はラジオを聴いていた。いまは気に入った音楽を5,000曲以上詰めたプレーヤーからランダムに流している。
いまの職場で不満なのはランチタイム。周辺に店が少ないので、2週間ほどで一回りしてしまう。近くに書店もないので、昼休みにちょっと雑誌を立ち読み、ということもできない。
出張でなければ、5時半、遅くとも6時に会社を出る。仕事が残っていれば、帰宅してからする。遅くまで会社にいることがどうも好かない。同じ残業でも、家で夕食を食べてから自室で済ませるほうがいい。
会社で残業はしなくても、スマートフォンで会社のメールを見ることができてしまうので、帰路ずっと仕事のメールを読んだり書いたりしていることも少なくない。関西へ出張すると帰宅は10時近くになることもある。
日曜から木曜までは酒を呑まない。出張帰りの新幹線でも呑まない。泊まりの出張を別にすれば、金曜以外に夜、人と会うこともない。
そういう余裕がまったくない。業務の負荷ではなく、心身に余裕がない。夜は早ければ9時半、遅くとも10時過ぎには床につく。睡眠時間を確保する。それがここ数年の生活でもっとも大切にしていること。読書も減ったし、文章を書くことも減った。テレビを見る時間も短くなった。眠る時間が大事なので仕方ない。
こういう調子で平日をなんとか切り抜けている。そのうえ週末は土曜も日曜も昼寝をする。眠ってはいなくても、布団のなかでぼんやりしていることが多い。ラジオを聴くでもなく、本を読むでもなく、布団のなかでただ眼を閉じている。
外出するとしても、週末の行動範囲は自転車で行けるところまでがせいぜい。病院、図書館、スーパーマーケット。最近は夕食作りもサボりがち。
それでも今日は2月最初の週末なので、餃子を作った、32年前と同じように。
過去の自分を凝視して深い後悔から新しく生きる人もいる。「新生」とはそうした「最も弱い自分から最も強い自分」へ変貌していった者の一人、島崎藤村の言葉。パウロも同じ、吉田満も、モンスリーも。一方、自己を強く見つめ過ぎて崩れ落ちていった人も少なくない。
その「立ち去る」姿を美しいとは言わない。でも、その後ろ姿を責める気にもなれない。そんなことを考える季節がまためぐってきた。
2/9/2013/SAT
東京国立近代美術館 60周年記念特別展 美術にぶるっ! ベストセレクション 日本近代美術の100年、東京国立近代美術館、東京都千代田区
奇跡のクラーク・コレクション—ルノワールとフランス絵画の傑作ー、三菱一号館美術館、東京都千代田区
丸の内・近代ビジネスマンの暮らし展、三菱一号館歴史資料室、丸の内
ふだんの週末はほとんど遠出をしない。それでも三連休となると一日は出かけてもいいかなという気になる。1月と2月の三連休はどちらも美術館へ行った。
何も考えずに絵だけをじっと見る時間が心地よい。学生の頃、ワシントンD.C.のナショナル・ギャラリーやメトロポリタン、テート・ギャラリー、ルーブル、オルセーなどの美術館を訪ねた。足が棒になるほど長い時間歩き回っても、頭はどんどんすっきりしていくような気持ちがした。
近代美術館60周年記念特別展はその名の通り、どの作品一つでも一つの展覧会の目玉になるような作品ばかり。いつまでもいたくなるような展覧会だった。
一番心に残った作品は藤田嗣治の「アッツ島玉砕」。この作品は物凄い熱気を帯びている。他の戦争画は報道や戦果の記録のように静かな雰囲気のものが多い。この作品は激しい。あまりに凄惨な描写に厭戦的にさせたかもしれないし、あるいは、玉砕した兵士たちへの哀悼の気持ちを高めたかもしれない。
この作品は、展示の仕方によっても、見る者の立場によっても、受け止め方はいろいろだろう。いずれにしろこの作品は「戦争とはこういうもの」、とありのままに伝える力がある。私自身、戦争は知らない。それでもこの絵を見たとき、結局のところ戦争とはこういうもの、という熱気だけを感じた。
だから戦争はすべきではないと思うか、ここまでしても戦わなければならないときもあると考えるか、この作品は見る者の心の奥底までその問いを突きつけてくる。
クラーク美術館は名前も知らなかった。ボストンから車で約3時間というからそう簡単に行ける場所ではない。
これまで見た美術史の本や画集で見た覚えのない作品が多い。近代美術館では有名な作品が多く、画集やネットでも見直すことができるだろうと思い、図録は買わなかった。今日は、思わず図録を購入した。
絵を見るとき、いつも青と緑に眼を奪われる。ルノワールの描いた肖像画では服装に青色が差し込まれているものが多い。「読書するクロード・モネ夫人」「うちわを持つ少女」「テレーズ・ラベール」、いずれも青い服を着ている。
青と緑以外でも、好きな作品を思い出してみると、構図や内容より、まず色に惹かれていることが多い。色による表現の極致はマーク・ロスコ。彼の作品を見入ったのも色、そのものに引き込まれたから。
思い起こせば、ワシントンで感激して同寸のポスターを買ったルノワールの「踊り子」も白いバレエ衣装に青いリボンを結んでいた。オルセーで見た「ぶらんこ」でも、青いリボンのついた白い服を女性は着ていた。
緑ではピサロの「エラニー、サン=シャルル」。逆光に映える明るい芝の緑と樹木の影を落とした深い緑。この作品の前に長い間立っていた。
「クラーク・コレクション展」が面白く思えたのは、個人コレクションだったことが大きい。スターリング・クラークは妻のフランシーヌと二人、自分たちの気に入った作品だけを集めた。美術史を順に辿ることができる大美術館もいい。私は、個人コレクションを見る方を好む。
歴史資料室の展示も面白かった。サラリーマンが登場したのは三菱が丸の内を開発しはじめた1890年代以降。最初のサラリーマンは朝6時が始業だったという記述に驚いた。建物の安全パンフレットで洋式便所の使い方が説明されていた。まだ和式と同じように壁に向かって座る人が多かったらしい。
東京国立近代美術館 60周年記念特別展
第Ⅰ部 MOMATコレクションスペシャル
- 土田麦僊、湯女
- 安井曾太郎、金蓉(青いチャイナドレス)
- 野田英夫、サーカス
- 佐藤忠良、群馬の人
- 舟越保武、原の城
- 大下藤次郎、穂高山の麓
- 岸田劉生、道路と土手と塀(切通之写生)
- 松本竣介、並木道
- 長谷川利行、カフェ・パウリスタ
- 長谷川利行、タンク街道
- 藤田嗣治、アッツ島玉砕
- 古賀春江、海
- 瑛九、無題
- 靉光、眼のある風景
- 三好光太郎、雲の上を飛ぶ蝶
- 坂本繁二郎、水より上る馬
- 北脇昇、クオ・ヴァディス
- 植田正治、パパとママと子供たち
- 小倉遊亀、浴女 その一
- 高松次郎、遠近法の椅子とテーブル
- アンリ・ルソー、第22回アンデパンダン展に参加するよう芸術家を導く自由の女神
第Ⅱ部 実験場1950s
- 川田喜久治、地図(原爆ドームの連続写真)
- 奈良原一高、人間の土地(緑なき島ー軍艦島)
- 花森安治、暮しの手帖
- 東山魁夷、道
- 映画 砂川闘争
- 映画 東京1958
- 映画 安保闘争(松本俊夫)
さくいん:三菱一号館美術館
2/15/2013/FRI
greedy
金曜の夜、以前の上司に会う。気持ちよくビールを呑む。「あまり強欲になるなよ」。自分では気づいていないところにグサッとくる助言をもらう。たいして努力もしてないのに欲しい見返りだけは人一倍、という業突く張りの自分を思い知らされた。
こんな風に快く酔った金曜の夜、自分が精神科に通院してるなんて嘘のように思う。悲しくて苦しいとき、自分に家族がいることが不思議に思える。どうにかしてその中間にとどまれないものか? 中途半端なだけで中庸という境地には立てない。
2/16/2013/SAT
最後のイエス、佐藤研、ぷねうま舎、2012
キリスト教の成立に関わる著者の本を続けて読んできた。本書が3冊目。発行された順に読んできたので、彼の思索とともに読書も進んできた気がする。ところが、本書では、その発想に戸惑いを覚えた。
彼が専門としている聖書学は考古学や言語学などの知見を利用しながら聖書を伝承と事実に腑分けしていく。そして、伝承や解釈を取り除いた、現実に生きていたイエスを描き出そうとする。そのときイエスは神や聖者ですらなく、一人の人間としてとらえられる。
私はイエスを、「神」にして「全能者」というような、キリスト教の中で神話化・神格化された姿では見ていない。あくまで、この世に普通の生を受けた、一人の人間として見ている。(第一章 イエスとパウロ)
信者ではない私にも、彼のこうした立ち位置にまず驚かされる。著者は、伝承と事実を区別するだけではなく、さらに事実とされているイエスの言行に批判も加えている。聖書学はここまで踏み込んでいく学問なのか。この立場は教会ではどのように扱われているのだろうか。部外者にも疑問がわくほど挑戦的な解釈。
それでも、読み進めていくと、彼の意図が少しずつわかってきた。
(前略)彼を「先在のキリスト」と見たり、「贖罪する神の子」と見たりする既存の神学的フィルターを一度取り去って、その赤裸々な人間性のドラマに接近する必要があると思われる。(第2章 イエスにおける人間の尊厳と深淵、3 イエスの突破)
「赤裸々な人間性のドラマ」の向こうにあるもの、それを佐藤は探し出そうとしている。そこに、権威づけされた存在ではない「真のキリスト」を見出そうとしている。そこで佐藤が注目するのは、イエスに訪れたいくつかの危機。「最も弱いときに最も強い」という、後にパウロが残す言葉はイエスにもあてはまる。
「自己崩壊」という言葉をパウロの回心について佐藤は使っていた。危機に直面し、そのとき崩れていく「自己」を見届け、最低の自分から立ち上がり強さを身につける。そういう人もいるだろう。想像できないわけではない。
しかし、自分にはまるで関係ないように思える。危機に直面したとき、私は、むしろ暗黒の深淵に引きずり込まれていくか、「ひとり ただくずれさるだけ」になる。
しばらくのあいだ、深い淵の底にいるような気持ちで過ごしている。いまが「最も弱いとき」であることは間違いない。ここから、どうすれば、「最も強いとき」と言えるようになるのか、途方に暮れるばかり。こればかりは本を読んだだけでは体得できない。
聖書に書かれた「神のひとり子」としてのイエスから伝承や後世に加えられた権威を剥ぎとり、またイエスのもっていた傲慢な態度や強権的な行為を批判し、ひたすら「人間 イエス」を追い求めた先で佐藤が見出したもの。それはイエスが処刑の前に至った「沈黙」という境地。
現代の私たちは、(中略)イエスに直線的に「まねび」の対象を見出してはならない。むしろ、そのゲッセマネの苦悩を通過した後、ゴルゴダで絶叫死するまでの沈黙から響いてくるものをこそ、最も貴重な指針として全体を構成し直す必要がある。現代の聖書学は「イエス批判」の課題を避けては通れないであろう。(第6章 聖書学は<イエス批判>に向かうか——「宗教批判の諸相」に寄せて——)
これは、遠藤周作が「人間のなかのX」と呼んでいたものと同じではないか。あるいは、ハンナ・アーレントが全体主義に対してとる態度として、「抵抗」や「逃走」とは別に示した「理解」というものに近いのではないか。
すくなくとも、この「苦悩を通過した後」にたとどりついた「沈黙」は、現状追認や体制従順とは違う。「非暴力不服従」もこの態度に近いように思える。
言葉のうえでは、これまで出会った言葉のなかから似たものを探すことは難しいことではない。でも、それを咀嚼し、実践することはやさしいことではない。イエスが苦悩の末に杭殺刑の場で得た境地というのだから、そもそもその境地に到達することがまずできそうにない。
これまでに読んだいくつかの言葉がつながりはじめている。そうして、一つの概念にまとまりそうになっている。その先がまだよく見えない。
2/22/2013/FRI
平日の禁酒
休前日以外の禁酒は続いている。不思議なもので、我慢しているという感覚はない。慣れてくると翌朝起きられなくなりそうで不安になり平日には酒を呑みたいとも思わなくなった。
クルマの運転も同じ。通勤や仕事で毎日、運転しているときは特別な気持ちはなかった。今は運転するのが怖い。雨の日には道行く車を見てさらに思う。
2/23/2013/SAT
「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」 ベトナム帰還兵が語る「ほんとうの戦争」、Allen Nelson、講談社文庫、2010
真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝、中田整一編、講談社、2007
回心した人に興味がある。何かをきっかけに信仰に目覚めた人についての本をよく読む。キリスト教に入信した人の本を多く読むのは、学生時代に出会った恩師に信者が多かったから。そういう人に会ったり、本を読んだりしても、自分はまるで回心する気配がない。門の前に立ち、ノックもせずに立ちすくんでいる。
何がきっかけになるのか、法則のようなものはないらしい。ネルソンの場合は小学生の言葉が、淵田の場合はアメリカで捕虜となっていた人から聞いた収容所にいた献身的な女性の話が、それぞれ回心のきっかけになった。
アレン・ネルソンと淵田美津雄は軍人としてベトナム戦争と太平洋戦争でそれぞれ活躍した。その後、戦争に加わったことを後悔し、キリスト教に入信した。入信しただけではなく、精力的に伝道や講演活動を行った点でも二人は共通している。器の大きな人は、どの方向に進んでも大きな力を発揮するということなのかもしれない。
二人には相違点もある。ちょうど同じ時に二冊を読んだため、二人の相違点に眼が向いた。
淵田は幼いころから職業軍人になることを夢見ていた。彼の軍人としてのプライドは高い。軍人が戦争に行くことは当然のこと、戦死することも潔しと考えている。淵田は戦後アメリカに渡り、ニミッツ、マッカーサー、トルーマン、アイゼンハワーといった高級軍人や政治家と会っている。その際、両者は軍人として互いに尊敬をもって接している。
一方、ネルソンは生活のために海兵隊員になった。戦場に赴き、激しい戦闘を経験しながら、少しずつ兵士らしくなり、戦争に慣れていく自分にとまどう。
海軍と海兵隊という違いも大きい。同じ戦争でも海戦と陸戦には大きな違いがある。海戦は船や飛行機、つまり機械対機械の戦闘で、相手を殺さなくとも船を沈めてしまえば戦闘は終わる。日露戦争の日本海海戦では勝負が決まったあと、勝った方が海に投げ出された負けた方の兵士を救助したという。
太平洋戦争でも、日米とも敵艦隊が攻撃力を失った時点で攻撃を止める。沈没した軍艦から投げ出された人を救出している船にまで追い討ちをかけて全艦沈没させるようなことはしない。
また、海上では一般人が巻き込まれることは少ない。もっとも近代戦では、無差別潜水艦作戦や対馬丸のような例もないわけではない。
陸上戦、とくにネルソンが赴いたベトナムでは、一般人が暮らしている場所がそのまま戦場になっていた。彼自身、敵側の一般人と交流さえしている。そこではナイフや銃で直接人を殺さなければならない。敵でも味方でも、そして一般人でも、無惨に殺された死体を目にすることになる。
船と飛行機に乗っていた淵田のような海軍士官は、そういう体験をする機会はほとんどなかっただろう。淵田が近代戦争の悲惨な一面を目の当たりにしたのは戦場ではなく、原爆を投下されたあとの広島と長崎だった。
だからといって、淵田の回心がネルソンのそれに比べて浅いと言うつもりは、もちろんない。淵田の場合、燃えたぎるような敵への憎しみが、実は回心を引き起こす源となっていた。ネルソンの場合は、「人を殺した」という良心の呵責に回心の契機があった。二人の回心に程度の差はない。そもそも回心は、第三者が何か言えるものではない、きわめて個人的な体験。
「回心」は、「する」というものではなく「起きる」もの。自分から意識的にできるものではない。同時に、拒もうとして拒めるものでもない。突然にそれはやってくる。人にできることはそれを上手に受け止めること。もっとも、上手に受け止められなかったときどうなるのか、「回心」の訪れも知らない私にはわからない。
「回心」が訪れるために必要な準備が二つ、あるように思う。一つは、自分の奥底を見つめておくこと。ネルソンも淵田も自覚的ではなく、むしろ、自分ではそれを避けているつもりだったにも関わらず、ずっと自分の心の奥底を見つめていた。そしてそこに暗く深い、眼を背けたくなるような何かがあることを知っていた。
「回心」のために必要なもう一つの準備。それは、「回心」が訪れたときに、静かにそれを受け止めるやわらなか心持ち。
私はいま、一つめの準備をするところで躓いている。過去と今の自分の奥底にあるものに眼を向けることができない。それでいて、知らないうちにそこを見つめていて苦しい思いをしている。このまま心の底にある暗闇に吸い込まれそうに感じることもある。
願わくば、これが第一の準備になっていてほしい。
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