1/5/2013/SAT
去年の振り返りと今年の目標
昨年末、最後の土曜日に一年を振り返り何か書こうと書き出してみたところ、「今年は不甲斐ない一年だった」と一文書いたきり、一語も進まなかった。しばらく煩悶してから、もう書くことはできないだろうとあきらめた。
言葉が出ない。その結果自体、昨年後半の私の心境を如実に表わしている。
今年は今の会社に入社して4年めを迎える。いわゆるスタートアップの会社で働く場合、4年間は社員にとっておおきな意味がある。吉と出るか凶と出るか、いまはまだわからない。いずれにしても節目になることは間違いない。
今年の目標。もっと歩くこと、酒量を減らすこと、それから、酒を呑む以外に週末の楽しみを見つけること。
この三つの目標はこの10年ずっと変わらない。つまり、この10年間、目標を達成できていない。
歩くことは、もっと近くにある会社で働いていたときにはできていた。毎朝、会社のある駅から一、二駅前で下りて30分くらい歩いていた。今は通勤時間が長いので、朝歩く時間がもてない。それから、パソコンをつねに持ち歩いているため、長く歩くと腰に響くので通勤時間に歩くことを組み込むのは難しい。
週末にはもっと歩こうと思う。この街に暮らすようになってもう10年以上になるのに、街のことはあまり知らない。電車の沿線はさらに知らない。まだ知らない街を歩くことは楽しい。十代の頃には、学校の休みや週末に目的もなく歩くことをもっとしていた。旅先でも地図を持たずに歩くこともよくしていた。
週末に散歩をすれば、第一と第二の目標は達成できる。散歩の途中で見つけた店で材料を買い、夕食をつくれば充実した週末になるはず。
問題は、第二の目標。昨年の後半は心身ともに不調だった。それを紛らわせるために酒を呑んだ。それでさらに調子を狂わせた。この悪循環は断ち切りたい。過剰な喫煙や過剰な飲酒は、緩慢な自死と聞いたことがある。確かに去年後半の私は「肝臓が悪くなってももういいや」という自暴自棄の気持ちから、ほとんど毎日、それもかなりの量を呑んでいた。
休日の前日以外、酒を呑まない。これも何度も誓っていながら、一月と続いたことがない。それでも、目標にしないことには、努力も始まらない。
験担ぎや「誓い」を私は好まない。何かをしたら、あるいは、しなかったら、思いが叶う、という考え方は、神と取引をしていることになる。「これだけしたのだから叶えてくれ」と言っているようなもの。そう思えてしまう。
確かに「誓うな」と明言した人もいることを知っている。
神を信じているか? 正確に書けば少しまわりくどくなる。私は神そのものを信じることがまだできないでいる。ただし、「神を信じるという思い、すなわち信仰と呼ばれるような心持ちがありうること」を信じている。
神は私が必要としているものを知っている。それは、私がいま望んでいるものではないかもしれない。以前、読んだ「病者の祈り」はまさにそのような自分の意志とは異なるが、自分が必要なものを神が与えてくれる、と詠んでいる。
最後にもう一つ、目標ではないけれども、叶えたいことがある。それは精神科への通院を卒業すること。いや、通院しなくてよくなることや、薬をのまなくてよくなることは結果に過ぎない。大切なことは、日常生活のなかで自分の感情を自分で制御できるようになること。
これは難しい。少なくともズルズルと低調な気持ちを引きずることだけは止めたい。
1/12/2013/SAT
体罰と自死
「体罰」と「自死」。この二つの言葉を見聞きするとき、私は冷静さを失う。ほかのことを考えようとしても、耳目にこびりついたことばかりに心を奪われてしまう。かといって、まとまった考えが頭の中で出来上がるわけではない。それどころか、頭の中が深い霧でいっぱいになり、何が何だかわからなくなる。いつまでたっても言葉にさえならない。
今週は、Twitterでむやみやたらにまとまった考えにはほど遠い、言葉にならない言葉のようなものを吐き続けた。いま、すこしだけ落ち着いた気持ちを取り戻したので、投げつけた言葉をもう一度拾い上げ、まるめて固めて出来るかぎり眼に見える形にして差し出してみる。
「いじめ」ではなく「暴行」「脅迫」「恐喝」と言ってほしい。「体罰」ではなく「暴力」と言ってほしい。体罰容認どころか積極推進派だった市長の会見が空々しくて腹が立つ。でも、ほんとうに腹が立っているのは自分自身に対して、と気づく。「体罰」に耐え、生き延びて、次の居場所を確保したのだから。
子どもによる「暴行」を「いじめ」、教員による「暴力」を「体罰」。曖昧な言葉は本質を見えづらくする。ハンバートハンバートが「国語」で歌っている。
騙すときにだけ使うなよ
わからないくせに使うなよ
テメーの都合で使うなよ
昨年の末、中学時代の後輩に会った。暴力教員が顧問をしていた部活の仲間。彼の中学時代の話。ある日、彼の母親が練習試合を見に来た。「今日は殴られることはないだろう」と安心していたところ、いつものように殴られた。ところが母親の反応は、あきらめ顔で「仕方ないね」と言ったきり。
「あの頃」、生徒も保護者も黙っているしかなかった。本当は、黙っていてはいけなかったのに。
無言の抵抗はあった。彼の代では入学時に30人以上いた部員が三年生になる前に彼一人になった。そういう意味では、彼の代では「恐怖による統治」は失敗したと言える。
部活は辞めることができる。でも中学校は簡単に転校できない。当時K県では中学の成績が高校入試の75%を占めていた。学校に服従しなければ、いわゆる「平常点」は下げられ、志望校の受験を承認してもらえないこともあった。
あのとき私は戦うべきだった。そうしていれば、もしかしたら30年後、すなわち、今回の悲劇は防ぐことができたかもしれない。
大袈裟ではない。事実、歴史上の差別や抑圧、暴力に抗する戦いは一人が立ち上がることにはじまった。例えば、黒人公民権運動は一人の女性がバスで白人に席を譲ることを拒んだことからはじまった。
体罰を肯定的に受け止める人もきっといるだろう。だからといって、「違法」とされている行為をすべての人が肯定的に受け止める道理はない。今回の場合、体罰は日常的継続的に行われていたという。仮にもともとは肯定的に受けていたとしても、生徒の心理や体調に異常を感じ取れなかったとしたらやはり問題。「信頼関係があれば体罰は有効」という俗説は破綻している。
これから起きることは想像できる。熱心で実績のある教員なので厳罰は避けてほしいという署名や嘆願書。これまでの生徒や他の生徒は耐えてきたのに、なぜこの生徒だけ? 本人に弱さがあったのではないかという憶測。
「俺たちみんな」殴られて強く育ったんだという暴論。そうして被害者はどんどん孤立させられていく。
ラグビー選手の平尾誠二が高校生ではじめて海外遠征に出たとき、自分が歯を喰いしばってしていたスポーツを、オーストラリアの高校生が楽しそうにプレイしている姿をみて驚いたという。
卓球で全日本チャンピオンになったこともある松下浩二もスェーデンのクラブチームで同じような体験をしたと書いていた(『ザ・プロフェッショナル―白球に賭けた卓球人生』、卓球王国、2002)。日本の部活動と体育会には、暴力と一方的な規則と管理を容認する特殊な文化があるらしい。
「いじめ」と「体罰」。ふだん笑えるネタかオチャラケたツィートしてる人が突然、真面目に発信してる。正直、驚く。日本国で高校までの教育をうけたTwitterユーザー、おおよそ今20代から50代の人たちにとって笑って済ますことのできない問題なのだろう。変動要素は国籍や大人になってからの職業や収入ではなく、時代と地域。同じ世代といっても、個人差の前に、地域の差と一年区切の年代でも大きな差異がある。
昨日の日経新聞夕刊。過去に体罰事件が起き、社会的にも注目を浴びた学校で行われている再発防止策を紹介していた。体罰は、それが法律違反である以上、事件化すれば大会に出られなくなったり、学校の評判を落とすことにもなる。
その点では、部員の暴力や飲酒、万引きと同じように学校にとってのリスクとなる。教育的効果の有無だけでは肯定派は引き下がらないだろう。学校にとってリスクという観点も議論に有効と思う。
さくいん:体罰、自死、ハンバートハンバート、平尾誠二、日経新聞
1/19/2013/SAT
週末の考えごと
夕べは両親の家に泊まった。だいたい一月に一度、週末に行く。酒を呑み、昔話を聴く。最近になって、はじめて聞く話も少なくない。昭和ヒトケタの二人がどう生きてきたのかーー戦争の時代に育ち、焼け跡で働きはじめ、高度成長期に家庭を築き、子供を育て、そして21世紀を迎えて老いていくーー、その一つの「家族の歴史」をすこしずつ聴き、むしろ語ろうとして語ることのない、言葉にならない思いを心に刻んでおこうと思う。
先週末は三連休だったので、思い切って東京国立近代美術館へ出かけた。開館60周年記念展「美術にぶるっ! ベストセレクション 日本近代美術の100年」を見た。久しぶりにゆっくり美術館で過ごして、「心の洗濯」ができた。
「心の洗濯」という言葉は、サラリーマンでいてすこしずつ気に入った作品を集め見事なコレクションをつくりあげた大川栄二の言葉。野田英夫、松本竣介、三好光太郎、難波田龍起。大川美術館は国立の美術館に勝るとも劣らないコレクション。とはいえ、桐生は遠い。なかなか再訪することができない。
東京にはたくさんの美術館があり、いつも魅力的な展覧会がある。ふと朝食のときに思いついて見に行くこともできる。東京に住んでいる利益は大きい。
今週末、書くつもりだった感想文はまだ書き出してもいない。今週末はずっと卓球の全日本選手権を見ている。
福原愛と石川佳純の決勝戦を見ていて、中学時代、憧れていた隣りの中学校の先輩選手のことを思い出した。彼女のことも書いてみようと思っている。すこし苦い時間を過ごすことになるかもしれない。
さくいん:大川栄二(大川美術館)、野田英夫、松本竣介、難波田龍起、福原愛
1/26/2013/SAT
Mさんのこと。
Mさんは中学時代、同じスポーツの部活に入っていた隣りの中学校で一学年上だった。Mさんは、女子部の部長で主将、華麗なフォームで、しかも強かった。プレイスタイルが似ていたので、初めて見かけた時から私は彼女に憧れていた。練習試合で隣の中学校へ行ったときには遠くから彼女が練習する姿を見ていた。少し大袈裟かもしれないけれど、彼女は漫画『エースをねらえ!』のお蝶夫人のような人だった。部には副部長の人がいて、いつも声を張り上げて後輩に厳しく指示していた。一方、Mさんは物静かで、後輩たちを怒鳴り散らしたりする姿は見たことがなかった。
隣の中学校でも、私の学校と同じように部活の顧問は、些細な理由で殴ったり蹴ったりする暴力教員だった。そして激しさでは彼のほうが酷かった。女生徒も平手で叩かれることはまったく特別なことではなかった。「K!」とその顧問はいつもMさんの名前を体育館の檀上から大声で呼びつけては他の部員への指示を伝えていた。そうして私は彼女の姓と名を覚えた。
中学2年の夏、電車で2時間以上かけ関東大会を見に行った。私の学校からは男女とも誰も県大会以上勝ち進んだ人はいなかった。その頃、私は部活に熱心でもっと強くなりたい、もっと上手になりたいと思っていた。だから暴力に耐えていたし、耐えることで上達するとさえ思っていた。
上手な選手の試合を見るために遠い街まで一人で行った。そのとき、Mさんの試合を見た覚えがある。勝っていたのか負けていたのか、それは覚えていない。あの華麗なフォームを広い会場の階段席から見下ろしたことを覚えている。
高校に入ってから一度だけMさんを乗換駅に使っていた大きな駅で見かけた。見慣れない制服を着ていた。私の知らない学校に通っているようだった。男女が同じ会場で大会が行われることは高校ではほとんどなかった。だから彼女が同じスポーツを続けているかどうかも知らなかった。
そのあと、思いもかけないような偶然が起きた。入学した大学の、同じ学部で同じ学科にMさんがいた。初めはただ似ている人かと思って遠巻きに見ていた。人づてに確かめてみると確かにMさんだった。
一つの学科に500人、学部全体で1,500人いるマンモス大学とはいえ、授業やキャンパスで彼女の姿をみかけることが何度かあった。私の友人には彼女と同じ講義をとっていたり、試験前にノートを貸しあうくらいの間柄の人もいた。
つまり、私とMさんとは間接的につながっていた。
でも、4年の間に、彼女に声をかけることは一度もできなかった。思い出してみれば、中学時代も彼女と言葉を交わした記憶はない。彼女の方では私のことはあるいは知らなかったかもしれない。
何度も見かけていて、共通の知り合いがいたにも関わらず、かつて憧れた人に声をかけることはできないまま、大学は卒業してしまった。なぜだろう。私には彼女に声をかけることができなかった。今からみれば、ありえないことだったとしても、彼女から声をかけられることを私は望んでいなかった。
話しかけてみたところで、Mさんと話すことは何もなかった。彼女が殴られた場面こそ見たことはなかったけれど、「K!」と何度も怒鳴られている姿は覚えていた。彼女のほうでも、私の名前は知らなくても「メガネをはずせ」と言われた後、平手打ちで何度も何度も殴られる姿を見ていたかもしれない。
たとえ見ていなくとも、中学校の名前と部活の名前を出せば、お互い、どんな中学生活を送ったのか、想像することはすぐできただろう。そこには楽しく語り合えるような思い出はほとんどなかった。
大学に入ったとき、私は初めて安堵した。これでもう、小学校のときのことも中学校のときのことも知っている人はいない。誰も、私の秘密を知らない。そういう自由な空気を私は初めて知った。同じ高校から同じ大学に入った人も何人かいた。でも、私はなるべく彼らと関わらないようにしていた。
年をとるごとに十代の頃を思い出すことが苦痛になっている。大学生の時にはまだ特別に意識してはいなかったけれども、Mさんが近くにいても話しかけられなかったのは、彼女はきっと中学時代のことを知っている人から話しかけられるのは嫌だろうと想像していたから。
私自身、大学で見知らぬ人から、「あの町の、あの中学校にいた人ですね」と話しかけられていたら、仮に相手がMさんを思っていたように私に対して特別な思いをもっていたとしても、いずれその人を避けるようになっていただろう。
今でも、大人になってから知り合った友人や職場の同僚に中学校時代のことは話さない。高校時代のこともほとんど話さない。30代に繰り返した転職の話はいくらでもする。でも、十代の頃の話はほとんどしない。中学生になった子どもたちにも、次第に自分の経験は話さなくなった。彼らには想像もつかない、新聞記事でしか知ることのない世界だから。
父親として自分の子が充実した学校生活を送っていることよりも、幸福な学校生活を送っている人たちを妬ましく思ってしまう。あんな中学生活だったなら、もっと楽しかっただろう、何十年経っても楽しく思い出すことができるだろう、そんな風に思うことが多い。
Mさんとはその後で、もう一度、とても近くまで行くことがあった。一年半のサラリーマン生活から逃げ出し、大学院へ入りなおした。10月に会社を辞めたものの、次の春には合格できず、一年浪人した。大学院は学部時代と違う学校を選んだ。
面接では講座や教員が研究目的と合致しているからと説明した。本当は、その学校で学ばなければならない、という簡単には説明することのできない切迫した理由があった。それは誰にも説明したことがない、私の秘密の一つ。
その学校で、入学してすぐ担当教官に、私と同じ学部から入った人がちょうどこの3月に修了したと言われた。それがMさんだった。
Mさんがその学校でその教授に師事した理由には、彼女の「秘密」が関わっていた。教授はそれをあっさりと私に話した。誰かの秘密を本人以外の人から知らされることには何かうしろめたさがある。顔見知りでもなく、二度と会うこともない、要するに、赤の他人のことだから秘密を告げたところで問題ではないと、教授は思ったのだろう。
そのときあらためて、学部時代の4年間Mさんに話しかけずにいてよかった。そう思った。彼女の秘密を知っている人は、おそらく中学時代にもいただろう。だから中学時代を知っている人に出会うと「この人は秘密を知っているかもしれない、ほかの人にも話すかもしれない」、そんな心配をしたかもしれない。
少なくとも私はそうだった。私の秘密を知っている人は大学にはいなかった。大学は、誰も秘密を知らない初めての場所だった。
いまMさんはどうしているか、わからない。インターネット時代になり、多くの人がするようにかつての憧れの人の名前を検索してみたことはある。しばらく前まで、教授が教えてくれた就職先の名前と一緒に彼女の名前が検索できた。
いまは私の知っている名前で検索しても、何も見つからない。姓が変わったのかもしれない。あるいは、彼女が秘密にしていたもともとの名前に戻っているのかもしれない。その名前を私は知らない。
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