硝子の林檎の樹の下で 烏兎の庭 第四部
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2012年5月


5/5/2012/SAT

それでも、日本人は「戦争」を選んだ、加藤陽子、朝日新聞社、2009

それでも、日本人は「戦争」を選んだ

明治維新以降に大日本帝国が行った戦争、日清、日露、第一次大戦、そして日中戦争と太平洋戦争。それを歴史の教科書よりすこし深く、すこし違う角度から見る。元は高校生向けの特別授業なので、内容は概略的で、脱線も少なくない。それは本書ができた経緯からみて当然のこと。

私は昭和後半に義務教育を受けた。その時代の教育は日教組の影響もあって、戦争はすべてよくない、という平和至高観にとらわれていた。そのため、太平洋戦争はもちろん、日清日露の戦争まで「してはいけなかった戦争」というとらえ方で教えられた。


確かに「すべての戦争はよくない」という「絶対的」平和思想ははるか昔からあった。とはいえ、日本国の近代史を「全ての戦争は間違っていた」という見方から見たのではあまりにも単純すぎる。一つ一つの戦争には、国際関係の背景があり、政府の思惑があり、国民の感情がある。

戦争が確かに「政治の延長」だった時代がある。戦争は、するからには勝たなければならない。もし負けそうならば、条件よく負けなければならない。

そういう見方をすると勝てそうにない戦争をはじめ、最後には「一億玉砕」を唱えたうえで全面降伏することになった当時の政府の責任は重い。戦死者のほとんどが、実は戦いで死んだのではなく、餓死と病死だったという事実も、戦争の指揮に間違いがあったことを示す。民間人が空襲に曝され、あげくの果てに新型爆弾を投下されてようやく負けを認めたというのは、政府の失態ではないのか。

その点について、批判をあまり聞かないような気がする。最近はあまり使われない区分けだが、いわゆる左翼は「戦争はすべきではなかった」と唱え、右翼は「米中こそ日本を唆した」「日本人は見事に戦った」と敵国を非難して、過去を賞賛するばかり。当時の政府に対する批判はあまり聞くことがない

なぜ、勝てなかったのか、負けるにしても、もっといい条件で停戦することはできなかったか、政府はどこまで兵士の安全に配慮したか、銃後の安全確保は、なぜ十分になされなかったのか

本書は詳細な記述ではないものの、日本の近代史で戦争がどんな意味をもっていたのか、概観することができる。その姿勢について問う前に、その先を自分で学ばなければならない。


5/9/2012/WED

節約、節酒、と言っているのに平日からスパーリングワイン一本、缶ビール500mlを一つ。一年に一度とはいえ、ちと呑み過ぎか。問うまでもない。気分がいいので桑田佳祐「ひとり紅白」を見る。読み返すとこのDVDを初めて見たのも5月9日だった

クレイジーケンバンド「タイガー&ドラゴン」は「オレのなかでオレが戦う」と歌う。私は12歳、小学六年生のときからそう言われている


5/11/2012/FRI

死者と生者のラスト・サパー——死者を記憶するということ(2000)、山形孝夫、河出書房新社、2012

死者と生者のラスト・サパー

Twitterから。

2000年に出版された本の復刊。あとがきが追記されている。著者は被災地にゆかりもある。本書の復刊を望んだ人も少なくなかっただろう。

ただ、本書に書かれている「死者の記憶」とは被災、あるいはより一般的に「喪失」してから何十年もあとでも残る「死者との黙契」。不幸にもそれに共鳴することができる読者は、この先、十年後、二十年後にも、森有正の言葉を借りれば「祈祷書のように」本書を読み返すことだろう。


5/12/2012/SAT

年を一つとって思うこと

一つ年をとった。思いつくことを書いておく。

最近、前よりも神経質でナイーブになりすぎている。しばらく前に偶々ついていたテレビでドラマ『ブラックボード』を見た。佐藤浩市が平然と暴力をふるう教員を演じていた。見ているうちに胸がどきどきしてきた。しばらくすると見ていることが辛くなり、寝床にもぐこんだ。

次は先週末のこと。誰かに面白いと言われていたのでテレビで映画『阪急電車 奇跡の15分』を見はじめると、男が電車の中で恋人に声を荒げる場面で動悸が激しくなり、また最後まで見ることもなく、寝てしまった。ああいうのをデートDVというのか。

原因は、息子が中学生になったことにあるように思える。中学校での出来事、授業のことや部活のことが食卓で話題になる。その度に自分の中学時代のことが思い出されるそうして何とも言えない嫌な気持ちになる。しっかり鍵をかけておいたはずの引出しが用もないのにガタガタ飛び出してくる。

中学時代だけではない。高校同窓会の案内が最近メールで来た。前に誰かに渡したものがまわっていたのだろう。そのメールを見たとき、自分でも驚くほど嫌悪感と不快感でいっぱいになった。もちろん、返事は出さなかった。その後ときどき写しで送られてくる「出席します」のメールは開封もせず削除している。

十代の頃の私は、自信過剰で、知ったかぶりで、傲慢だった。今は違うのか、今の自分を客観的に見ることができないのでわからない。少なくとも十代の頃の私は一言で言って「嫌な奴」だった。今から振り返るとよくわかる。

過去のすべてを否定したい気持ちにかられるのはなぜだろう。過去のどこかで大きな間違いを犯していて、そのあとはボタンを掛け違えているように思う。間違った線路を走り、分岐点があってももう正しい路線に戻ることはできずに、次々と間違った線路へ進んでいるように思われてならない。

その場その場では、「よりよい」選択をしてきた。そう思ってはいる。でも、最初が間違っていたから、後でどう繕っても「正しい」判断にはなっていない。そう考えてしまう。


丸山眞男『日本の思想』(岩波新書、1961)に、「進歩」と「進化」という二つの概念の違いについて書かれていた。「進歩」という概念には明確な起点とあるべき「終点」もしくは「目標」や「理想」がある。罪深い現世から「神の国」を目指すキリスト教や、階級社会から共産主義社会を目指すマルクス主義や社会主義思想などは「進歩」の概念を柱としている。

他方、「進化」には始点と終点が規定されていない。その場その時で、「よりよい」ものが選択されるものの、絶対的な指標がないため、実は行ったり来たりしているだけで中身は何も変わっていないことさえある。

こうした考え方をビジネスの場面で聴いたこともある。かつて、オーディオ・メーカーには“Golden Ear”と呼ばれる専門職がいた。その金の耳を持つ者がそのブランドの音色を決めていた。今でもオーディオ専門の小さな会社にはそういう人がいるらしい。それだけがそのブランドの拠り所だから。

大手メーカーは万人受けする製品を作る。だから、試作機ができると何人かが集まり、そのなかで「よりよい」ものを選ぶ。そうした会議が何回か繰り返され「どれよりもよいはず」の製品が作られる。

あるオーディオ・メーカーの“Golden Ear”の人は、「その方法では絶対にオリジナルなものは作れない」と断言した。比較の上で「よりよい」だけで絶対的な指標に対して近似値を求めようとしていないから。


私の生き方も「進化」的なものだった。そして今もそんな生き方をしている。原点がなく、目標がない。夢もない。

いま、私には将来の夢というものがない。行ってみたい場所もなければ、してみたいことも思い浮かばない。私は空想することがない。

「現実逃避」という言葉がある。私の場合、現実から逃げるのではなく現実に逃げ込んでいる。生活のためにしなければならないことだけをして、あとは酒を呑んでいるか寝ているか。

この問いにすぐ答えはでない。少し時間をおいてから書き進めることにする。


さくいん:体罰丸山眞男


5/19/2012/SAT

私の夢

私には、夢も目標もないと書いた。そうは言うものの、仕事を見つける、結婚する、子どもをもつ、家を買う家族で外国へ旅する、など、十分に夢や目標と言えることを実現してきたことも確か。ただ、私はそれを「夢をかなえた」とは思わない。

何の苦労もなく実現してきたというつもりはない。それぞれ、苦労もしたし、努力もした。でも、結局のところ、実現できたのだから、それは「実現できる」ことだったのであり、「叶えられない夢」ではなかった。

言葉を換えれば、叶えられないものでなければ「夢」とは言えない。私はそう思っている。

私の生き方に、到達したい最終地点や目標はないものの、そこから歩み始めるべき原点はわかりはじめている。いや、はっきりわかっている。ただ、直視することが怖くてできていない。


夢と目標は違う。目標はできるだけ具体的にしたほうがいい。夢は具体的にしないほうがいい、叶ってしまったときに夢も消えてしまうから。

だから、夢は抽象的なほうがいい、高校生の頃、そう教えられた。「強い人になりたい」「人の役に立ちたい」、そういった夢に終わりはない。だから、いつまでも夢を持ち続けることができる。確かにこの考えには一理ある。


昨日、定時に会社を出て、電車のなかで投げつけた言葉

現在から現在を見るとーー不満も不足もない。
現在から未来を見るとーー不安なことばかり。
現在から過去を見るとーー不機嫌になる記憶ばかり。
いい加減、こんな堂々巡りはやめなければいけない。

気分が重いので夕べはすぐに寝てしまった。その分、今朝は早く起きることができた。張り切って自転車に乗り、病院のあとで図書館を2館まわった。


気分がいいので、すこし昼寝をしてから、餃子を作った。子どもたちは勉強にスポーツに忙しく、今日は手伝う暇もないようだった。

一人、図書館で借りてきたビリー・ジョエルのバラード集、“SHE'S ALWAYS A WOMAN--BILLY JOEL LOVE SONGS”(SONY, 2010)を聴きながら、ひき肉をこね、餃子をたたむ。

ふと、私には叶えたい夢があることに気づいた。その夢は、抽象的でもあり、具体的でもある。叶えられそうにないけれど、叶えられたという人もいる。


私の夢。それは、死者と再会すること。どうすればその夢は叶えられるのか、わからない。でも、叶えられたという人の話は知っている

この夢について考えるとき、必ず森有正の言葉を思い出す。

   死人を呼びかえすことができなければ、自分が死の中へ入って行くほかないだろう。どうしてこんな簡単な心理が判らなかったのだろう。
1967年4月21日、「流れのほとりにて」『エッセー集成 1』

それは自分も死ぬということではない。すぐ後で森はその途を否定している。

疑問形で書かれた文に対する4月21日の文に対して、森は、前日の4月20日に回答を書いている。

   こうして歩いて行けば、少しは去っていった娘と近くなるのだろうか。しかし立ち止まれば、いつまでたっても、娘のところに行くことはできない。だから僕はどうしても歩きつづけなければならない。

森の言葉遣いでは、「去る」で死を、「立ち去る」という言葉で自ら死に進むことを意味する。森は次女、正子は終戦の直前、疎開先の松本で二歳になる前に亡くなした。森は東京から疎開先へ向かう途中だった。

「去った者と再会する夢」。この一点において、私は森有正に共感する


もう8年も前に読んだ絵本“The Saddest Time”のなかで、大好きだったおばあさんを亡くした女の子は、よく二人でつくったクッキーを一人になってからもつくった。そして、焼きあがったばかりのクッキーを一つ食べるたびに思い出をかみしめていた。

その人と一緒にしたことを一人になってもしてみる。

私自身、そう書きそえている。ヒントはここにある。思い返してみれば、私が作ることのなかった餃子を作るようになったのは、あの絵本を読んでから。

一人きりで餃子をつくっているとき、ひとりではないような気がしたら、そのときが私の夢が叶うとき。


さくいん:ビリー・ジョエル森有正餃子


5/26/2012/SAT

70年代の擬似科学

『科学忍者隊ガッチャマン』の再放送を見ている。今回気づいたことがある。話の調子こそシリアスだけれど、物語の構造はタツノコプロのコミカルな作品群『タイムボカン・シリーズ』と同じ。敵には直接闘う相手となるボスと、それを影で操る大ボスがいる。小ボスは、毎回、ギリギリまで正義の味方を追いつめるものの、結局いつも失敗して尻尾を巻いて逃げていく。すると大ボスの大目玉を食らい、部下に見せる威厳ある姿とはまるで違い、あたふたと詫びる……。

音楽に長調と短調があるように、物語でも、同じ構造をもっていても、調子を変えるだけでまったく違う作品ができる。いままで気づくことがなかった。

1970年代に作られたこの作品では、タイトルにあるように「科学」が未来を作る力の象徴となっている。科学忍者隊を指揮するのは「博士」原子力や原子炉といった言葉も頻繁に登場する。70年代には科学への信頼があった。そして未来は明るかった


科学に信頼を置いた「明るい未来」には裏の面もあった。1970年代、破滅や最終戦争の予言に代表される未来に対する極端に暗い展望や、超常現象や超能力など、オカルトや疑似科学と言われるものも、子ども向けのアニメや映画、図鑑まで、さまざまな、というより、あらゆる場面で子ども文化に染み込んでいた。

余談。

この点について、学研の功罪は私たちの世代によって冷静に反省されなければならないと思っている。一方では『科学』『学習』『まんがひみつシリーズ』で理系一般、科学への導き手となり、他方ではジュニア・チャンピオン・コースの単行本で『もしもの世界』や『世界の秘宝をさぐれ』で疑似科学や今で言う陰謀論の種を当時の少年少女に植え付けた。

試しに、21世紀のティーンエイジャーに訊いてみたところ、ノストラダムスを知らなかった。アダムスキーやロズウェルは耳にしたこともないだろう。

疑似科学の時代は終わったか。確かに若者の理系、科学離れが言われるようになって久しい。本物への関心が薄れれば偽物への関心も低くなるのは当然か。


「明るい未来と疑似科学」の時代に育った子どもは今どんな大人になっているだろう。いまの子どもは知らなくても、その親たちはどっぷり疑似科学に浸かった子ども時代を過ごしている。そういう人たちが子育て、つまり医療や教育に怪しい思考を刷り込んでいないか。

医学で病気は治せない、怪しげな錠剤を飲めばどんな病気も治る、水は言葉を理解する、精神医療は不要、などなど、疑似科学はより実際的な場面に跋扈している。そして、そうした現代の似而非医療の担い手は子どもではない。かつては科学と疑似科学を受け入れて育った今の大人たち。子どものうわさ話ではなく、親の教育方針になることのほうが、ずっと恐ろしい結果を生む。

閑話休題。今回の原発事故でずっと不思議に思っていることがある。原子力が発見発明されてからすでに50年以上経っている。それなのに、同じ分野の専門家でも極端に正反対の見解を披露している。ある人たちはプルトニウムを食べても大丈夫と言えば、ある人たちは被爆して安全な放射線量などないと言う。

50年の間に、もっとも基本的な部分ですら、学者のあいだで合意がなされてこなかったというのはいったいどういうわけなのか。

最近、眺めた図鑑『世界で一番美しい元素図鑑』(The Elements: A Visual Exploration of Every Known Atom in the Universe, text by Theorore Gray, picture by Nick Mann, 2010、若林文高監修、武井摩利訳、創元社、2010)の終わりで、著者はすでに118番目の元素まで発見されているにも関わらず、最後の6個に名前が付けられていないと書いている。

一方、名前を付ける作業には発見よりずっと長い時間がかかります。発見の関係者それぞれが発見の先取権を主張し、命名委員会で議論がつくされるまで、だれも納得しようとしないのですから。
   かくしてこの本は、華々しく感動的なエンディングではなく、委員会の話で幕を下ろすことになりました。

科学といえども、それは人間の営みであり、複雑化するほど、人間関係の重要度が増す、つまり、政治化する

原発事故の最終的な処理方法、除染の方法や実行者、低量放射線に対する医学的な見解。何もかもが政治化している。疑似科学にしろ、明るい未来をつくるという科学信仰にしろ、70年代には「科学」は子ども向けアニメ作品に描かれているように、ほとんど素朴に受け入れられていた。しかし、科学もまた政治性を避けられない、という重要な点は見落とされていたように思う。


ところで『ガッチャマン』では毎回、敵のメカ怪獣が破壊されるとキノコ雲が立ちのぼる。

『タイムボカン』ではドクロに戯画化されていたので気づかなかった。以前、アメリカのある学校が校章にキノコ雲をあしらおうとして日本で強い非難の声が浴びせられた。

『ガッチャマン』放映時にキノコ雲は問題にならなかったのだろうか。


さくいん:『科学忍者隊ガッチャマン』70年代


5/28/2012/MON

『雨ふり花さいた』再読

通勤電車で往復のあいだに『雨ふり花さいた』(末吉暁子文、こねゆら絵)を読み返した。さかいゆうの「僕と君の挽歌」を聴いていたら、ずっと前に読んだ児童文学を読み返したくなった。


さくいん:末吉暁子


5/29/2012/TUE

まだ感想が書けない本

昨日の『雨ふり花さいた』に続き、往き帰りの電車のなかで、前に読んだ小学校高学年から中学生向けの小説『優しい音』(三輪裕子)を、読み返した。中学三年生の物語を読みたくなったのは修学旅行に行ったから。

私が修学旅行へ行ったのも5月のことだった。だからだろう、ほんとうは思い出したくないはずの同じ季節、15歳のころの自分を思い出した。

そんな風にしてぼんやり30年近く前のこの季節の記憶に浸っていたら、去年の春に読んだこの本のことを思い出した。この物語は中学三年の春から卒業までの出来事。

去年の春、この本を読み終えたときには、何も感想が書けなかった。二度読み終えた今なら書けるだろうか?

さくいん:三輪裕子恩田陸


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uto_midoriXyahoo.co.jp