山内昌之『政治家とリーダーシップ』(岩波書店、2001)で取り上げられていた本。風邪で寝込んでいるあいだに読みふけった。厳格な文章を書く歴史学の教授とお笑いタレントとではにわかに結びつかないが、意外なほど問題意識は重なっている。
本書ではとにかく石井が含蓄のある発言を次々としている。本書の主題の一つは、山内も提示する教養、エリートについてだが、共著者がエリート校での思い出話やエリート育成の方法に議論を進めようとするのに対し、石井は自分の体験を踏まえ、設問を大衆性と教養の両立という形に置き換えている。あるいは、より一般的には、不合理な現実のなかで、前向きに生きる方法といえるかもしれない。
石井の素晴らしいところは、安易な引用や受け売りではなく自分の体験や思いついた言葉で語っていることである。時折、自分の功績を韜晦気味に語ってみせたり、相手の間違った論点を冗談で流したり、論争の技術も巧み。だからアジるような演説や、説教めいた語りにならないでいる。
最高の読みどころは「一皮むける」体験をした高田文夫とのやりとりだろう。控えめな表現で高田の懐の広さを伝えているのも奥ゆかしい。最近『週刊文春』の阿川佐和子との対談で、グッチ裕三が石井と似たような発言をしていて驚いた。
石井の考えていることを私なりにまとめれば、大衆文化と教養を両立させるということは、己の大衆性を見つめ素直に受け入れながら、高みを目指すものである。コミックで思想を学んだり、歌謡曲をこむつかしい言葉で評論したりすることではない。学者がワイドショーのコメンテーターをすることとも違う。ラサール石井やグッチ裕三がテレビに出ながら、生の舞台やライブを続けるような、そんなこと。
何をしても卑屈になることもないし、驕ることもない。妥協することさえ怖れない。こちらは仕方なくする仕事で、あちらはやりたい仕事と峻別しない。何をやっても誠実に仕事をこなし、それでいて成果を出している。こだわりをそぎ落として突き抜けたような感じがすがすがしい。
ところで、二人は山内と同じように官僚やテレビ番組制作者、大企業社員が倫理感を失っていることを嘆いているけれど、同じエリート校を出た同級生や知人のことになると「そういう世界でよくがんばっている」という評価に落ち着いていしまっているのは残念。問題は、倫理感を保持した人間と欠如した人間とがいることではない。倫理感をもっている人間でも、官庁や企業にはいったとたん、見事に組織になじんでしまうこと。
まじめな人間ほど、巨大な組織の中では知らず知らずのうちに組織の論理に従っていくことが恐ろしい。強制収用所ではゲーテやヘルダーリンに涙するような平凡なドイツ人が、「業務」として平気でガス室のボタンを押していた。居酒屋で愚痴をこぼしたり、カラオケで熱唱する人が、害ある薬の認可を放置したり、政治家の裏金作りの手助けまでしていた。むしろ人付き合いがよかったり、使命感が強かったりするほど、組織の亡霊にとりつかれたときには手がつけられなくなるのは、官庁、企業の不祥事をみても明らか。
企業で働いている知人に「あなたの会社の製品を使っていますよ」と言うと、「あれはやめたほうがいいよ」とか、「内情を知ったら使いたくなくなるよ」というような返答を聞くことがある。自分が働いている企業の製品を無批判に信じて、研修で習ったばかりのセールストークを酒席で聞かされるのにもうんざりするが、あきらめきった態度には慰める言葉も見つからない。
「現実は甘くない、という言葉こそ現状を受け入れているにすぎない」という石井の言葉は耳が痛い。しかし同時に勇気づけられもする。彼自身、現実に抗っていることが、言葉でなく、行動で伝わってくるから。
もう一つ、著者二人が見逃している問題。二人は基準点に達すれば合格する受験は他人を蹴落とす戦争ではないという。紙の試験だけで結果が決まる大学の一般入試や中学入試の一部についてなら、その認識は正しいのかもしれないが、一般的な公立高校の入試では事情は少し違う。
ここからは体験にもとづいて書く。私の通った中学校は、近隣で校内暴力や非行が多発していたために、波及を食い止める防波堤となるべく厳しい管理が敷かれていた。非行や校内暴力を未然に防ぐために服装の細かな点まで定めた校則や教員の高圧的な態度、また予防的先制攻撃ともいえる教員側からの暴力、そして互いに監視しあう生活委員(風紀委員の民主主義的呼称!)による登校時の検査。
このような風景は、1980年代前半の公立中学校としては珍しくはなかっただろう。
そんななかで勉強ができる生徒や指導力がある生徒は、学級委員や生活委員をやらされていた。いや、実際には立候補や生徒自身による推薦により「民主主義的に」その職についた。教員のために学級運営の片腕となり生徒をまとめる、いわば企業における中間管理職のような役割、もっと言えば、カポーと呼ばれる収容所における被収容者の代表のような立場だった。あるいは、「若者が若者を指導する」という意味では、日教組ユーゲントといえるような存在だった。
高校入試について言えば、内申書が大きな比重を占め、その内申書は自分が上がれば、誰かが下がる相対評価によって採点されていた。しかも特記事項として、部活動や生徒会活動の成果が加味された。言うまでもなく内申書は極秘扱いで、生徒は自分について何が書かれているか、一切見ることができない。
にもかかわらず、志望校は、内申書の点数により、明確に序列化された学校群からほぼ自動的に決定されていた。勉強はできるが、指導力があるとは思えない生徒が役職につくことがしばしばあったのは、教員の支配下に管理と評価が一体となっていいたからにほかならない。
そういう環境で、勉強ができる生徒はどのような気持ちで点を取り、志望校を決め、高等学校というより高度な教育を目指しただろう。
仲間を売った後ろめたさ、「点取り虫」への自己嫌悪、点数のための学習への失望、そういうものを抱えて入学した高校で、教養を涵養し、リーダーシップを育成することができただろうか。
果たして、学区一番の進学校と賞賛された学校の内実は、言い知れぬ虚脱感に包まれたいわゆる「燃え尽き症候群」と、がんじがらめの拘束から脱け出た昂揚感によって駆動される「遊びまくり」が大量発生する、無法地帯ならぬ無教養地帯だった。したがって、実態は進学校どころか、大学を受けても一回では合格しない、受験校にすぎなかった。
しかも今度は、本当に頭脳が勝負の一発試験。もはや教養とは何なのか、進学校を出たエリートの負う社会的責任とは何なのかなど、考えることもできないほどに消耗していても、先へ進むためには詰め込まなければならない。なぜなら、その先にはテニスと合コンに飾られたレジャーランドが待っているのだから。
ここまで書いてきたことは、私が見てきた心象風景の素描にすぎないかもしれない。このような苦しみを感じることなく、大学へ入学した人もいるに違いない。これが教養をめぐる一般的な論点となるのか、わからない。少なくとも私は教養の問題を考えるとき、中学時代の苦い記憶を思い起こさずにはいられない。
最後に本書へ戻る。1・5流にほんとうに底力があるのなら救えるのは日本だけではないはず。小さなことを言わず、ぜひとも世界をまるごと救ってほしい。
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