11.3.04
Goodnight, My Angel: A LULLABYE, lyrics by Billy Joel, illustrated by Yvonne Gilbert, Scholastic Press, 2004The Saddest Time, written by Norma Simon, photographs by Jacqueline Rogers, Albert Whitman & Company, 1986 |
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シンガポールの書店で、ビリー・ジョエルの一曲を絵本にしたものを見つけて驚いた。詩に絵をつけた絵本は珍しくないけれども、ポップスやロックの歌詞に絵を添えた絵本というと、ほとんど思いつかない。葉祥明が絵を添えた『さとうきび畑』くらい。 “Lullabye”(“River of Dreams,” SONY, 1993)は好きな曲。といってもそれほど前からではない。ビリー・ジョエルで聴くのは、80年代までの作品ばかり。“River of Dreams”が話題になっていることは知っていたものの、DVD“GREATEST HITS VOLUME Ⅲ”を見るまで聴いたことがなかった。 “Lullabye“は、ビリー自身の娘、アレクサが発した素朴な質問をきっかけにしていると聞いたことがある。私が死んだらどうなる? お父さんが死んだらどこへ行くの?誰もが一度は、いや何度でも抱く疑問。大切な人がいれば、疑問は不安になり、切実になる。この質問に正しい答はない。正しい答はあるかもしれないが、生きている間はけっしてわからない。だから答が正しいかどうかよりも、その答に共感できるかどうかが問題になる。 人は人の心に思い出として残る、というビリー・ジョエルが娘に贈った答えには、私も共感できる。きっと、そうなのだろうと思う。作品や業績は思い出の付属品でしかない。生身の人間と関わった生身の記憶。だから思い出は生きているといえる。 挿絵は英語絵本によくある写実的な画風。それほど気に入った絵ではないけれども、この歌詞が絵本になっているだけでも十分うれしい。 “The Saddest Time”は「人は人の心に思い出として残る」という考えを、大切な人を亡くした子どもたちが体験した挿話に託す。挿話は三つ。仲良しの叔父さんを病気でなくした少年、クラスメイトを突然の交通事故で失った子どもたち、そして、大好きなおばあさんをなくした少女。 本書の主題は、もっとも悲しいときをどう過ごしたらいいかという具体的な助言。自分よりも悲しんでいる人に寄り添う、思い出を語り合う、その人と一緒にしたことを一人になってもしてみる。いずれも何でもないようでいて、むずかしい。残された人それぞれが秘密にしておかなければならない別れであれば、なおさら。それだけに上手にできた時には思い出が生きていることを真実として実感できるに違いない。 これまでも英語の絵本では、死別や離婚後に読むという具体的な場面設定がされた絵本を見たことがある。今年の4月、シリコンバレーの書店で見かけた“If Nathan Were Here“(Mary Bahr, Karen A. Jerome, Eerdmans Pub Co, 2002)は、今でも記憶に残る。ネットを通じてならすぐ買えるとわかってはいるけれど、まだ購入にはいたっていない。次に書店で見つけたらすぐ買ってしまうだろう。 英語で読むと、特に表現が淡々としたものに感じられる。冷静な筆致は、合衆国ではメンタル・ケアがより制度化されているという背景も影響しているのかもしれない。 Griefing、つまり悲しみの作法というものは、確かにあると思う。私生活に公的な意味づけがされているわけではなく、にもかかわらず社会生活が私生活のすみずみまで入り込んでいる現代では、さらに必要とされているだろう。また、そこに悲しみ方の難しさがある。委ねられるほど自然の治癒力は身近にない。そうかといって社会制度も完全ではない。放っておいてもいじりすぎても、悲しみはいびつな形で心を巣食いかねない。 絵と字の両方で語りかける絵本は「悲しみの作法」を学ぶ、いわゆる『グリーフ・ケア』の教材にふさわしいかもしれない。映像と言葉の立体的な経験を通じて、頭にも心にも偏らず死を受け入れる方法を学ぶことができるから。 絵を感じながら文字を読む、絵を読みながら言葉を感じる。絵本を読むということは、そういうこと。そこに特別な思い出があれば、読書はなお深いものになる。 旋律と言葉の両方で伝える歌にも、同じことが言える。Billy Joelの歌をずっと繰り返し聴いているのも、私にとっては絵本を読むことと同じ効用があるから。 |