大学で政治学を学んだ。そのなかでも「戦争と平和」の問題に興味があった。そこで、国際政治学や国際関係論の本を読みはじめたものの、何か自分が学びたいこととは違うように感じた。国際関係論では外交政策や国際条約など現実的な主題が中心になっている。私の関心は、もっと観念的なところへ向いていた。「平和とは何か、なぜ、人間は平和を求めながらも戦争を繰り返すのか」。そういうことを考えてみたかった。
そういうところから政治学のなかでも政治思想史を学ぶようになった。正式な卒業論文ではないけれど、大学4年生の冬、2年間の演習のまとめとしてジャン=ジャック・ルソーの戦争と平和についての考えを文章にしてみた。
拙い論文で、当然、「平和とは何か」という問いに答えられていないという「不完全燃焼」のような思いは残った。でも、研究者を目指して勉強をつづけることはできなかった。
私の持論では、研究者になるためには実力、財力、気力のすべてか、すくなくともそれらのうちの一つをしっかり持っていなければならない。
実力、すなわち学者としての能力が高ければ、資金に余裕がなくても奨学金を得て勉強をつづけることもできるだろう。能力を認めて引き上げてくれる人にも出会えるかもしれない。
どうみても学者になる能力がないのに、いつまでも大学にいる人は何人か見たことがある。彼らは働く必要がなかったのだろう。そして気力、つまり何が何でも学者になるという決心の強い人なら、貧しくても人に認められなくても勉強を続けるだろう。
実力、財力、気力。私は、そのいずれも十分にもっていなかった。とくに気力の問題はあとから思えば決定的だった。どうしても学者になりたいという決意が強くなければ、学者にはなれない。「平和とは何か」を考えつづけたいと思っていても、学者になってそれを成し遂げたいという真剣な決心はなかった。
「平和とは何か」という問いは、いまも持っている。でも、学生時代に抱いていた問いかけとはいまは違う。
私の考える「平和」は、「世界平和」や「パレスチナの平和」という国際政治のうえでの「平和」とは違うのではないか。10年前、本の感想や日常の出来事をウェブサイトで書くようになってから、次第にその思いが強くなっていった。
政治学のなかで「平和とは何か」を研究することは、私にとって「現実逃避」だった。学者になることをあきらめてから長い時間を経て、ようやくそのことに気づきはじめた。
「現実逃避」といっても、私の場合、現実から逃避しようとしていたのではなかった。その反対で、私は現実へと逃げ込もうとしていた。自分が内面で抱えている問題から眼をそらすため、自分の外側にある事柄に埋没しようとしていた。
そのことにはっきり気づいたのは、北米出張の機内で、Ray Charlesの生涯を描いた映画“Ray”で彼の歌う“Georgia on My Mind”を聴いたとき。
No peace, no peace I find
Just this old song keeps Georgia on my mind
“Georgia on My Mind”は、Ray Charlesの自作ではない。彼が生涯この歌を歌い続けたのは、故郷であるジョージア州を思い続けていただけではなく、幼い頃に亡くした弟の名前、Georgeとこの歌の題名と内容が重なったからではないか、と私は思っている。少なくとも、映画ではそのような意味付けがされていた。
私がほんとうに探していたのは、また、これから探さなければならないのは、自分の心の「平和」。
もう20年以上前になる学生時代、「平和」について考えるために最初に読んだ本、石田雄『平和の政治学』(岩波新書、1968)では、さまざまな文化圏での「平和」を表わす言葉とそのニュアンスを分類していた。記憶をたどると、ヘブライ語の「シャローム」に「心の安寧」の含意があることを思い出した。