高山右近(1999)、加賀乙彦、講談社文庫、2003


高山右近

高山右近の名前は知っていたものの、彼が金沢にいたこと、マニラで客死したことは知らなかった。北陸図鑑を探していて『加賀百万石異聞 高山右近』(北國新聞編、2003)を見つけ、興味をもった。加賀乙彦が伝記小説を書いていることを知ったので、文庫を買って帰路便で読みはじめた。

加賀乙彦は、以前から読んでみたいと思っていた作家。遠藤周作との対談や、短い文章をいくつか目にしているけれど、小説はどれも文庫本で数巻に渡る大長編なので敬遠していた。『高山右近』は、幸い、一巻完結。これも手に取った理由の一つ。


この小説では、高山右近に何の迷いもないことが特徴になっている。信仰をもつことで苦しむ人もいれば、信仰をもつことで心の底から晴れやかになれる人もいる。おそらく著者は後者の立場から、信仰を得た人がどこまで強くなれるかを主題としたのだろう。

関が原の戦い以降、加齢とともに右近は厭戦感情を深める。だから、右近は秀頼に手を貸すことも、外国軍を頼りにレコンキスタを目指すこともしなかった。もしも、右近がもう少し若く、大阪冬の陣のころ、まだ血気盛んな若武者だったら、どうだったろう。

いずれにしろ、キリスト教が伝来とともに急速に広まった背景には、魅力的な貢物で権力者を懐柔したばかりではなく、民衆も武士も戦に嫌気がさしていたという戦国時代末期の雰囲気があるように思う。

わずか半世紀のうちに、西日本一帯に信者が増えていることにも驚かされるけれど、現代からみて驚異なのは、船しかない割には、ヨーロッパとのあいだでかなりの情報の交流があること。

小説に出てくる天正遣欧少年使節団や、『聖書の日本語』で知った岩吉、久吉、 音吉など、世界を旅した、というよりほとんど彷徨した人たちの話には、なぜか心躍る。船は苦手で、飛行機でも少し揺れただけでも酔いはじめてしまうのに。

戦国時代を生き抜いたキリシタン大名、高山右近は、「天下」という言葉を知っていたから、キリスト教にすんなりなじめたのだろうか。小説の中のキリシタン大名には、土着信仰や既存の宗教とのあいだで悩んでいる様子はまったくない。神道も天皇もこの小説には出てこない。

仏教の諸宗派はほとんど別の宗教のように分かれていて、なかには戦闘的な集団を形成している宗派もあった。父親も入信していた右近にとっては、西洋の文物に対する憧れも手伝ってキリスト教に傾くことは、むしろ自然なことだったのかもしれない。


右近の苦悩は、他の宗教とのあいだではなく、世俗の権力とのあいだにある。信長から秀吉、家康まへとわずかな時間に絶対的な力をもつ権力者は次々変わり、彼らのキリスト教に対する政策も、朝令暮改を続けた。専制君主を三人も見たことが、封建制の否定ではないにしても、疑問を右近に感じさせたのではないか。

高山右近が深い信仰をもっていたことは認めるにしても、それだけでは彼の殉教は片付けられない。彼の選んだ道は、つねに冷静な状況分析のうえでの現実的な判断であったことも見逃せない。

主君、家臣、縁戚に弾圧の手が伸びないようできる限りの妥協をしているし、秀頼につかなかったことも、自分自身の体力の衰えや、幕府側の圧倒的な力を十分認識していたための選択だったように見える。外国軍を頼りに挙兵することが、スペインンとポルトガル、さらにはオランダとの覇権争いに巻き込まれることを予期していたか、小説でははっきりとは書かれていないものの、スペインがフィリピンを植民地化していること、同じキリスト教国のスペインとオランダがインドネシアをめぐって争っていることは、マニラで知ったことになっている。

巨視的にみると、右近にはほとんど選択肢はなかったようにも思える。殉教を選んだというより、そうせざるをえない現実を潔く受けいれたと言ったほうがいいかもしれない。その潔さに、信仰が関わっている。

要するに、奥底では信仰が彼を支えていたことは間違いないにしても、その一つ一つの判断は、自分自身の責任で下されている。誰かが枕元に立ったわけでもないし、夢の中でお告げがあったわけでもない。右近は、淡々と時代の流れを受けいれていく。彼の内面を推測することを、加賀はあえてしない。

こういう感想をもつのは、アウグスティヌスの終末論について少し読んでいたせいかもしれない。信仰が生きる道を示すと思っているのは、信仰をもたない人の思い込みではないだろうか。道は、人間が選ぶもの。神はそれを教えてくれないし、選んだ道を神のせいにすることもできない。信仰を持っている人は、実は神様なんてアテにしないのではないだろうか。

この小説は旅を題材にしている。金沢から京都、長崎からマニラ。旅の途上で過去が回想され、回想が右近の信仰を深くする。


これまでの読書では、今西祐行『浦上の旅人』も、遠藤周作『深い河』も、山形孝夫『死者と生者のラスト・サパー』でも、それから、アウグスティヌス『告白』も、旅と回想の物語だった。思えば、アブラハム、ロト、モーセ、イエスパウロなど、旅の物語は聖書にあふれている。

出発、旅、帰還、そして回想。こうした言葉がキリスト教において重大な意味をもっていることがわかってきた。これらは、人間の意志が関わるという点で、誕生と死とは違う意味をもつ。それだけに、自分の意志で選べない旅への出発や、そこからの帰還は、死と誕生を思い起こさせるものになるのだろう。重要なことは、誕生と死ではなく、死と誕生であること。つまり、出発が終わりを意味し、帰還が始まりを意味する

出張には、読みなれた本も持っていった。ぱらりと開いたページに、まだ蛍光ペンを引いていない一文が目がとまった。

遠くに旅立つことが、自分にかえってくる道程だったとは、どうして想像することができただろうか。しかしそうであった以上、僕は自分の中に、自分の血と涙と、そして、多くの犠牲をもって刻み上げたこの「形」を護り、深め、磨き上げなければならない。
森有正「パリにて 一九五四年一月五日(火)」「バビロンの流れのほとりにて」『森有正エッセー集成Ⅰ』

少し汚れてきた文庫本にピンクの蛍光ペンで線を引き、日付と場所を記しておく。

読書も一つの心の旅。新しい読書は、いつも過去の読書に帰っていく


6/26/2016/SUN、追記。

高山右近が列福されると知った。


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