But now it matters not
If I should live or die
'Cause I'm only left with my own jealousy
――Jerousy, Queen, lyrics by Fredie Mercury, Jazz, EMI, 1978
著者の名前は、Twitterで知った。気になるツィートをよく見かけるので、彼の著作を読んでみることにした。
選んだのは、日本文化論ともいえる近著とより彼の専門に近い本を二冊。
読んでみると、これまでツィートを見ていたときに想像していたとおり、共感するところと一貫した問題意識を感じた。ただ、その先で、「では、そのように分析される社会で自分はどう行動し、どう生きるのか」を考えはじめたところで躓いてしまった。
子どもたちは変わったか、という問いに著者は答える。確かに変わっている、しかし変わっているのは子どもをとりまく環境が変わっているからであり、その環境をつくっているのは大人たち。だから、大人たちが変わらなければ、子どもたちは変わらない、と考えている。
(だとすれば、)いま必要なのは、「ふやけた若者たちを何とかする」ことではなく、80年代以後、迷走を続ける日本の社会と文化を、そして大人たち一人一人の生き方を「何とかする」ことのように思われる。(「モラトリアム・若者・社会――エリクソンと青年論・若者論」)
この考え方を巨視的な見方とすれば、同じ考え方を微視的に、つまり個人のなかで考えれば、「自分のなかにいる<子ども>を変えていかなければならない」という岡本夏木の言葉に交わる。
余談。同じことは「街」についても言える。さだまさしは「都会はけっして人を変えてはゆかない/人が街を変えてゆくんだ」と歌う(「距離」『印象派』)。だから、人が変わらなければ、街は変わらない。
閑話休題。
『ジェラシーが支配する国』は時事的で多岐にわたって話題が広がっているけれど、「妬みや嫉み」、言葉や行動ではなく、まして思想とは言えない「空気」が日本の「世間」を覆っているという視点は一貫している。
興味深いことは、「ジェラシー」は「持てない者」が「持てる者」に対してもつばかりではないこと。「持てる者」「上にいる者」が「持てない者」「下にいる者」に対してもつこともあるという。著者はそれを「負の相対的剥奪感」と呼ぶ(『ジェラシーが支配する国』Ⅸ 「引き下げ民主主義」考)。
「負の相対的剥奪感」には二つの種類があるように思う。一つは、The Blue Heartsが「Train Train」で歌っていた「弱い者達が夕暮れ/さらに弱い者をたたく」ようなこと(真島昌利作詞)。上には歯向かえないから、自分より弱い者を攻撃して憂さを晴らす。これは、子どもでもする。
もう一つの型は、わかりにくい。明らかに「持てる」「上にいる」はずの者が明らかに弱い者を足蹴にする。なぜ、そんなことが起きるのか。上にいる者は下にいる者など気にせず、放っておけばいいのではないか。
考えていると、もう10年近く前に読んだ『魂の労働――ネオリベラリズムの権力論』(渋谷望、青土社、2003)の感想で書いたことを思い出した。
勝ち組、負け組という単純な分け方ではすまされない。現代の状況が絶望的なのは、勝ち組が一方的に勝っている、つまり負け組の不幸を犠牲にして幸福になっているわけではないから。
勝ち組は激しく労働し、激しく消費する。何かに強制されてしているというわけではない。それが幸福だと自分で思うように慣らされている。一方は機械のように労働と消費を繰り返し、他方は道端の草のように見捨てられている。どちらも人間的な暮らしではない。
「持てる者」、いわゆる勝ち組にも二つの層がある。一つは、富裕層。著者も「アメリカのセレブ」を富を持っているだけではなく、それを消費することを派手に見せびらかす層としてとらえている。もう一つは、階級社会論を研究する橋本健二が新中間層と呼ぶ人たち。官僚や大企業の幹部など、自ら経済資本をもっていなくても、賃金労働者のなかでは高い報酬を得ている。高学歴で文化資本の蓄積も高い。
彼らの特長は、もとから富裕層にいたわけではないと思っているところ。努力して、勝ち組になったという自己評価が高い。
だから、新中間層の人たちからすると「持たざる者」は努力しなかった、あるいは、いまも努力をしてないから持てない、勝てない、生き残れない、という風に見える。自分たちはずっと努力しているという自負が強い。
自分は努力してきてここまで来た。努力もしていないのに、制度に救済されるなど許せない。そういう気持ちがもう一つの「負の相対的剥奪感」を生むのではないか。
言うまでもないが、新中間層の自己評価は間違っている。彼らは努力だけで上昇してきたのではない。親から受け継いだ文化資本をもとにして受験戦争を勝ち残り、日本社会の上層に食い込むことができたのだから。
2002年にピエール・ブルデューの入門書を読んだときに、次のような感想を残している。
「血による峻別」「財産による峻別」に続いた「能力による峻別」(学歴といってもいいかもしれない)はいかにも誰にでも平等であるかのように装っているが、実は財産による峻別の化粧直しにすぎない。しかも脱落者に敗北の原因は能力が不足していたとあきらめさせ、また成功者に勝利は能力の差であると錯覚させることにより、より自発的に現行制度を補強させる結果をもたらす。
隠蔽された「財産による峻別」とそれを見えにくくする錯覚は、強者が弱者を踏みつける「バッシング社会」の温床と言えると思う。
著者は日本では富裕層の消費活動は見えにくい、と書いている。アメリカの企業で働いている実感で言えば、アメリカでも金持ちであってもつましい生活している人は少なくない。私が働いている会社の本社幹部は高給取りで成功の報酬もたくさん得ている。それでも、安っぽい服を着ていたり、いつまでも古い車に乗っている人もいる。彼らは金持ちであることを誇示する必要はないし、極端な話、あまり目立つと身の危険にも晒されるから。
富裕層にとっては、慈善活動や創作活動にいそしむことはたやすい。同時に華やかな消費生活を送ることもできる。贅沢をするもしないも自由な余裕をもつ富裕層に対し、新中間層は休むことができない。競争はいつまでも続く。そして、勝ち残っていることを他者に示すため、また、自分自身を慰労し鼓舞するために贅沢な消費を続けなければならない。
日本社会の良いところでもあり悪いところでもあるのは、何度も選別があり、競争に再挑戦するチャンスがいつまでも残されている点にある。そういう分析をどこかで読んだ記憶がある。
だから、上り続けている人には下を見ている余裕はない。それどころか、自分たちのように努力していない(ように見える)人たちは「怠けている」ようにしか見えない。
著者が理想とする社会は「結果の平等」ではもちろんなく、「機会の平等」でもない。著者は使っていないようだが、それは「結果の公平」ではないか。
「普通の人たちがまじめに働いてさえいれば、安心して暮らしていける社会」と「はじめに」に書いてある。中退者を減らし就職率を高めた高校の事例は「はしがき」に書かれた理想の一事例と読むことができる。
著者による日本社会の分析と彼がおそらく想定している理想像に近づくためには二つの方策が考えられる。一つは、上述のように、いま「持たざる」位置にいる人たちに何らかの「持てる」手だてを与えること。
もう一つ、より重要に思われることは、「持てる者」と呼ぼうと、「新中間層」と呼ぼうと、あるいは、少し古くさい言葉でインテリと呼ぼうと、いま上り続けることで精一杯になっている人たちがそれぞれに自分の生き方を振り返り、過剰な労働と過剰な消費、そして過剰な競争を自分から辞める、つまり「ゲームから下りること」ではないか。
その段階に至るためには、一旦、格差を可視化することにも効用があるように思う、著者は同意しないかもしれないが。その方法については、著者のいうアメリカ・セレブ的な誇示ではなく、ブルデューが示唆した「錯覚の暴露」が有効だろう。
ただ、具体的な方策についていまの私には思いつかない。私の考えは別の方向へと進みはじめている。
ここで問題が明らかになる。私自身がおそらく控えめにみても「新中間層」の下部にいるということ。首都圏の郊外にある新興住宅地で育ち、私立大学を卒業した。大企業で働く道からは落ちこぼれてしまったものの、今も東京で持ち家に住み、統計的にみれば平均的な賃金労働者よりずっと高い報酬を得ている。
にもかかわらず、私には勝ち残ったという自覚はない。この点は、そのほかの「新中間層」の人たちにも共通していると思う。
さらに私の場合、客観的には困った人や貧しい人を助けることができる場所にいるのに、未だに自分のほうこそ、「救済されるべき痛み」を抱えていると思い込んでいる。さらに加えて、桑田佳祐の言葉を借りれば「涙もろい過去がある」(「TSUNAMI」)。
著者の日本社会の分析は厳しいけど希望は捨ててはいない。楽観的ではないにしても、日本に住む人たち(あえて日本人とは書かないでおく)は、「ジェラシー」を克服する力をもっているだろうと書いている。
我が身を振り返ると、とても楽観的にはなれない。
ジェラシーに支配される国に住んでいるどころか、私自身がジェラシーに捕われている。それどころか、激しい被害者意識さえ抱えている。
ジェラシーが支配する社会で暮らす、Jerousyが支配する私。そう考えると、問題はかなり根深い。