8/1/2010/SAT
この8ヶ月間についての総括
京都泊。
夕方早く仕事が終わったので福知山線に乗り嵐山へ。なんとか黄昏の渡月橋に間に合う。
用意しておいた、風の「古都」(伊勢正三作詞、大久保一久作曲、1976)を聴く。この風景を見ながら、この曲を聴きたかった。
何もかもが 僕に 背中を向けて
僕は 僕は 僕は ひとり
取り残されて しまったような 気がする
ずっとずっと、こんな気持ちのままでいるような気がする、あの日から。
阪急嵐山線で烏丸に出て地下鉄で京都駅へ。
押し寿司とビールを買い込み、ホテルに着いたところ。
写真は、黄昏の渡月橋。手元にある「古都」はコンピレーション・アルバムの一部なので、この写真をこの曲のアートワークにあてがうことにする。
「総括」。こんな古くさい、私自身は聞きかじっただけの言葉ではあるけど、こんな言葉しかいまは思いつかない。要するに、この半年余りの月日が何だったのか、よく考えなおしてみる必要がある。
この8か月と最後の4週間、そのことについて集中的に考えてみる。
まだ苦痛もパニックも治まってはいないとしても、尋常でない時間が終わったばかりのこのひとときに振りかえっておかなければならない。
このところ、週休一日のような暮らしをしている。休日出勤しているわけではない。金曜の晩、なんとか一週間の仕事を終わらせたあと、いい気になって酒を呑む。そのあと土曜日の夕方まで、ひどいときは日曜の朝まで寝ている。それでいて日曜も朝食のあとに寝て、昼食のあとにもまた寝ている。
今日はめずらしく土曜の夕方に起きていた。久しぶりに餃子をつくってみた。つくってみたといっても、子どもたちも手慣れたもので、私は缶ビールを片手に段取りを指示するだけでいい。背景ではBilly Joelが流れている。
幸福な瞬間、と言えるだろうか。幸福とは不幸の裏返しであるなら、そういう言い方も当たっているかもしれない。いつの日か、彼女と彼はなぜ父親が餃子をつくるときにBilly Joelを聴いているのか、知るときが来るだろうか。
知るときは来るかもしれない、でも、その気持ちを理解してくれる時は来ないだろう、最近はそんな風に悲観的に思うことが多い。
何より今夜は、ひき肉を混ぜ、餃子をたたんで喜んでいる無邪気な彼らの姿に私は羨ましくなり、嫉妬さえした。
この気持ちとこの8ヶ月間の出来事のあいだに直接の関係はない。あるいは、そう片づけているところに私の心理の大きな問題があるのかもしれない。
「総括せよ!」なんて書きだしたのは、少し前に読んだ本の書名のせい。『総括せよ! さらば革命的世代 40年前、キャンパスで何があったか 』(産経新聞取材班、2009)。
「結局、歳をとれば懐かしく思い出すだけなんだ」
この感想は、この本に対する感想ではなく、これから先の私自身への警告。
「総括」という言葉を思いついたのは、未来の自分は今の自分を許せなくなることをすでに思っているからだろう。
8/7/2010/SAT
総括せよ!
「総括せよ!」、と自分自身に向けて書いた。総括しなければならないのは、この8ヶ月間の出来事とそれに対する自分の態度。
この8ヶ月間の自分をひと言でいえば、「有頂天」だろうか。それとも「身の程知らず」か。
渦中にいるときは、とにかくしなければならないことをするだけだった。それさえもできず泣きわめき、週末は眠りつづけ、このままでは早晩、まともでなくなるだろうと思っていた。
ところが、渦中から抜け出た時、ほっとしたと同時に、自分でも驚いたことに「やっぱり評価されてはいなかったんだ」「荷が重いと思われていたんだな」という悔しさを感じずにはいられなかった。
卑しく俗物根性にまみれた上昇志向にこれほどまで染まっていようとは、薄々気づいてはいたけれど、自分でもあきれ果てた。
優秀な人間と思われたい、デキる奴と思われたい、「いい人」と思われたい、それどころではない、人を見下ろしたい、周りよりも優位に立ちたい、そういう気持ちを私はいつも抱えている。
アメリカ出張の帰り、空港からのバスのなか、鞄に入れていたのにむこうでは一度も開くことのなかった『キリストにならいて』(由木康訳、教文館、2002)を開いたところ、次の一節が目にとまった。
わが子よ、他人が昇進栄達し、あなた自身が軽侮卑下されるのを見ても、心を動かしてはならない。
(「第三部 内的慰めについて」「第三十五章 あらゆる世俗の栄誉を軽んじること」
忘れないように蛍光ペンで線を引き、日付と場所を記した。
3000曲以上入った音楽プレーヤーで、さだまさしの「償い」が流れている。こういう偶然はある。
確かに私は「償い」についてもっと真面目に考えるべきなのだろう。
償うために私は生かされている、あるいは、罰としての生命、そういう考えについて、私はもっと真剣に向かわなければならないはずだった。
網野善彦の『「日本」をめぐって――網野善彦対談集』(講談社、2002)を最近読んだ。対談集を流し読みしただけで読書をしたとは言えないけど、活字を見ることさえできなかった身にしてみれば、文体はどうであれ、単行本一冊読み終えただけでも大げさにいえば進歩と言えるし、ちょっとした回復ではある。
対談で網野は繰り返し「負けた立場から書きたい」と話している。そう言えるのは、彼自身がほんとうに「負けた」立場から思索を始め、その原点を忘れずにいたからだろう。
字面だけに共感を覚えながらも、そして私自身「勝ってもないのに、負けたと認めたくない人が、ほんとうに負けた人を糾弾し、一段高い場所を確保しようとする」と書いておきながらも、私こそ、そういう人間の一人だった。
言葉はいつも自分の先を行く。自分では実現できていないことも言葉では表すことができる、できてしまう。だから、胡散臭い本が書店に並ぶことになる。
そんな状況に辟易しているつもりが、自分自身、実は自分の言葉に追いついていなかった。2008年まで書いていた文章を読み返してみれば、むしろこの2年は自分が自分の言葉からずり落ち、その後塵を呆然と眺めているだけだった。
自分が発する言葉と自分の行動を一致させること。美しいと誰かに評価される文章を書くことよりはるかに難しい。確かに、実人生とは無関係に美しい文章を書けてしまう人はいないわけではない。でも、私自身はそうした文章を望んではいない、そういうことは書き手が選べることではないと知ってはいるけれど。
とにかく。書きはじめた、そして、読みはじめてもいる。この8カ月の自分に後悔と自己嫌悪は尽きないけれど、そのことだけはうれしい。
8/28/2010/SAT
夏祭り
夏祭りは苦手。陽射しが傾く夕暮れ時、太鼓の音が聞こえてくると、なぜか、寂しいような悲しいような複雑な気持ちになってくる。
去年まで住んでいた団地では毎年、夏祭りがあった。
積極的な自治会員ではなかったものの、倉庫からテーブルを出したりテントを張ったり、手伝えることはできるだけした。
でも、祭りの時間が近づいてくると、だんだん外にいるのが辛くなってきた。去年はとうとう祭りには行かず、窓の向こうで響いている太鼓の音や子供たちの歓声を聞きながらずっと布団で横になっていた。
1983年、中学三年生の夏休み。その頃住んでいた地域でも夏祭りがあった。
誰と示し合わせるでもなく、一人で夕刻、様子を見に行った。
同級生だった一人の女子生徒が“Quick Quench”という名前の白いラベルの缶ジュースを手にしていたことを覚えている。もうその名前の清涼飲料水は売っていない。
彼女があの夜どんな服を着ていたのか、浴衣だったか、洋服だったのかさえ、もう覚えていない。でも、彼女が手に持っていたジュースの缶がまぶしいほどに白かったことだけは覚えている。
それよりも数か月前のあの晩のように、白いスカートに白いスニーカーだったろうか。今ではもう思い出すこともできない。その記憶は沢田聖子「シオン」にあった「白い靴で駈けてくる/あれは昨日の夢のなか」(作詞はイルカ)という一節の記憶が上書きしているかもしれない。
同級生や下級生たちと無邪気に話している彼女を目で追いかけながら、結局、声をかけることはできないままでいた。
今日は、午前中に病院へ行ったあと、昼間はずっと寝ていた。夕方になって、家族に連れられ近所の小さな夏祭りをのぞいた。
一人ぽつんと缶ビールを呑みながらささやかな、それでもにぎやかな夏祭りを眺めていた。
ずっと昔の夏祭りを思い出したのはそのせいだろう。
今朝、病院で「治るというのは、どういうことでしょうか」と訊いてみた。
「前のような生活が送れるようになることです」
S先生は簡潔に回答した。
「前のように、というと、季節が変わるたびに沈みこんだり、昔のことをいつまでも気にかけているような生活だったんですが」
先生はきっぱりそう言った。
ここにその人の回復は完成し、その人の前に横たわるものはすべて、ただその人の生活のみとなる。
しばらく前に読んだ『心的外傷と回復』(Judith Lewis Harman、中井久夫訳、みすず書房、1996)は、そういう言葉で終わっていた。S先生が言いたいことも、回復とは、とりあえず、この数年の異常な精神状態や、そこにまつわる心身状態から脱却すること、それだけを目指す、ということなのだろう。
「ハイテンション、ハイモチベーションの人間になる必要はない」と信頼する医師は言ってくれた。その言葉はそれなりに安堵させてはくれたものの、では、ローテンション、ノーモチベーションのまま今の会社でやっていけるのか、今の会社でやっていけないとすればいったいどこで働いていけるのだろうか、という不安は残る。
そして、こうした異常な心身状態に陥る前の自分は病気ではなかったと言えるのだろうか、前の状態に戻りつつあるとしても、それは治療や改善をする必要はないものなのだろうか、という疑問も残る。
ふと思い出して、中島みゆき「まつりばやし」(『あ・り・が・と・う』、1977)を聴いている。
1983年の夏、私がいつまでもあの夏の祭りの夜を覚えているのは、あれが、私にとって最後の「まつりばやし」だったからか。おそらくはそうなのだろう。
2011年5月12日、中島みゆき「まつりばやし」を聴きながら追記
いや、私にとって「まつりばやし」は、15才だったあの夏よりも、もっと前に終わっていた。ただ、そのことに気づかないように逃げまわっていただけ。そのことに気づくまでにも30年以上もかかってしまった。
若かった、というだけで済ませることのできる問題だろうか?
「まつりばやし」のあとには、「呼んでもどうにもならないけれど/忘れてもあなたは帰らないじゃないの」と歌う「女なんてものに」が続く。
uto_midoriXyahoo.co.jp