クルマを失くしたので、また毎日、電車に乗るようになった。昼休みに行く職場の近くの図書館で、大きな本を借りるのが億劫になり、文庫本の棚を見るようになった。
ぼんやり棚を眺めて、あまり深く考えずに目に止まった本を次々借りてきた。これまで借りてきた本のいくつか。
- 『ぼくたち、Hを勉強しています』(2003、井上章一、鹿島茂、原武史、朝日文庫、2006)(内容よりも、大阪への偏見に抵抗する井上の健気な姿が印象的)
- 『シーシュポスの神話』(Le Mythe De Sisyphe, 1942, Albert Camus、清水徹訳、新潮文庫、1969)(難しい。途中で投げてしまった)
- 『死別の悲しみを超えて』(1994、若林一美、岩波現代文庫、2000)(この分野には性急な結果を求める仕事ではなく、こうした地道な活動と研究がふさわしい)
- 『フランス語はどんな言葉か』(1969、田辺保、講談社学術文庫、1997)(森有正の名前がまえがきに。言語の違いは文化の違いという見方にも影響が見られる)
脈絡もなくいくつかの文庫本を読んだあと、石原吉郎の名前に目がとまった。これまで読んだことはなかった。
石原の名前を知ったのは、たぶん荒川洋治『詩とことば』。その前に読んだ荒川の本にも、石原の名前があったかもしれない。ともかく、石原の名前は荒川の文章と関連して覚えていた。
だから、石原がシベリア抑留の生存者だったことは、読む前から知っていた。荒川の文章で少し興味を持っても、読まないでいたのは、そのせい。体験者の直接的な言葉を私はなぜか避けている。
石原の詩やエッセイは、体験をそのまま吐き出した体験談ではない。そうかといって、学問的な考察を通した冷静で客観的な記録というわけでもないし、宗教的な経験を経て別の次元に昇華された告白とも違う。
ここでは、経験したことが経験したことのまま、言葉にならずに残っている。言葉にならない経験が、そのままでもどうしようもなく、だから言葉にならない言葉になってぽつぽつ噴き出している。
言葉でないような言葉が詩になり、やがてすこしずつ散文になっていく。荒川洋治は、散文を詩と対立するものと考えているけれど、石原の仕事を眺めると、詩と散文は相互補完的であるし、詩は散文の源泉で、散文は詩が自然に到達する姿の一つのようにも思える。
この見方は、荒川の考えとそう違っていない。詩のことば、言葉にならない言葉を通過しない言葉で書かれた散文を、荒川は「体験をかきけしている」と非難しているのだろう。
詩とは、言葉にならない言葉。石原自身がそう考えていた。
詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば、「沈黙するための」ことばであるといっていい。もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動が、このような不幸な機能を、ことばに課したと考えることができる。いわば失語の一歩手前でふみとどまろうとする意志が、詩の全体をささえるのである。(「詩の定義」、1972)
『詩文集』の冒頭に掲げられた文章が、詩だけでなくエッセイも、石原の仕事すべてについてあてはまる。「失語と沈黙のあいだ」というエッセイもある。
詩が本来こういうものだったとは知らなかった。詩は、すでにある言葉を壊してできていると思っていた。ありきたりな言葉をわざとらしくバラバラにしてみせた言葉が、店先にたくさん並んでいる。前は詩を読んでいたこともあったのに、詩なんて、といつの間にか思うようになっている。
読みなれていないので、詩は読みにくい。エッセイや年譜を先に読んでしまうと余計に邪念が入る。「言葉になった言葉」としてつい何かを読みとろうとしてしまうので、なかなか「言葉にならない言葉」を感得することができない。エッセイと詩を何度か往復して、少しずつ言葉になりかけたところにある言葉がわかるような気がしてきた。
詩でも散文でもない断章も多い。ふつう、こうしたノートに無造作に書かれた断章は、生前に発表されることはない。詩や散文になる途上にある生々しい言葉を作品として、自ら発表していたことにも、石原の言葉に対する考え方が表れているように思う。
「葬式列車」という詩に、「いつも右側は真昼で/左側は真夜中のふしぎな国」とある。私も、「右側が暗く、左側が明るい」不思議な場所に立って文章を書き残したことがある。ちょうど二年前の今日のこと。
そんなことから奇妙な親近感が芽ばえて、さらに読み進めてみると、このところ、私のなかでぐるぐるまわって外に出てこないでいる言葉が、石原の言葉のなかでも旋回していることに気づいた。待つ、ひとり、祈る、そして、加害者でも被害者でもない〈位置〉。
確かに、言葉になって詩やエッセイに書かれている。でも、言葉は、どこにも出て行かないで、作品のなかに漂っている。独りよがりで、どこにも届かないということではない。独りよがりにさえなれずに、言葉は留まっている。
「ゆるされてそこに在る」という言葉を、私はある時教会で聞いた。私はゆるされて、ここに在るだろうか。私には、私が「ここに在る」ことにより罰せられているとしか思えない。(「一九五六年から一九五八年までのノートから」)
「ここに在る」ことを否定的にとらえたあとで、「〈そこ〉にいない」ことも肯定されない。そしてさらに、「〈ここ〉にいること」が「私の虚無」と続く。
待つということが、ただ終りを待つことになっていないか。考えることも表現することもそして、耐えるという意志さえ、「ひとり ただ くずれさるのをまつだけ」という孤立無援の事態を、せいぜいすこし遅らせることに手を貸しているだけではないか。打開するということが考えられていない。出口のない言葉。
この考え方はたぶん間違っている。でも、それをどう否定していいのか、わからない。私は、むしろこの考えに共感している。
石原が異常な心理状態にあったのと同じように、私も危機的な状態にあるのかもしれない。それはもちろん、客観的に同等ということではない。自分の耐量に対し過剰で異常という意味で、主観的に同等ということ。
石原の言葉に、ほんとうに出口はないのか。もっと彼の言葉を読んで確かめる必要がある。私の言葉の出口を探すためにも。
検索してみると、職場近くの図書館には、全集全三巻(花神社、1980)がある。一冊600ページを超えてただでさえ分厚い全集は、装丁は質素でも、紙が上質でとても重い。
一冊ずつ借りて持ち帰り、夜に、ひとり、読みはじめた。
線を引きながら読めるように、文庫本は買いなおした。