烏兎の庭 第一部
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日本人とキリスト教、井上章一、講談社現代新書、2001


日本人とキリスト教

井上章一は、日経新聞で週末夕刊の書評欄を担当していて、興味をもちはじめた。著作を調べて、下世話な興味から『パンツが見える』(朝日選書、2002)を図書館で立ち読みした。一般的には本能の一部分と思われている性欲や官能といった心の働きも、時代と地域によって変化することが真面目に書いてあり感心しながら読んだ。井上は、目のつけどころに常識の転回がある。今回も、図書館の隅で走り読み。

本書での井上の手法は、思想史、社会史といっても歴史的史料として残っているものではなく、怪しい、いってみればトンデモ本として捨てられ、やがて忘れられたような本や文書に当時の人々の偏見を含めた思考回路が残っているという見方にたっている。

この考え方は、同じ講談社新書の池内恵『現代アラブの社会思想――終末論とイスラーム主義』(2003)や、既存の学問の枠組みではなく、自分の興味や素朴な疑問から学問的な研究を広げるという点で、原武史『鉄道ひとつばなし』(講談社新書、2003)にも通じる。


本書は、日本におけるキリスト教の歴史を信仰ではなく社会的な受容の面からみる。いくつかのトンデモ本の解読から浮かび上がるのは、西洋文化、とりわけキリスト教の受容が大日本帝国にとっては欧米列強と対等な外交関係を結べる一等国の証明として使われたということ。

要するに、明治期の人々は必要に迫られて牽強付会の論法を生み出した。それは、日本にはキリスト教はなかったけれども、キリスト教に通じる考え方や制度はずっと以前からあった、だから日本は西洋並みだ、という論法。言うまでもなく、この考えは西洋に対する劣等感によって支えられている。こういう見方はこれま知らなかった。なるほどと思う。

幕末から明治、大正期、いわゆる西洋文化の受容期には、こうした精神構造をもっていた。ところが、日本に限らず、民族自決が国際政治の主潮となった第一次大戦後に受容や伝播はなくなったと、井上は指摘する。そこでは国民国家が文化に先行して存在するから、文化の間で相互に影響を与えあうことはない。あるのは出来上がった国家が公認する国民文化交流だけ。


私の疑問は、井上の論理に対してではなく彼の結論から広がる。それでは多様性を認めるとは、どういうことだろう。独立したものが林立することか。伝播しあい似かよってくることか。

前者に立てば、国民国家に縛られた既存の文化の枠組みをくずすことはできない。そこからはみ出す人は排除されてしまう。後者に立てば、各地に固有の文化は失われ、世界は金太郎飴になってしまう。

そうではなく、共通したものを底辺にもちながら違った形式で表現することが、文化や人々が触れ合うということではないか。つまり、これまでは和魂漢才、和魂洋才といってきたけれども、ほんとうは反対ではないか。魂のほうが外から受け入れたものに影響を受けながら固有のものを脱し普遍的なものに近づいていく。技術や制度による表現は、それぞれの地域や国や人によって異なるほうが自然ではないのか。

技術や制度だけを輸入することなど、できやしない。技術や制度を導入すれば、必ずそれを生み出し運用している精神も流れ込んでくる。技術だけ応用できるのは、もともと理解する素地があったからというのでは、井上が見出した明治期の人々と変わらない。魂を受け入れるからこそ、才を活かせるのであって、その逆ではないだろう。


そのように考れば、井上の見方には裏面がある。あるいは、これまで見逃されてきた思想史の裏面を井上の斬新な分析が明らかにすることにより、これまで曇りがちでよく見えなかった思想史の表側も見通せるようになったと言えないだろうか。

宗教にかぎらず、西洋の言葉や考え方を受け入れたといっても、憧れや単なる効用から技術や制度として輸入した人ばかりではないだろう。「魂」として苦労しながらも受け容れた人もいたはず

彼らは、どのような態度で、それまで持っていた固有の技術や制度、それらを含めた生きる態度を変更したのか。その苦闘からどのような表現が生まれたか。その受容の精神は、日本列島に暮らす人々、日本語で考える人々にどのように受け継がれているだろうか。

こうした問題意識は、ここしばらく漱石芥川藤村など、明治期に書かれた文学を読んできたこととも、関連づけられる。これからの読書の道筋が見えてきた。

ところで、井上はあえて「日本人」を明確に定義せずあいまいなまま使うとはしがきで宣言している。

本書の論述に沿えば、日本には西洋を受容する土壌があったとみなす心象を共有した人々をまとめて「日本人」と井上は呼ぶと考えられる。だとすれば、受容する土壌があったであろうがなかろうが、その魂を受容しながらも生き方を変えた人を「日本人を超えた日本人」といえるかもしれない。



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