1月の下旬、大阪へ旅をした。これまで業務で行くことが多かったけど、これから先はほとんど大阪へ行くことはなくなる。そこで、これまで世話になった人にあいさつをするために、業務の後始末とは別に一人で大阪へ行くことにした。
待ち合わせは夕方。それまで大阪で何をするか。美術館や博物館を調べてみても、今すぐに行きたいところはない。京都や奈良は少し遠い。ふと思い出したのは、しばらく前に小説で読んだ読んだ高山右近のこと。
高山右近は、高槻城主だった。高槻城はいまは城跡が公園になっている。すぐ近くに右近の銅像がある教会があるらしい。
高槻のことを調べているうちに、隣りの茨木に隠れキリシタンの資料館があることを知った。茨木には以前、仕事の合間に「川端康成記念館」を訪問したことがある。そのときには、隠れキリシタンのことにはまだ何の興味もなかった。
茨木には何かしらの縁もあったらしい。4年前、神戸で見たザビエル像は茨木市で発見されたものという。見つかった場所は千堤寺と説明にあった。寺でキリシタンの宝物が見つかるとは不思議なことと思ったことをかすかに覚えていた。千堤寺は寺の名前ではなく、場所の名前だった。
旅の行き先は決まった。予習としてザビエルや隠れキリシタンの本を読みはじめた。『「東洋の使徒」ザビエル』には加賀乙彦や結城了悟による講演のほか、若桑みどりによる「ザビエル像」の解説もあった。ばらばらに散らばっていた点が、隠れキリシタンへとつなっがていく不思議な読書だった。
駅前の歴史資料館を見てから、バスに乗った。バスは東西に走るJR線を離れて北上する。数分もしないうちに景色が変わっていく。大阪市内とは思えない田園、というよりも山村の風景。
鉄道の多くが東西に走る関西では、都市がムカデ状にできあがっている。どの駅にも駅前に町があり、少し離れると郊外がある。さらに離れるとあっという間に田舎になる。
首都圏では、山手線を中心にして鉄道は放射状に延びている。郊外は、鉄道の延伸とともに遠ざかる。どの駅もかつて田舎だったところで、鉄道が来て郊外になり、人口が増えて中核都市になった。田舎はさらに外へ押しやられているか、海岸線で消えている。
去年の秋ごろ、講談社の広報誌『本』の連載で、ヨーロッパに初めて行った原武史がロンドンでは都会で働いて田舎に暮らすことが自然にできると感慨深げに書いていた。確かに東京で暮らしていると、都会で働いて田舎に住むことは新幹線で通勤でもしないかぎり難しい。
ところが、関西圏ではそうではない。東西に走る鉄道から少し離れるだけで、まったく風景も産業も違う地域がある。
すこしずつ乗客を減らしながら山道を登るバスに揺られて、そんなことを考えていた。
資料館でロザリオや聖画などの遺物を見た。それから、それら遺物の発見にまつわる秘話をまとめたドキュメンタリー映像を見た。隣の喫茶店で昼食を食べ、それから最初に発見された隠れキリシタン時代の墓石を探しに雑木林のなかを歩いた。
この地にキリシタンがいたのは、やはり高山右近の影響らしい。もっとも高槻からここまで信者が拡大していたのか、それとも高槻周辺にいた信者が迫害とともに逃れてきたのかは、わからないらしい。
隠れキリシタンが発見されたのは、大正になってから。遺物だけでなく、当時はまだ、昔のしきたりを秘密にして暮らす信者も生存していたという。
ということは、明治時代の人たちは、一般人はもちろん、歴史家も政治家も文学者も隠れキリシタンについてほとんど何も知らなかった。これから明治時代に書かれた本を読むときには気をつけたほうがいい。
知られていない歴史の一面。そういうものは、まだほかにもあるかもしれない。
何かに惹かれて隠れキリシタンの山村まで行くことになった。行ってみて、前よりさらに隠れキリシタンのことが気になりはじめた。図書館では、ほかの本を探しはじめた。でもそもそもなぜ隠れキリシタンのことが気になるのか、自分でもよくわからないでいた。
政治や時代に抵抗しても自分の信念を守った人々への畏敬か。いわゆる日本文化が表面的な統一性の背後にもっている多様性の一要素への関心か。
なぜ、隠れキリシタンなのか。自分がなぜそこに興味をもっているのか、その場所へ行ったあとで考え込むことになった。
同じ1月の終わり、ふだんは行けない大きな図書館へ行った。そこで切支丹時代の品々を集めた豪華な写真集をながめた。千堤寺で見た遺物の写真もある。遠藤周作がいわゆる「殉教」について文章を寄せている。
これまで遠藤周作の著作は何冊か読んでいる。でも、これまでの読書はキリシタンにつながりはなかった。遠藤の作品のなかでおそらくもっともよく知られている『沈黙』は、間接的に知りすぎてしまったせいで通して読むことがないままになっている。
写真集に寄せた文章を読んだあとで、遠藤が切支丹時代について書いた短い文章を集めた文庫本を見つけた。戦国時代から江戸初期にかけての棄教や殉教、そして隠れキリシタンについての遠藤周作の考察を読み終えて、彼がなぜ切支丹にこだわったのか言葉を換えれば、なぜ『沈黙』が彼の文学的な出発点になったのかがわかってきた。
そこから結果的に、彼の関心の持ち方や考え方は、私の切支丹への興味の持ち方とまるで違うことがわかった。つまり、遠藤周作との比較を通じて、私は、自分の切支丹に対する興味の理由を発見した。
殉教と棄教。遠藤は、結果だけを見て二つを区別しない。むしろそこに彼は共通点を見ようとする。
殉教した人のあいだに、付和雷同や他人からの強制もあったのではないか。棄教した人のなかに、神との真剣な対話や人間的な誠実さがあったのではないか。
もちろん彼は、高山右近のように強い信仰心を持っていた人にケチをつけようというのではない。そういう人は確かにいたかもしれない。でも、そんな人ばかりではなかったに違いない。そう遠藤は考えている。彼にも、強い信仰心を抱いて殉教した人間を描いた『銃と十字架』のような小説がある。
たとえば千々石ミゲル。彼は、少年使節の一人としてローマまで渡りながら、帰国して棄教した。その背景には、戦国時代の日本と変わらない群雄割拠するヨーロッパ政治の現実と、宗教を隠れ蓑に侵略を狙う列強の真意とに気づいてしまった苦悩がある。舶来文化礼賛に疑問をもつ挑戦者と遠藤はみる。
ほかにも、仲間を見捨てることができずに棄教した者、肉体の苦痛に耐えかねて棄教した者。そこにありふれた人間的な誠実さや弱さ、自分自身にも潜むものを遠藤は発見した。『沈黙』は、この思索の結実。いわば「右近になれなかった人たち」に彼は親近感をもち、彼らを通じて自分自身を描いたと言える。
遠藤周作の隠れキリシタンに対する見方もこの延長線上にある。彼らは、一度は棄教した者たちの末裔。彼らは、自分自身の弱さを見つづけるという宿命を受け継いでいる。遠藤は、そう見ている。
『沈黙』『銃と十字架』のほかにも、遠藤周作は多くの作品をキリシタン時代を舞台に書いている。なぜ、彼はキリシタン時代にこだわったのか。それは16世紀日本の人々はヨーロッパ文化と全面的に向き合った人たちだったから。
戦後、いわゆる「第二の開国」の時代に青春時代をすごした遠藤にとって、16世紀の日本のキリスト教徒は、はるか昔のものではなかった。その意味でも、敗戦は彼にとって第二ではなく、第三の開国だった。
何百年も前の人たちに、他人とは思えない親近感をもちえたのは、彼らのあいだに「日本人」という絆以上に聖書がとりもつ絆があったから。
私の隠れキリシタンに対する興味は、親近感というよりもっと客観的で、いってみれば思想史的な関心にはじまっている。
隠れキリシタンのことを少し読んだり調べたりして気づくのは、彼らはキリスト教徒ではないということ。少なくとも彼らの先祖が入信したカトリックではない。数百年の孤立しているあいだに、儀式も祈りの言葉も、土着文化と融合してしまっている。その一方、隠れキリシタンは先祖からの伝統として、それを何一つ変えないように受け継いできた。
一方で、自然にまかせ、もう片方で、あるものをそのまま残そうとする。これは伝統と呼べるだろうか。少なくとも正統とは呼べないのではないか。実際、開国後、キリシタンを発見したカトリック教会は彼らを「再教育」しなければならなかった。
この点で、遠藤は面白い逸話を書き残している。隠れキリシタンたちは、彼らの前に現われた現代の神父が言い伝えられた姿とはまるで違うので信用しなかった。そこで、今度は16世紀の服装をして訪ねたところ、似ているがやはり違うと拒まれたという。
彼らにとって信仰は受け継がれるものではあっても、変わっていくものではない。遠藤周作は、この点についてあまり触れていない。ここのところが、私には気になる。
正統とはなにか。正統な思想とは何か。これが、隠れキリシタンを通じて私が知りたいこと。正統は、自然なものではない。自然にまかせていては、正統なものとはならない。正統は人為的なもの。
16世紀から現代までのキリスト教で変わったのは、聖職者の服装だけではない。キリスト教も姿を変えている。それは何よりも、キリスト教をとりまく世界が変わり続けているから。その変わりつづける世界にあって、次々と生れる新しい思潮からの挑戦を受けてキリスト教も変わらざるを得なかったと言ったほうがいいかもしれない。
ここにいわゆる西洋の精神文化の強さがある。これはキリスト教だけのことではない。社会主義にしろ、科学にしろ、つねに次の世代の思想や発見によって、疑問をつきつけられ、反論され、覆され、そうして鍛えられている。
しかも重要なことは、思想家と後に呼ばれる人々はいつも、同じ時代の他人や直前の世代ではなく、原点と対決していたこと。前の時代と対決するときにも、あくまでも原点が参照される。
遠藤周作も、彼自身知ってか知らずか、その言わば正統を鍛錬する闘争に関わっている。彼は、母に導かれて入った宗教をそのまま信じることはしなかった。かといって、自分には合わないといって捨てることもしなかった。自分に似合う信じ方を彼は探した。それが結果として、新しいキリスト教思想を生み出している。
キリシタン時代の殉教や棄教について彼が考えるとき、参照するのは当時の神父や現代の神学者の言葉ではない。彼が尋ねるのは、原点であるイエスの言葉。『イエスの生涯』『キリストの誕生』といった作品も、原点に尋ねるという意図から生れたものだろう。
つまり、遠藤周作は、自分自身が原点に尋ねるという姿勢を貫くことで、日本の過去にも原点に尋ねた人たちがいたことを探し当てた。
遠藤周作の言葉は、彼がどの立場から誰に向けているのかということに注意しないと誤解してしまう恐れがある。きわめて大雑把に言えば、彼は、西洋的な一神教の世界と日本的な多神教の世界のあいだで苦悩したと言える。たとえば、彼は「神を信じる」とも言えば、神は裁くばかりではないとも言う。
前者の言葉は本来、キリスト教以外の人間に、後者は仲間であるキリスト教徒に向けられている。おそらく彼のなかでも、それぞれ、自分の日本的な部分に、キリスト教的な部分にと向けられていただろう。
そう理解しないと、「彼は元からキリスト教徒だったから」「彼はやはり日本人だから」という具合に、彼の一生をかけた精神的な苦闘を既成の枠組みにはめこむだけになる。そこから「日本的なキリスト教」などという本来ありえないのに、妙に据わりのいい言葉が流通しはじめる。
16世紀の日本の人々も、結果的には殉教した人も棄教した人も、また潜伏した人も、ただ西洋から伝来したものを受け入れただけではなく、彼らなりに悩み苦しみ、自分の生き方に合う信じ方を模索していたのではないか。遠藤周作は、そのような問いかけをもって切支丹時代を見ていたのではないかと私は思う。
おそらくは、そのあとの数百年潜伏し続けた人たちにも同じことが言える。ただ彼らの場合、黙って隠れていることが何よりも優先されたから、その精神的な苦闘の記録は、ほとんど残っていない。
千堤寺を下りてから、高槻に出た。高槻カトリック教会と高槻城址公園で二つの高山右近の像を見た。
そのあと梅田に出た。馴染みの居酒屋に顔を出し、ギターを聴いて、朝まで飲んだ。宿代を浮かせて、朝一番のサンダーバードで北陸へ向かった。行先は、金沢。金沢では石川近代文学館を見たあと、もう一つ、金沢カトリック教会にある右近像を見た。
正統な思想は、創られる。しかもそれは高潔な人々だけが創るものではない。確かに勇敢な人たちが歴史に名を残すのかもしれない。でも、彼らは多くの勇敢でない人々、弱い人々の無残な姿を見て、そしてまた、同じもののかけらを自分自身に見出したからこそ、勇敢になりえたのではないか。
思想に勝ち負けはないし、信仰もまた、勝ち負けではない。自分が自分自身に、また自分自身を生み出したものに対して、どこまで真剣に向き合えるか、そういう内面的で、秘密の勝負とは言えるかもしれない。だから自分ではもちろん、どんなに優れていようと他人にも勝ち負けは決められない。
いまから思えば、私が切支丹時代に興味をもったのは、普通なら秘密のままで終わる内面的な苦闘が、殉教や棄教という劇的で象徴的な出来事のなかに垣間見られるからだったのだろう。あるいは、その考えは、切支丹の遺跡を見て、遠藤周作を読んで、ようやくたどりついたものかもしれない。
でも、私には、高山右近を読んだときから、いや、神戸でザビエル像を見たときから、あとでこうした考えにまとまる何かを感じていたような気がしてならない。
さくいん:遠藤周作
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