5/29/2016/SUN
特別公開「新発見!天正遣欧少年使節 伊東マンショの肖像」、東京国立博物館、東京都台東区
国立博物館へ行ったのは、何年ぶりか。高校三年生の遠足が最後とすると30年近く来てないことになる。
目当ては、「伊藤マンショ」の肖像画。ところが、いざ見てみると、以前、仙台で「支倉常長」を見たときほどの感動はなかった。事前に知識を持ちすぎると鑑賞ではなく、情報の確認になってしまう。
今回、博物館へ行く前に、少し場違いなところで少年使節を見つけた。日経新聞の連載、「経営書を読む」(楠木建)。
楠木は若桑みどり『クアトロ・ラガッツィ』を取り上げ、カトリックの日本布教を通じて企業の海外展開の手法について解説する。美術史家である若桑みどりを経営学研究者が取り上げることが面白い。
以下、楠木がまとめた若桑みどりによる少年使節の解釈。そこには三つの目的があった。
- 1. 日本人にキリスト教の栄光と偉大さを直接見せて、布教の原動力とする。
- 2. ヨーロッパの国王や教皇に日本普及の資金援助を頼む。
- 3. 日本での普及成功をプロテスタントの教会や国王にアピールし、教皇の威信を回復する。
この前の回で、楠木は、大名に働きかける上からの布教で行き詰まったカトリックは、聖書の和訳や祖先崇拝の承認を行いながら、庶民に直接布教する現地化を試みた。この点が、経営学でも参考になるらしい。
このように客観的にみると、少年使節は「利用された」ようにみえる。千々石ミゲルの棄教は、それに気づいたからかもしれない。
もう一度、伊藤マンショの肖像をパンフレットで見直すと、実に堂々としている。日本国を代表して来たという自信がみなぎっているようにみえる。「利用された」屈辱感は微塵も感じられない。
こうして時間が経つと、肖像画の前で何も感じないと思っていた私でも、そのとき、何かを受けとっていたことがわかる。そのときは言葉にならず、自覚さえなかったのに、確かに心の奥底まで感動が差し込んでいた。
森有正の言う「感覚」、西田幾多郎の言う「純粋経験」とは、こういうものだろうか。考え過ぎか?
全館を回って、印象に残ったのは法隆寺宝物館でみた「梵網経、紺紙純金泥書」。ここでも、青に惹かれた。私はよほど青が好きらしい。
最近、昔の手書き文字に惹かれる。東洋文庫を見てからだろうか。長い長い経文や詩文を、一文字ずつ丁寧に書き写す仕事。そのひたむきさと書きあげた作品の美しさに、自分に欠けているいるものを感じる。
なかには誤字を朱色で直したものもあるが、梵網経にはやり直しがまったくない。どれだけの集中力と研ぎ澄まされた技があれば、こういう仕事ができるのだろう。
法隆寺宝物館はよかった。展示が定期的に変わるので定期的に見に来たい。長い時間、見ていたもの。
大急ぎで平成館も東洋館も見た。時間配分がわからなかったので、同じ通路を往復したりして無駄に動いた。若いとき、ワシントンDCでナショナル・ギャラリーや航空宇宙博物館を見た。何を見ても感動して、開館から閉館まで足が棒のようになっても歩いてまわったことを思い出した。
さくいん:東京国立博物館(トーハク)