読まない出版社
私には、絶対に読まないと決めている出版社がある。
もう20年以上前のこと。ある事件を—まさしくそれは事件だった—きっかけにして、その出版社が発行する本は一生読むまいと決めた。
読まないだけではない。図書館でも書店でも、立ち読みするときは、まず出版社を確認する。その出版社の本は立ち読みもしない。
子どもたちには買っているし、読み聞かせもした。私だけの自戒を押し付けるつもりはない。
その会社が関わっているテレビ番組や映画は見る。見ても原作は読まない。
理由はない。最初に「本は読むまい」と決めたから、対象を本だけにしている。
その出版社の本には、読みたい本も少なくない。でも、読まない。
読みたい、でも読めない。そう思う時、事件を思い出し、悔しさと悲しみを確かめる。
写真は、江戸城百人番所。
米国的結婚観
松本隆の作品集『風待図鑑』の感想で、男性は昔の恋人に会いたがるが、女性は未練があっても昔の恋人に会わないと分析してみた。対象は、あくまでも私が知っているポップミュージックの歌詞の世界。
米国の歌では昔の恋人に会うことにためらいがない表現が多いことに最近、気づいた。
例えば、Paul Simon, "Still Crazy After All These Years." この歌では、昔の恋人に会ってビールを呑んだと言う。そして、いまでも淡い気持ちがあることを素直に見つめている。もっとも、縁りを戻すことなどできないとわかっているから、"still crazy"となつかしさをこめて言っているのだろう。
Billy Joel, "Scenes From an Italian Restaurant"は、男性の妄想のようにも聴こえるし、実際に昔の恋人に会っているようにも聴こえる。実際の出来事とすれば、恋人ではない、一度は結婚した元の妻と食事をしている。
アメリカの恋愛文化では、かつての恋人や元の妻に会うことに抵抗が少ないのかもしれない。
少し驚いた体験をアメリカ東部でした。あるパーティーで、別れた夫婦が、それぞれの新しいパートナーと4人でグラスを片手に話をしていた。
ここまで人間関係をドライにクールにできるものなのか、目を疑った。
このパーティーは彼らの子どもの学校行事だったから、皆、仕方なく出かけて、挨拶を交わしただけで、本人たちも内心は会いたくなかったかもしれない。見た目では抵抗感はあまり感じなかった。
これは初めて外国へ行った30年前の出来事。最近ではアメリカに行く機会もないし、映画やシリーズ・ドラマも見ないので、彼の地の恋愛事情がどうなっているのか、わからない。
写真は昨日に続いて、皇居東御苑、百人番所。
さくいん:松本隆、アメリカ、ポール・サイモン、ビリー・ジョエル
Twitter自粛
Twitterでフォローする人を減らした。iPhoneにあったアプリも消した。アカウントは削除していない。同じことを、これまで何回も繰り返している。
アプリを消すのは、言ってみれば心理的なリストカット。完全に切ることはない未遂。アカウントまで消したら既遂になる。そこまではしない。
気分が沈むと、外界との交渉を遮断したくなる。殻のなかに閉じこもりたくなる。
しばらくすると、一人きりでいるのがさみしくなり、外へ出る。その繰り返し。
こうして、親しい人や、親しくなれそうだった人との縁をいくつも切り捨ててきた。
結局のところ、調子に乗っているか、深く落ち込んでいるか、そのどちらかしかない。ほどほどがない。Billy Joelの言葉を借りれば、“I Go to Extreams.”
Darling I don't know why I go to extremes
Too high or too low there ain't no in-betweens
“in-betweens”がない。ちょうどよい中間、中庸ではない。極端でなければ、ブレてばかりの中途半端になる。
写真は江戸城、桔梗門。
さくいん:ビリー・ジョエル
眠い
眠い。目がかゆい。喉が渇く。
抗うつ薬と花粉症対策の薬には似たような副作用がある。積算された副作用がきつい。しかも、花粉症の症状は薬で完全に防止できるわけではない。
症状の出現も一定ではない。外を歩いているときには意外なことに症状がなく、風呂に入っているときに目がかゆくなったりする。
先週は、ある日、帰りの電車で寝過ごして、終点から折り返していた。
今週は、プログラムの途中で鼻水、目のかゆみ、眠気のすべてが発症し、少し休ませてもらうつもりが1時間眠ってしまった。前夜に夜更かししたわけでもないし、酒を呑んだわけでもない。
しばらくは、体調管理の難しい季節が続きそう。
精神障害者保険福祉手帳(3級 うつ)
昨年、申請した障害者手帳を受け取った。正式名称は上の通り。手帳と言っても写真を貼った紙が折りたたんであるだけ。
障害者枠で就職する場合この手帳が必要になる。税金での優遇や都営のバスや地下鉄が無料で乗れるなどの優遇措置もある。
ありがたい手帳だが、難点もある。サイズがA7という一般的ではない大きさなこと。
Suicaや名刺よりも大きく、パスポートよりも小さい。文具店をいくつか見たところ、ちょうどいいケースがない。
かつて、運転免許証も特異なサイズだった。今はクレジットカードと同じ大きさ。
なぜ、わざわざ一般的ではないサイズの手帳を交付するのか。こういうことを「お役所仕事」と呼ぶ。
さくいん:うつ
二重橋前の中国人
しばらく前に、皇居東御苑を散歩した。そのときの写真は、先月、23(火)、24(水)、27(土)、今月、1(火)、2(水)、3(木)に掲載してきた。
上の写真は皇居、二重橋。おそらく行ったのは初めて。
驚いたのは中国語を話す観光客がうれしそうに写真を撮っていたこと。ここがどういう場所なのか、知らないのか。そんなことはない。手にはガイドブックを持っている。
中国共産党の反日教育は失敗したのだろうか。あるいは、めざましい経済成長がイデオロギーを吹き飛ばしたと言うべきか。
いずれにしても、80年代に世界史を学び、1989年、天安門事件が起きる直前に上海、南京、北京を旅した「日本人」の目には、とても奇妙な風景だった。
3月14日にも「凱旋濠の石垣」の写真を掲載した。
さくいん:中国
2007年に見た映画のサントラ盤を図書館で見つけた。
エンド・ロールで流れる主題曲が収録されていないのは、詐欺といっていい。いまだにこんな悪徳商法があるとは驚いた。
オリジナルのウクレレ・ヴァージョンの代わりにボーカル・ヴァージョンが収録されている。
07. Hula Girl, featuring Jennifer Perrii
劇中、歌詞付きが流れた記憶はなかったが、歌としては悪くない。
発売当月に図書館で予約しておいた。
いまや漫画家というよりイラストレータとして名が知られている江口寿史。
『すすめ!!パイレーツ』や『ストップ!!ひばりくん!』は、いま読んでも面白い。でも、これだけのギャグを毎週考えていたら病気になってもおかしくない、という冷静な考察を止められない。
実際、ギャグ漫画家の作家寿命は長くない。鴨川つばめは『マカロニほうれん荘』の後、ほとんど作品を発表していない。いまでもテレビ放映が続いている『おじゃる丸』の犬丸りんのように自死した人もいる。
江口寿史は吉祥寺を中心に活動している。本誌にも吉祥寺の街角を背景にした美少女のイラストが掲載されている。大友克洋と対談している場所はハモニカ横丁。
江口寿史のポスターは、間違いなく「住みたい街」のブランド・イメージの向上に貢献している。
もうすぐ4月。ひばりくんのような美人(性別は無関係)に出会えることを期待して、吉祥寺へと越してくる人も少なくないだろう。
前にも書いた。
一番好きな作品は、1979年4月17日号掲載の読み切り「名探偵はいつもスランプ」。
さくいん:江口寿史、自死遺族
音楽、借りすぎ
3月も就労以降支援事業所への通所は平日の午前中のみ。
午後は、主に図書館巡り。毎週、5つの自治体の図書館に合計30枚のCDと数冊ずつの本を予約して、借りている。図書館に通う合間には美術展を見たり、事業所の周辺にある名所を散歩してみる。
帰宅してからは、CDを録音し、アートワークを追加したり曲名にふりがなをつけたりしている。本は『庭』に感想文を書く場合もあれば、楽しんだだけの場合でもブクログに記録している。
記録が終わると図書館のウェブサイトで次の予約をする。予約したCDと本が確保できたというメールが来たら、各々の図書館へ行き、貸し出しをする。これを繰り返してきた。借りたCDは今月だけでも、すでに100枚を越えている。週50枚以上のペース。
ほとんど毎日、どこかの図書館へ行く。速歩の運動にもなってはいるけれど、さすがに慌ただしい。狭い部屋のなかで各館の資料が混在している。
これではいけない。少し休息を入れる。現在予約しているものを借りたら、一度、貸出資料をゼロにする。とりあえず聴きたいと思っていたアルバムはほぼ揃った。
一度、音楽ライブラリを整理する。そうすれば、もっと聴きたいしたいアーティストやアルバムがわかるだろう。前に借りたジャズ・フュージョンの名盤集がきっと役に立つ。
新しい予約はそれから。
音楽ライブラリの現状
ミュージック・ライブラリの現状。おそらく1/3以上は2001年以降に図書館で借りたもの。
3,516枚のアルバム。55,087曲。152.1日。949.6GB。
主なジャンルの曲数、3月11日現在。
- J-Pop:7,080曲。飯島真理、いきものがかり、ナイアガラ系、笠原弘子、ほか。
- Jazz:6,323曲。山中千尋、木住野佳子、小沼ようすけ、European Jazz Trio, Diana Krall. etc.
- Pop:5,526曲。日本語以外で、ジャズ以外のボーカル曲。
- Classical:5,180曲。オルガン、ギター、リュート、フルート、リコーダーなど。主に独奏曲。交響曲、協奏曲、歌劇はほとんどない。
- 歌謡曲:3,634曲。歌手ごとのアルバムに加えて、コンピレーション・アルバム、作詞家や作曲家のCDボックス。ザ・ベストテン、青春歌年鑑、阿久悠、筒美京平、永六輔、中村八大、いずみたく、小林亜星CM曲集、ほか。
- Fusion:3,334曲。Earl Klugh, Bob James, Larry Carlton, Lee Ritnour, etc.
- フォーク・ニューミュージック:3,395曲。かぐや姫、オフコース、さだまさし、松任谷由実、中島みゆき、ほか。このジャンルでも、コンピレーション・アルバムがいくつかある。
- アニソン:2,768曲。コンピレーション・アルバムのほかにも、スタジオ・ジブリ(久石譲)、ルパン三世(大野雄二)、水木一郎、ささきいさお、堀江美都子。
- New Age:1,992曲。s.e.n.s、Windham Hill系、Vangelis、西村由紀江。
- アイドル:2,111曲。松田聖子、菊池桃子、原田知世、伊藤つかさ、伊藤麻衣子、南沙織、キャンディーズ、ほか。
- Soundtrack:1,862曲。Henry Mansini、Alan Silvestri、John Williams、Enrico Morricone、ほか。
曲数は一番多いわけではないが、一番聴いているのはNew AgeとFusion。
前は、好きなアルバムや曲を集めて自分でプレイリストを作っていた。最近は、好きな曲からGeniusプレイリストを作成している。Geniusは、一曲から、その曲調が似ている曲をライブラリから抽出してくれる。これがなかなか賢い。似ている曲を上手に選ぶ。
こうすると録音しても聴いていなかった曲を聴く機会ができる。聴きながら気に入った曲があれば、新しいGeniusプレイリストを作ったり、そのアーティストを図書館で借りたりすると、音楽の世界が広がる。
これだけあれば、当面、有料サブスクリプションは必要ない。
主に中国史上で貴重な文献を収蔵している東洋文庫。前に一部の資料を紹介した本、『記録された記憶―東洋文庫の書物からひもとく世界の歴史』を読んで以来、一度行ってみたいと思っていた。
展示スペースに入るとまず巨大なモリソン書庫に出会う。書庫の前に座り、ひとときを過ごすことができただけでも幸福だった。
漢文やくずし字が読めるわけではないけれど、いにしえ人が書いた美しい手書き文字は美術品として見ても十分に楽しい。
コレクションからの展示では清朝、乾隆帝時代の辞令である「誥命」に目が留まった。華麗な錦と流麗な文字。
医学史に焦点を当てた展示では、8世紀に称徳天皇が作らせた、日本で最初の印刷物と言われる「百万塔陀羅尼」には興味をひかれた。小さく細長いに釈迦の加護を願う文字が印刷されている。
印刷博物館も最近、出かけた。凸版印刷の宣伝コーナーくらいに思っていたが、思っていた以上に充実していた。印刷物とともに道具や機械も展示していて、印刷の歴史をたっぷりと学ぶことができる。江戸時代の多色の版画や半導体に使われている露光印刷、0.75mm四方の超豆本など、興味深い展示が続く。
広い展示スペースに隅にある印刷の家では活版印刷の実演が見られる。ガラスの向こう側で小さな活字を拾い、箱に詰めていく。『銀河鉄道の夜』の冒頭で、ジョバンニが印刷所で作業をする場面を思い出した。
長い経文や聖書を筆写した人たちもすごいけど、小さな活字を一つずつ拾っては詰めて一冊の本にする仕事もすごい。昔の人が根気よく細かい仕事をしていたことに感心した。
これほど充実した展示と思っていなかったので、全部を見るには時間が足りなかった。活版印刷の体験も出来なかった。余裕をもって再訪したい。
今の私は機械に頼りすぎている。ペタペタ鍵盤を叩いているだけではいつになっても、密度の高い文章は書けない。
さくいん:東洋文庫ミュージアム、宮澤賢治
Retrospective Two, photograph by Michael Kenna、édition treville、河出書房新社、2005
FORMS OF JAPAN, photograph by Michael Kenna, written by Yvonne Meyer-lohr, Prestel Pub, 2015
マイケル・ケンナ写真展 FORMS OF JAPAN, photograph by Michael Kenna, written by Yvonne Meyer-lohr, Prestel Pub, 2015
欠席
1月から欠席せずに通っていた就労移行支援事業所を休んだ。朝、起きたときに悪寒がした。外を見ると雨。無理せず、休むことにした。
いまは午後3時。9時に事業所に電話をしたあと、うとうとして目覚めたり眠ったりを繰り返し、起き上がってカフェオレを飲んだところ。
会社で働いていた時は、1月から2月のあいだに必ず一度は風邪を引いて休んでいた。思い起こせば、中学二年生のときからそうだった。
今年はいつになく調子がいいと思っていたところ、やっぱり寝込むことになった。今は熱もないし、頭痛もしない。明日は行けるだろう。
張り切っていたつもりはない。去年の春先、医師から運動開始をすすめられ、ちょうど天気がよかったから、自転車で出かけいきなり2時間も漕いだ。景色のいい場所を見つけられたところまではよかった。
ところが、翌日から膝がひどく痛み出して、しばらく散歩もできなかった。その教訓を活かして、1月以降、頑張りすぎないように注意していた。
それでも、事業所の訓練が午前中だけなので、図書館や博物館に、ほぼ毎日寄り道していた。歩数は1万歩以上、朝のWii Fit、20分も休まず続けていた。
疲れがたまっていのだろう。図書館通いも、すこし頻度を減らす。
「継続は力なり」。知ってはいても、続けられない。むしろ、続けていると必ず調子を落としたり、疲れがたまったりする。
いつからだろう。過剰に努力した結果、一種の「燃え尽き症候群」になった大学受験の後か。「頑張ること」「努力すること」を避けるようになった。
目標を立てることもしない。頑張ると必ず頑張りすぎて、体調を崩したり、他の大事なことを見落としたりする。だから、「頑張ってはいけない」と自分に言い聞かせるようになった。
「自分に限界を作るな」「生命までは取られやしない」などと鼓舞する人もいるけど、限界を越えて生命を落とした人もいるのだから、軽々しく言わないでほしい。
会社で働いているとき、ふだんは6割の力で働くように心がけていた。トラブルが発生すれば、8割は出す。でも、決して10割の力を注ごうとはしなかった。10割の力を使ってしまったら、更に何かが起きたときに対処しようがないから。
試験と努力が大嫌い。
そういう人間に相応しい生き方は何だろう。そもそも、そんな人間に相応しい生き方があるか。
写真は凱旋濠の石垣。
やまがたすみこの名前を知ったのは、たぶん、テレビドラマ『泣くな、はらちゃん』の音楽を担当した井上鑑のプロフィールを調べたとき。妻は歌手のやまがたすみこ、とあった。
どんな歌を歌っている歌手なのか。何の前情報もないまま図書館で検索して『恋すれど廃盤全集 女性ポップス・スペシャル』(コロムビア、1987)に、デビュー曲の「風に吹かれて行こう」を見つけた。YouTubeでギターを弾きながら歌う姿も見つけた。
透き通った声が気に入ったものの、ほかの作品はなかなか見つけられずにいた。
最近、行くようになった就労移行支援事業所の近い図書館で、彼女のアルバムを一度に4枚、見つけた。デビュー・アルバム、フォークからニューミュージックへ進路を変えた77年のアルバム、そして、アニメの主題歌やCMソングを集めたアンソロジーを2枚。
デビュー・アルバムでは「赤い花白い花」や「今日の日はさようなら」など、よく知られたフォークソングを若々しい声で歌っている。コーラスも控えめで、彼女の歌声を堪能できる。
『FLYING』は松本隆によるプロデュース。同じ頃に松本が関わっていた太田裕美は、アイドル、歌謡曲、シンガーソングライターという多面性を上手にまとめてすでに売れていた。商業的には出遅れたことは想像できる。
いま、時代を経て聴くと、やまがたすみこの個性的な声を活かした、ときどき聴き返したくなる曲が揃っている。
『CM Works』には43曲ものCMソングが収録されている。なかでも驚いたのは、CI(Coportate Identity)と呼ばれる企業名を唱える歌。テレビCMの最後に流れる企業名をのせた短いメロディ。言ってみれば、音の商標。
こうしたものを名前の知られた歌手が歌っているとは知らなかった。若い歌手や声優のアルバイトくらいに思っていた。考えてみれば、企業イメージの一翼を担うのだから実力ある歌手に依頼するのが当然といえば当然。これまで、そうは考えていなかった。
やまがたすみこは「味の素」「Benesse」「NTT」を歌っている。どれも聞き覚えのあるメロディ。知らないうちに彼女の歌声に馴染んでいたことを知った。
2017年7月12日追記。
会社の帰り、ランダムに音楽を聴いているとやまがたすみこ「虹になりたい」が流れてきた。アルバムは『名作アニメ主題歌大全集』。
1982年放映のアニメ『南の虹のルーシー』の主題歌らしい。知らなかった。
少女の気持ちをうたう歌詞も、フォークソング調の穏やかなメロディも「風に吹かれていこう」から成長したやまがたに似合う佳曲。
さくいん:太田裕美、松本隆
膝が痛い
膝が痛い。朝は何とか駅まで歩いたが、帰りは泣きたくなるほど痛くなり、何度も立ち止まり、どうにか帰宅した。
近くの整骨院へ行った。医師は膝をなぜたり曲げたりしてから一言、「オーバーワークです」。「わずかだが水がたまっている」「しばらく、エスカレータとエレベータを使うこと」と畳み掛けるように告げた。
毎日、十分な歩数を歩いているので、少し負荷を加えようと就労移行支援事業所のある8階まで、いきなり一段飛ばしで登ったのがいけなかった。
何でも助走なしにはじめるのは、数え切れない私の悪癖の一つ。
あとで聞くと、「膝に水がたまる」というのはサッカー選手のようなアスリートに起きるもので、「よっぽど膝が弱いか、頑張りすぎたか、たぶん前者でしょ」と笑われた。
低周波治療を受け、サポーターを処方された。風呂は長めに、という忠告も受けた。
情けない。これしきの運動で身体を壊すとは。
身体が自由に動かせなくなると、気分が沈みがちになる。沈んでしまうと、暗い感傷に耽溺するようになる。それだけは防ぎたい。
平野早矢香のこと
卓球のテレビ中継を見るようになったのは2006年の世界卓球、ブレーメン大会から。
ということは、ブレーメン大会のとき、福原は17歳だった。今大会に15歳で出場している伊藤美誠の活躍も目覚しいものがあるが、息の長い福原の活躍も素晴らしい。
卓球選手の平野早矢香が現役引退を発表した。今月で31歳になる。他のスポーツではまだ第一線で活躍している人もいる年齢。
27歳の福原愛と23歳の石川佳純が日本代表のダブルエースになり、さらに若い15歳の伊藤美誠と平野美宇が急成長している今、世代交代を迫られた形になった。
福原と石川が今のような世界ランカーに成長するまで平野早矢香は国内で無敵だった。全日本選手権では通算5回優勝。2007年から2009年までは3連覇している。
銀メダルを獲得したロンドン五輪以降、卓球への注目度は格段に上がった。世界卓球、とりわけ女子の試合はプライムタイムに中継されるようになった。小野誠治が世界王者になった1979年(平壌大会)の時代から卓球に関心を寄せている者としては、地上波で、プライムタイムに放映しているだけで隔世の感がある。
世界卓球の放映は2006年に始まった。早くから中継をしていたテレビ東京には先見の明がある。もう10年も前のこと。私も、一度薄れていた関心が高まり、それからは主に福原愛の活躍を楽しみに見てきた。
2000年代初め、日本女子はベスト4以上になかなか進めなかった。平野はその頃から日本代表で、以降、代表チームのエースを務めてきた。
2012年のロンドン五輪では、福原、石川と3人で代表となり準決勝でシンガポールを下し、銀メダルを獲得した。
その当時、福原と石川の不仲説をゴシップ記事で見かけた。真偽のほどはわからない。実力が拮抗する若手二人が互いをライバル視することは当然。その二人のあいだに立ち、チームをまとめたのが平野。彼女は相手により、福原とも石川ともダブルスを組んだ。
平野早矢香なくして、ロンドン・オリンピック、卓球女子団体、銀メダルはなかった。
2014年の世界卓球団体戦では、香港選手にゲームポイント0ー2、さらに第3ゲームも大きくリードされてから大逆転し、チームに勢いを取り戻りした。この試合は、ときどき見返している。
バスケットボールで「クラッチタイム」と呼ぶ、「ここ一番の勝負所」での集中力は、今でも世界トップと言っていいだろう。
「卓球と結婚してもいい」と言ったこともあるという平野早矢香。そんな卓球と、これからどんな形で関わることになるのか、非常に楽しみ。
2020年9月26日追記。
平野早矢香は卓球情報番組『卓球ジャパン』(BSテレ東)の司会を務めている。現役時代の「鬼」の面は捨てて、楽しくわかりやすく卓球の魅力を伝えている。
さくいん:福原愛
葬式ばかり
いつだったか、酔った父が「40代は葬式ばかりしていたな」とこぼした。私もすこし酔っていたので、すかさず返した。
「知ってますよ、お父さん。あなたの40代は私の10代なのだから」
10歳、12歳、15歳、18歳。小四、小六、中三、高三。8月、2月、3月、1月。
その合間に一周忌や三周忌の法要があったから、毎年、法事をしているような気がしていた。だから、曹洞宗の経文『修証義』が耳に残っているのだろう。
最近、葬儀はほとんど専用の式場で行う。昔、10歳と12歳の時は自宅でした。通夜の前、午後早くに葬儀屋が来て、リビングに祭壇を組み立てた。家具やテレビはどうしたのだろう。庭に放り出したのか。
近所の人や、父の会社の人が受付を手伝ってくれた。寿司や仕出し料理が配達された。通夜のあと、親戚や近所の人が祭壇の前に集まって酒を呑み、食事をした。
横溝正史作品の映画で、通夜の場面がよくある。村の人が総出で、料理や酒を参列者に振舞っている。規模は違うけれども、そういう雰囲気だった。
自宅で葬儀をすると、誰がどんな風に亡くなったのか、すぐに知れわたる。葬儀が別の場所で行われることが多い現代、聞かなければ、ご近所でも不幸があったことを知らずにいる。
さくいん:横溝正史
さだまさしのこと
1979年から83年頃、小学五年生から中学三年生の頃まで、さだまさしを熱心に聴いていた。ファンクラブにも入っていた。
高校に入った1984年頃からあまり聴かなくなった。最後に買ったアルバムは『Glass Age』(1984)。この頃、一度、コンサートに行っている。
なぜ、聴かなくなったのか。Billy JoelやJOURNEY、Cyndi Lauperなど、洋楽を聴きはじめたこともある。日本語の歌でも、浜田省吾や長渕剛のように、もっと激しい音楽を好んで聴くようになった。原田知世や菊池桃子のようなアイドルも聴き、グラビア雑誌も買うようになった。
今は、ライブのテレビ放送があれば昔の曲を期待して見る。でも、トーク中心のNHKテレビ「朝までさだまさし」は見ていない。
新譜も進んで聴くことはない。
十代の半ば、さだまさしを聴かなくなったのは嗜好の変化に加えて、もう一つ、理由があったように思う。
それは、彼の歌や発言に見え隠れする旧態依然としたジェンダー観。端的な例は「嫁をもらう」「嫁に行く」という言葉。
何年か前には、「大人の女性は皆、お母さん」という言葉も聴いた。どこかの中学校の校長が壇上で言ったら新聞沙汰になるだろう。
さだまさしのファンは女性のほうが多いと聞く。年齢では、おそらく私と同年代か上の人たちだろう。ファンの女性たちは、あからさまな旧いジェンダー観に不満を持たないのだろうか。同じような保守的な女性像に共感する人がファンになっているのか。
ネットでさらっと見たところ、深く考察している人は見当たらない。私が勝手に拘っているだけで、ファンにとっても、ファンでない人にとっても、どうでもいいことなのかもしれない。
わだかまりを持ちつつも、彼のライブを見逃さないようにしているのは、彼のギターを聴きたいから。多額の借金を抱え、返済のためにコンサートの回数を増やした。「借金のおかげでギターが上手くなった」と『嵐にしやがれ』で話していた。
数年前テレビで30年以上前の曲「十九才」を弾き語りで聴いた。イントロから一人で弾いているところを見て、やっぱり彼の音楽が好きなことを確認した。
さだまさしについて、もう一言。1970年代後半のアルバムは、今でも繰り返し聴いている。『帰去来』『風見鶏』『私花集』『夢供養』『随想録』。
私が、「あの頃」のさだまさしを好きなのではなく、「あの頃」のさだまさしが、私を作ったと言う方が正しい。言葉づかいや、恋愛の見方や、別れの悲しみ方など、要するに世界をどう見るか、ということについて、現実に体験するよりも前に、彼の歌が私の心に植えつけられていた。
さくいん:さだまさし、70年代
大原美術館には、30年以上前、高校の修学旅行で行った。世界史を勉強していたし、美術館へ行くことも好きになっていた。
当時、印象に残ったのは、エル・グレコ「受胎告知」よりクールベ「秋の海」だった。絵葉書を買って帰った。もっとも、そのときはクールベの名前は気に留めていなかった。彼の名前を記憶したのは、後日、模擬試験で出題されたとき。
設問は、「『石割り』で知られている、パリ・コミューンにも参加した写実派の画家は誰か」。答えがわからなかったので、模試の後ですぐに学校の図書館で「石割り」を掲載している画集を探した。「石割り」は焼失したらしく、白黒の写真しかなかった。
有名な『オルナンの埋葬』でなく、焼失した作品の名前を使うのはかなり意地が悪い。当時の受験世界史はこういうクイズのような設問が多かった。
今回、クールベは展示されていなかった。
「受胎告知」以外に収穫があった。松本竣介の「都会」と国吉康雄の「飛び上がろうとする頭のない馬」を見られたのはうれしかった。
やなぎみわの、自身がテントを被っている「寓話シリーズ 無題1」も、前から見てみたかった作品。六本木で会えるとは思っていなかった。
絵画以外では、富本憲吉の白磁。ほかの作品も見てみたい。
関根正二「信仰の悲しみ」と小出楢重「Nの家族」(いずれも重要文化財)は、知らなかった。
気になる新しい画家も見つけた。森の緑や水を幻想的に描く北城貴子、光が透ける葉を描く押江千衣子。
国立新美術館に行ったのはは初めてだった。
コーヒーを飲んで一休みしてから、六本木ヒルズの展望台に登った。写真は52階から見下ろした国立新美術館。手前は政策研究大学院。
さくいん:クールベ、松本竣介、国吉康雄
国立新美術館を見たあと、六本木ヒルズの展望台に登った。
展望台へ直行するエレベータに乗る前、記念写真の撮影があった。展望台で写真を確認して、気に入ったら買えばいい。小さい写真は無料でくれるという。
撮影するとき、カメラマンが「Sky Shot!」と流暢な発音で声をかけた。
さすが六本木。いや、ちょっと気取りすぎか。
昨年春、大阪で通天閣に登ったとき、カメラマンが発した掛け声は「撮れタワ〜」。
一年前の楽しい旅を思い出した。
父は、「今生の別れの記念に」と笑いながら、3人が映った大判の写真を買った。
六本木から日本橋へ
国立新美術館へは両親と行った。二人とも80歳を越えている。
昨年の今頃、父は目の手術をした。それも、よくなるためではなく、これ以上悪くさせない手術だったので、本人はかなり気落ちしていた。さらにその後、腹に大きな粉瘤ができた。中身は癌ではなかったものの、3週間近い入院は、健康な人も具合の悪い人と思い込ませる暗示効果があった。しばらくは誘っても出かけることがなかった。
そんな父が最近調子がよい。六本木の美術館へ誘うと張り切って出かけてきた。こんなことは、去年のあいだは考えられなかった。
六本木ヒルズの展望台を降りてから、帰り道が便利なように日本橋で夕飯を食べた。
母は丸ノ内、父は新橋で働いていたことがある。私は都心で働いたことがない。両親のほうがよほど都心については詳しい。それだけに最近の急激な再開発に驚いていた。
日本橋で新しいビルで中華料理を食べてから、同じビルにあるパリのカフェ風のバーに入った。
ここで、16年前、2歳の孫も連れて一緒に旅したベルギーで食べたムール貝の白ワイン蒸しを食べられたので、父は終始、ご機嫌だった。
月に一度、両親の家で二泊三日過ごす。大いに呑み、大いに食べる。ついでに書けば、私は大いに聴く。父も母も、毎回ほとんど同じ話をする。新しい話題が出ることは滅多にない。
正直なところ、同じ話を聴くのはかなり疲れる。それでも、繰り返される「同じ話」の隙間に言葉にならない「おなじ話」(ハンバート ハンバート)があることを私は知っている。
だから、いつも、その思いを聴きとろうとしている。
「聴く」ことだけで親孝行になるわけではない。でも、今週の診察でS先生は「聴く」だけでも、ご両親は喜んでいるでしょう、と言ってくれた。
ちょっとうれしい気持ちになった。
大桟橋
日曜日の朝、久しぶりに横浜の大桟橋へ行ってみた。
両親の家で過ごす週末は、このところ鎌倉へ行くことが多かった。
鎌倉や逗子と同じように、ここも私の故郷。
故郷の範囲は、地図の上の境界線と同じではない。
故郷と言って思い浮かべる地域は、北は、横浜市港北区小机。東西は横浜市を縦断する京浜急行の東側。西側、具体的には、JRが通る保土ヶ谷や戸塚、相鉄線や田園都市線の沿線には同じ横浜市でも土地勘がない。
南と西は逗子から鎌倉を過ぎて江ノ島まで。東は横浜市の海岸線い沿って。南は京急の金沢八景で止まっている。横須賀から三浦、三崎にはそれほど愛着はない。
『海街diary』は、知っているつもりだった鎌倉の見方を一新してくれた。大桟橋から見えるこの景色を新しくしてくれる物語はないか。
写真は横浜ベイブリッジ。
さくいん:横浜、鎌倉、逗子、『海街diary』
記憶の欠落
大桟橋や山下公園、港が見える丘公園などは、高校時代にはよく来た。あの頃、みなとみらい地区はまだ開発中で土砂しかなかった。
何度も来たはずなのに、誰と来たのか、覚えていない。まるで冷戦時代の社会主義国のように、そこにいたはずの人の姿が記憶の景色から抹消されている。
どうも私には中学時代と高校時代を忘れてしまいたいという願望があるらしい。小学校時代の思い出は、幸福感と悲しみとが甘く淡い感傷の彩りで入り混じってはいるものの、ある形になって心に刻まれている。
ところが、中学と高校の6年間の記憶は、すっぽり抜け落ちている感じがする。ところどころ覚えている出来事はある。でも、そこには連続性も、互いの関連付けもない。登場人物も非常に少ない、もしくは誰も彼も印象が薄い。
卒業アルバムを広げてみても、自分がそこにいた気がしない。
人間の脳には、自己防衛のために、言葉を換えれば自暴自棄にならないように、自分に都合の悪い出来事を忘れる機能があると聞いたことがある。
強制収容所の看守だった人が、戦後、精神疾患になった割合はそう高くないという説も聞いたことがある。日本でも、戦争中に自分がどんな蛮行をしたのか、積極的に語る人は多くない。
私も、思い出したくない蛮行を繰り返していた。その記憶が蘇るときが怖い。
父方の祖父母が横浜駅の北側に位置する小机に住んでいた。父はそこの生まれで、結婚して都内の社宅で暮らしはじめるまでそこに住んでいた。私自身も幼稚園から小学一年の夏休みまで、横浜駅から近い三ツ沢に住んでいた。高校への通学には横浜駅を使っていたので、周辺の書店や文具店、ラーメン屋には詳しかった。そんなことも手伝い、横浜駅の周辺からみなとみらい地区は昔から知っている気がする。
この地域は大型開発があったり、店舗の回転も激しいので、しばらく間を置くとまるで違う街に来たような気になる。
小学一年生の夏休みに横浜市の南端に造成された新興住宅地に転居した。横浜までは駅まで歩いて京急に乗ると1時間弱、かかるようになった。それでも、一人で、現在は横浜そごうになっている横浜駅東口にあったスイミングスクールに通ったし、大きな買い物をするときは、いつも横浜駅前のデパートまで出かけた。
対して、距離で言えば両親の家からさほど遠くないのに、横須賀で買い物をしたことはない。せいぜい、戦艦三笠を見に行ったくらい。
同じ住宅地のなかでも、両親が三浦半島出身の人は、横浜よりも横須賀に愛着があるらしい。
首都圏では、行政の区割りではなく鉄道の路線によって文化圏が形成されていることが多い。買い物、習い事、高校(かつては南北に長い臨海学区があった)、予備校、デートコース。生活のさまざまな場面が路線によって規定される。
京急線の沿線には競輪場や馬券売り場があり、かつてはかなりガラが悪かった。最近は「羽田空港への近道」というキャンペーンの効果もあり、イメージはだいぶよくなった。
特別、好きというわけではないけれども、小田和正やゆずが気になる。京急沿線出身というだけで親近感がわく。
それからもう一人、「I Came from 横須賀」を歌った山口百恵も。この歌は、横須賀中央から品川まで京急の主な駅を順に並べた京急唱歌。
さくいん:横浜、京浜急行、小田和正、山口百恵
管理教育と洗脳
Twitter経由で『尼崎事件 支配・服従の心理分析』という本の書評を読んだ。
この事件は覚えてはいるけど、評者も書いているようにあまりに複雑で、理解しようとしていなかった。同書では実際に起きた暴力行為が詳しく描写されているらしい。暴力の描写を読むことが辛いので、紹介された本はおそらく手に取ることはないだろう。
気になったのは、評者が引用している「人間をいとも簡単に奴隷にさせる戦慄のメカニズム」。
“優しさ・しつこさ・難癖 → 恫喝 → (虐待 → 無力化) n × 断絶化
→ 心理的支配・ロボット化”
被害者でありながら、殺人犯にもなってしまった男性は、「いずれも自分にとって最も事態が丸く収まり、最も速やかに「平和的解決」につながると思った行為を選び続けたに過ぎない」。にもかかわらず、主犯の女の命令通りに動く奴隷になってしまった。
事なかれ主義から奴隷に堕ちる。それは、まさに中学時代の私の姿。
厳しい校則と体罰に縛りつけられた中学校で、優等生を装い、クラスと部活で教員から任された看守役を引き受けて、他の生徒を指導する優位的な立場を確保し、進学校を志望できる内申書を獲得した。
中学時代の自分に対する嫌悪感から抜け出すことができない。
2005年の夏に「体罰、より正確に教員の暴力について」と題した文章を書いてから、ずっとこだわっている。自分でもおかしいと思うほど執着している。
今は再就職を優先するとき、まず安定した生活基盤をつくること、十代の出来事と向き合うのはそれから、とS先生から助言されている。これが、なかなか難しい。
以前は、目の前のうつ状態と昔の出来事とを心のなかで区別することができなかった。いまのところ、十代の出来事は引き出しに入れて鍵をかけておくことができている。
今年はいつも心が挫けてしまう2月を「心の底から悲しむ幸せ」をしみじみ感じながら過ごすことができた。
さくいん:体罰
呑むと眠くなる
膝の痛みがようやく引いてきた。先週は図書館にも寄らずに真直ぐ帰宅していたので、くだらないワイドショーを見たり、長く昼寝をしたりしていた。
水曜日には気持ちが緩み、ついビールを呑んでしまった。
酒を呑むと眠りが浅くなる。そうでなくても眠気を催す薬を服用しているので、案の定、翌朝はとても眠く、プログラムの間もうわの空で、帰りの電車で居眠りしたまま乗り過ごしてしまった。
次の仕事が見つかっても、もう平日に酒を呑むことはできないだろう。
同じ話を何度もする。自分では全く話した記憶がない。これは病気なのか、薬の副作用なのか、S先生に訊いてみた。
先生の意見では、うまく伝えられないもどかしさのせいで、ためらいながら話しているために、「話さなければよかった→話さなかった」と頭のなかで変換されてしまい、また話しているのではないか。少なくとも、病気でも薬の副作用でもない。
病気でないと聞いて安心はしたものの、「話す、話さない、話したい、話せない、話さない方がいい」という迷いがあることがあることがわかった。
この回答は想定していた。やはり、心の中にわだかまりがある。でも、今はこの問題について深く考えるのはやめておく。
写真は公園の池に写る夕陽。
さくいん:S先生
どうしても、好きになれない。何か、引っかかる言葉がある。
逆に元気をもらった
被災地を慰問した後でこの言葉を言う人が少なからずいる。もらった分だけ、被災者の元気を吸い取ってるとは思わないのだろうか。
言われた人はどう受け止めるのだろう。「励まされるはずが励ましてしまった」と思うのだろうか。
誰でも憐れみの目では見られたくはない。だから、「さあ、慰めてあげますよ」と顔に書いてあるような人には、「何のこれしきのこと」とカラ元気を振り絞って笑顔を見せているのかもしれない。
こんな風に思うのは、私の思い過ごしだろうか。
仕事として、あるいはボランティアでも、長い間、被災者と関わっている人は、喪失の痛みを抱えながら、回復や復興のために努力している人を前にして「大変でしたね」とは言うかもしれないが、「あなたから元気をもらった」とは言わないだろう。
逆境を乗り越えようとしている人の姿に心は動かされても、ケアをする側にいる人は「あなたから元気をもらった」と言ってはいけないと思う。理由は、うまく説明できないけれど。
何かずれている。うまく説明できないけれど、「元気をもらった」と言って、言われた人が喜ぶとは私には思えない。
私は、逆境にあって這い上がろうとしている時に、誰かに「元気をもらった」と言われても、慰めとも励ましとも受け取ることはないだろう。
保守の本心
新しい安保法制が施行された。新年度の予算も可決された。一仕事終えた安倍首相は、日米同盟の重要性と強化をあらためて強調した。
アメリカでは共和党の大統領候補、トランプが日本からの米軍撤退もありうると言っている。「アメリカが再び豊かになる」ためには、もう他所の国の安全まで面倒を見ている場合ではないという考えがあってもおかしくない。
犯罪、格差、人種差別、宗教的不寛容、薬物の依存症、生活習慣病と健康保険⋯⋯⋯。それほど、アメリカは国内で深刻な問題を抱えている。
現政権が抱いている日米同盟に対する強い期待が、ある日突然、片想いにならなければいいけれど⋯⋯。
常々疑問に思っている。日本の保守系政治家は最終的な目標をどこに置いているのか。米国従属からの完全な脱却か。それとも、米国に従属した現状のままでも自分が享受している既得権益を守り、あわよくば、それを拡大することができれば、それでいいと思っているのだろうか。
そもそも、いま日本の政治家で米国従属からの脱却をたとえ「遠い夢」であっても「志」にしている人がどれだけいるだろうか。
過去の政治家はどう考えていたのか。岸信介はCIAの協力者だったとも言われている。それは、戦犯となり失いかけた政治生命を奪還するための手段に過ぎなかったのか、それとも、最後に日本の真の独立を決起するまで相手を利用する隠れ蓑のつもりだったのか。
保守と自ら標榜する人たちの本心が知りたい。
写真は国立新美術館に残る旧陸軍第一師団歩兵第三連隊兵舎の一部。
さくいん:アメリカ合衆国