横浜発 おもしろい画家:中島清之ー日本画の迷宮、横浜美術館、横浜市西区
みなとみらいへ行った。まず、前から行きたかった原信太郎鉄道模型博物館を見た。
次に、何度か来たことのある横浜美術館まで歩いた。中島清之の名前は知らなかった。
おもしろいどころか、すごい画家だった。
晩年の大作に圧倒された。
襖10枚にわたる巨大な「臨春閣障壁画」に描かれた鶴の群れ。「緑扇」で大きな屏風いっぱいに広がる竹の葉。写真で見ると色がつぶれてしまい、ただの緑一色の壁になる。本物では、一枚一枚が丁寧に描かれているのがわかる。こういう質感をマチエールと言うのか。絵はがきでは物足りず、図録も買わなかった。
美術館前にある看板には、ちあきなおみの肖像画。中島は熱烈なファンだったという。
写真は、美術館前の立看板。モデルは、ちあきなおみ。。
さくいん:横浜美術館
MOMAT コレクション - 特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示、国立近代美術館、東京都千代田区
藤田の戦争画がすべて展示されるというので、見に行った。
作品には、ヨーロッパで見た過去の名作からの引用が多くあると解説されていた。戦う男のポーズはダ・ビンチに、群像はジェリコーに、など。
藤田にとって、戦争画は、報道や広告ではなく、あくまでも芸術作品だったのだろう。
しかし、その立場は「戦犯探し」が社会の潮流だった戦後すぐには理解されなかった。藤田は落胆し、日本国籍を捨てた。
こういう経緯を歴史に翻弄される、というのではないか。
70年を経て、ようやく報道でも広告でもない、作品として藤田の戦争画を見ることができる。
レオナール・フジタはもういないけれど、作品はきっと喜んでいる。
さくいん:レオナール・フジタ(藤田嗣治)
雑誌『美術手帖』の戦争画特集号を図書館で見つけた。藤田のほかにも向井潤吉と宮本三郎がとりあげられている。
向井の「影(蘇州上空にて)」は、ずっと前に画集で見たことがある。街路を覆う巨大な機影は、インダストリア上空を飛ぶギガントのように見える。
藤田は自分の戦争画を「記録画の御用」と呼んでいた。パリで第一次大戦を目の当たりにしていたものの、近代兵器の総力戦についても、大日本帝國の侵略についても、とくに疑問はもっていなかった。むしろ、当時の発言を読むかぎり、戦意高揚に進んで協力しようとしている。
そういう点が、戦後、批判の対象になったのだろう。再び渡仏したことを「逃亡」と見る向きもあった。
向井潤吉は、日本に残り、批判を意に介さず、残された古民家を描くという自分が選んだ道を黙々と進んだ。こういうところは、「僕は馬鹿だから反省なんぞしない、利口な奴は勝手にたんと反省すればいヽだらう」と言った小林秀雄の態度を思い出させる。
いま、世界的な戦争がすでに始まっている。米英仏露が参戦し、日本も態度決定を迫られるだろう。強行通過した安保法制が試される時は、思いの外、早く来る気配がある。
そのとき、私も戦争に対する態度を本当に問われる。
さくいん:レオナール・フジタ(藤田嗣治)、宮本三郎、向井潤吉
奈良美智と大野智
戦争画を特集した『美術手帖』にアイドル・グループ、嵐の大野智の個展も特集されていた。
絵が上手いということは聞いていたけれど、かなりの腕前にみえる。
奈良美智が大野の作品について「美大生が学園祭で発表する課題みたいな感じ」とやんわり酷評しているので驚いた。おそらく、そういうことを言える親密な間柄なのだろう。
最近のジャニーズは、「ジャニーズであらざればアイドルではあらず」の勢いでマスメディアではまず批判されることがない。
本業から外れた場所とはいえ、率直な意見をもらえる師をみつけて、リーダーは喜んでいるかもしれない。
写真は、三枚の銀杏の葉。
調子が悪い
書類をもらうために2週続けてS医院へ。
今週の五日間で心配事が二つできた。それを話しているうちに、また壊れてしまった。先月、臨床心理士と面談したときと同じ。
S先生には、まだ心配なだけで、現実に問題になっているわけではないから冷静になるように諭された。それは、その通り。わかっている。
体調は悪くない。毎日運動もしているし、酒は、人と会う機会がなければ、週末にしか呑んでない。なのに、まだ感情のコントロールができない。
悔しいのは泣いたことではない。泣くなら泣くで目の前にいる人に心を開けて手放しで泣きたかった。そうでなければ、毅然として涙を見せたくなかった。
ここで泣いたら恥ずかしいという気持ちで、堪えて堪えて、それでも止められなかった涙。情けなくて、恥ずかしい。
パニックになった自分に自分が失望している。
さくいん:S先生
図書館の多い街
東京に住むようになって驚いたのは、図書館が多いこと。いま住んでいる場所からは、歩いていける図書館だけで5館ある。
徒歩10分で行ける一番近い図書館S。20分のJ、30分のO。この3館は、行ったことがある。隣町の図書館Cと図書館Kも歩いていける。
自治体の境界線に近いところに住んでいるので、むしろ隣り町の図書館のほうが近い。住所のある自治体の中央図書館は、遠くて歩いては行かれない。東京は広い。生活圏は、どの市区に住んでいるか、よりも、どの鉄道沿線に住んでいるか、で決まる。
住んでいる自治体にある図書館Mには先週末、初めて行った。地図でみると距離が約5Kmあるので1時間以上かかるかもと案じていたけど、急いだつもりがなくても50分で着いた。上り下りがまったくないのでだいぶ近く感じた。
同じ自治体のなかでも、図書館によって職員の応対や雰囲気がかなり違う。
聞くところでは図書館に市区の職員は、ほとんどいないらしい。図書館業務がまるごと民間会社に委託されているから。
ネットで検索すると、委託先を募集している自治体から職員を募集している図書館業務会社までたくさん見つかる。委託の予算も職員の待遇も、あまりよいものではなさそう。図書館司書という資格をもっているのに報酬が少ないのは気の毒でならない。
図書館にベストセラー本を置くべきか、という議論がある。私は、反対。話題になっている本をたくさん買ったところで、流行が過ぎればほとんど読まれなくなる。話題の本は新古書店で買うことができるし、そちらの業態のほうが出版不況の原因としては大きいのではないか。
図書館には、個人では買えないような事典や図鑑や講座本などを購入してほしい。
図書館を利用しているのは住民の2割程度で、頻繁に利用している人はさらに少ない、だから高価な本を買うのは無駄遣い、という意見を聞いた。
これでは論理が反対。充実した資料を住民に活用してもらうことが重要で、活用されていないから図書館業務を縮小していいとはならない。
たとえば、今回の安保法制の改悪について、主権者として知識を得たいとき、図書館で憲法や日米安保についての本が読めるとありがたい。
来年には18歳も投票権を持つ。主権者教育はより重要になる。原発事故や安保法制をきっかけに主権者意識をもつ人も増えるだろう。
図書館は、主権者教育の拠点、すなわち民主主義の拠点であってほしい。
写真は、ときどき出かける図書館の近くにある寺。
さくいん:東京
現代は競争社会。とはいえ、誰もが「ハイ・テンション & ハイ・モチベーション」を持ち、厳しい競争に参加しなければいけないわけではない。競争から降りる生き方もあるだろう。のらりくらりと生き抜く方法もあるはず。そもそも、生きる目的や働く理由は、人それぞれに違う。
PTGとは結果であって目的ではない。また、PTGという概念を倫理的な命令ととらえることは、心的外傷を抱える人にさらに圧力を加える危険がある。
ハンナ・アーレントは、現代社会を覆う全体主義に対する態度を、抵抗、逃亡、和解の三つに分類した。PTGは、抵抗や競争に勝つことだけを強調する。
心的外傷と和解する。つまり、それを自分固有の「経験」として「痛み」を抱えながら生きていく道もあると思う。
私の場合は、上記の三つとは違う、「転落」という仕方で競争社会から逸脱した。もう戻るつもりもないし、できないだろう。では、どうやって生き抜くか。
そこはまだ思案中。急がずに考える。
「生き抜く」と思いはじめているだけでも、昨年の今頃に比べて、大きく「回復」している。これは「成長」とは言わない。
写真は、公園のテニスコート脇で咲いていた皇帝ダリア。
さくいん:ハンナ・アーレント
考えがまとまらないが、書きはじめてみる。
「生き残った傲慢さに耐えかねる苛立ち」、これまで何度かそう書いてきた。最近も、井上ひさし『父と暮らせば』を読み終えて、この概念を用いて感想文を書いてた。
この概念は、『父と暮らせば』以外にも、同じように原爆投下後の広島を舞台とした、こうの史代『夕凪の街』でも描かれている。さまざまな作品のモチーフとなる、普遍的な主題の一つと言えるだろう。
しかし、考えなおしてみた。「生き残った傲慢さに耐えかねる苛立ち」という感情は、誰もがもつものでもないし、もたなければいけないものでもないのではないか。
心的外傷は誰にでも起きるものではない。喪失体験の後、平静に過ごすことができたとしても薄情なわけではない。
ただし、複雑性心的外傷の場合は違う。なぜなら被害者は同時に加害者だから。
石原吉郎は、「思想は加害者の立場からしか生まれない」という。
複雑性心的外傷を抱えている者は、一方的な被害者意識から脱しなければならない、という要請だろうか。
いや、むしろ加害者意識を持っているからこそ、「複雑性」と名付けられるのだろう。
まとまらない。この問題については、まだ、考える余地がある。
写真は、落ち葉の積もった散歩道。こういうところを歩きながら考えごとをすることが多い。
さくいん:井上ひさし、こうの史代、石原吉郎
外資系企業で働いていたときの「人との付き合い方」について。
外資系企業5社で働いた経験では、会社で学歴と報酬の話はしないことが暗黙の了解になっていた。皆中途で入ってきているので、どの学校を出たか、ということは仕事と直接関係ない。これまでどんな会社で、どんな業務に就いていたのか、ということは、仕事に関係があるので、早い時点で知らせ合う。
収入の話はほとんどしない。報酬は、個人の実力だけではなく、採用時の会社の景気や求人の緊急度などによって決まる。急いで増員したいときには厚遇する一方、日本からの撤退やレイオフで無職の状態で応募してきた人は足元をみられる。職務能力とは必ずしも比例しない。
もちろん、時間が経てば、実力のある人が自然と高い評価を得るようになる。
私の場合は、朝井リョウのように学校ではなく、外資系企業で働くようになってから、「体から」はじまるつきあいを覚えた、と言えるかもしれない。
それはまた、秘密を決して告白しないつきあいでもある。
写真の銀杏、次に通りがかったときには、すっかり葉が落ちていた。
さくいん:秘密
うれしい出来事が二つ
最近、うれしいことが二つあった。
一つ目。昨年の末に辞めた会社の同僚から連絡があり、ほぼ1年ぶりに顔を合わせた。突然の退職の背景も社長から知らされて、心配してくれたのか、5人も集まってくれた。
二つ目。ネット上で知り合った人とつながりをもつことができた。10年前、その人のブログで岡本夏木『幼児期』を知り、感想文のリンク先をお礼とともに送った。
その後も、その人がブログで紹介する音楽や本が自分の好みに近いことがわかってきたので、知らないミュージシャンや作家の名前があると、自分で探すようになった。
今回はお返しができた。
その人は最近、浜田真理子に興味を持ったらしい。そこで私から、中島みゆきへのトリビュート・アルバム『元気ですか』で、浜田が「アザミ嬢のララバイ〜世情」をの2曲を歌っていることを知らせた。中島みゆきの曲では「世情」が好きだったようで、浜田版も気に入ったとお礼の返信がきた。
10年間のあいだに、わずか数回のメールのやりとり。それだけでも、「つながり」を感じた。
細くても、こうした「つながり」を束ねていけば、ダークサイドに落ちてしまいsうな自分をつなぎとめることができるだろうか。
写真は、公園の紅葉。
二つのベスト・アルバムは、最近初めて行った自宅から遠い図書館で見つけた。遠出の成果。
谷山浩子、声が好き。歌う声も話す声も、歌い方も話し方も。歌う声が好きでも、話す声はそれほどでもないという人もいる。歌も話も好きという人はほかに思いつかない。
声が好きな人をほかに挙げると、歌声では、飯島真理、田中好子、話す声では、クリス智子、柳原可奈子、石井庸子、藤木千穂、増田みのり。
歌詞カードに、曲にまつわるエピソードが添えられている。ほんの小さな出来事がきっかけになり歌ができることがある。そんな些細なことから歌ができるのか。
谷山浩子の感性に改めて驚き、感心した。
もう一つ、驚いたこと。好きな曲の一つ、「DESERT MOON」は、歌声をさらに可愛らしく聴かせるためにピッチを上げていたという。今回のアルバムにはピッチを変更していないバージョンが収録されている。
前から「DESERT MOON」の声はちょっと他の曲と違う気がしていた。青春ドラマの主題歌だから、思い切り可愛らしく声を演出していたのかと思っていた。ピッチを変えるのは、音楽業界ではよくあることなのか。
言われてから聴いてみると、確かに原曲のほうが落ち着いているように聴こえる。
驚いことはまだある。サポート・メンバーなど詳細なデータを見て、また驚いた。私の好きなギタリスト、吉川忠英や岡崎倫典が参加している曲が多く、編曲も手がけている。好きなものは、どこかで別な好きなものにつながっている。
谷山浩子を初めて聴いたのは、いつか。たぶん、1982年後半。中学二年の終わり頃。
1983年の春に発売された『たんぽぽサラダ』を友人に録音してもらった。中学三年の秋だったと思う。ということは、それより前に好きになっていたということ。NHK-FM『昼の歌謡曲』を“エアチェック”したことを覚えている。これは二年生のときとはっきり覚えている。『わくわく谷山浩子』(みき書房、1983)も買った。
コンサートにも一度行った。『水の中のライオン』(1984)のツアーだったと思う。「テングサの歌」で会場が大いに盛り上がった。
さくいん:谷山浩子
就労移行支援事業所で契約(一悶着あり)
就労移行支援施設と契約をするために朝から出かけた。そこで一悶着あった。
受け取っていた福祉サービス受給者証では、給付決定は4日だったけど、支給開始日は来年の1月1日なっていた。
もともとは急がず、新年からの通所にすることが、医師と保健師のアドバイスだった。ところが、施設のほうでは、一日でも早く、一人でも多く通所者欲しいので、今月からの通所に受給者証を変更できないか、と言ってきた。
この話は今日急に出てきたわけではなく、前から先方の意向は聞いていた。私は医師と保健師ときちんと相談もせず、態度を曖昧にしたままでいた。これが行き違いの原因。
その場で保険相談所に電話をかけて事情を話したところ、「事前に決めた通り、通所は年初からがいい。あなたは前のめりになる傾向があるし「押し」に弱いところもあるので押し切られないように」と保健師は返答した。
「前のめり」というのは、5月に気候がよくなったので、いきなり自転車で2時間遠出したあと膝を痛めてしばらく散歩ができなくなったことや、一週間の午前午後、すべてに就労移行の施設見学の予定を入れて、週末に疲労困憊して寝込んだことを指している。
そこで、保健師に支援施設の訓練計画を立てるコーディネーターに直接話してもらい、通所は年明けから、ということで決着した。
この一件でも、日付などの数字の最終確認ができない、つまり詰めが甘い、毅然とした態度で決断できない、という私の欠点が露顕している。
夕方、先方の責任者から電話があった。施設の意向どおりにならなかったことは、気にしないでいい、と言われた。
今度は、先方から「前のめりにならないように」助言があった。
施設には仕事をしていたときと同じようにスーツで通所するつもりだった。それはコーディネーターに伝えてあった。責任者からは「あまり早くから気を張らないほうがいい。いずれ就活モード、面談モードになり、スーツが必要になる。それまでは休職と労働の間だから、ビジネス・カジュアル程度の服装で来てはどうか」というアドバイスがあった。
仰るとおり。1月から張り切って行くぞ、という過剰な意気込みがあった。途中でつまづいたり、崩れたりしないように、ゆっくりゆっくり進んでいかなければ。
実は、「押しに弱い」と言われたわけではない。ほんとうに言われたことは「あなたは真面目で気を遣うから施設側の意向も受けてしまったのでしょう」。自分では「真面目で気を遣う」性格とは思っていないので、言葉は変えておいた。
止められない時の流れ
昨日は、就労移行支援施設との面談のあと、近くの図書館で貸出カードを作った。在住在勤でなくても貸出ができるのはありがたい。
昨夜は両親の家に泊まった。父の食が細いことが気になる。しばらく前に腹部に粉瘤ができて入院した。寝巻きのままで一日天井を見ていたら、元気な人でも心身ともに弱ってしまうだろう。
息が苦しくなることもたびたびある。外出先で息が苦しくなるのが怖くて、外出もほとんどしなくなった。
来年、父は年男。84歳で、食事、トイレ、風呂、着替えが自分でできて、今のところ認知症の兆候もない。もう少し体力をつければ安心できるのだが。
最近は、会うたびに、これが最後になるかもしれない、と思いながら接している。
大晦日には、受験生一人をのぞいて孫たちが集まる。喜んで気力が高まればいいと期待する一方、心配なこともある。
父は少しずつ老いていく。幼児は急速に成長する。下降する線と上昇する線とがうまく交差するときは、両者にとって楽しく、幸せな時期になる。
ところが、この二つの線が交差する時期は長くはない。
祖母と私の娘がそうだった。ある時期、二人は手を取って歌を歌ったり、手遊びをしていた。
娘が成長して素早く動くなるようになると、祖母はついていけなくなって「走りまわっちゃダメ。ここに座ってなさい」と叱るようになった。
この流れを止めることはできない。周囲が気にかけていれば、父が癇癪を起こしたり、幼児が泣いたりすることは止められるだろう。
汐風療法
久しぶりに江ノ電に乗った。鎌倉高校前駅で降りて、しばらく海を眺めていた。
今は海から遠いところに住んでいるので、ときどき海を見たくなる。サーフィンもできないし釣りもしないけど、定期的に海を見たくなる。海を眺めていると穏やかな気持ちになる。
心が穏やかになるということは、こうしてときどき海を見ることは一種の治療になっているのかもしれない。
勝手に「汐風療法」と名付けておく。昔見た青春ドラマ『ゆうひが丘の総理大臣』で、中村雅俊が歌っていた。
汗ばむ心 潮風が洗うにまかせれば
いつのまにか 生きることが また好きになる僕だよ
「海を抱きしめて」(1978、山川啓介作詞、筒美京平作曲)
そういえば、小説『優しい音』で主人公を励ましていたメールの差出人も「潮風」と名乗っていた。
写真は、鎌倉高校前駅に入る江ノ電と江ノ島遠景。
帰宅したら、予約しておいた『海街diary』のDVDが届いていた。
特典ディスクだけ、少し見た。本編は週末の楽しみにとっておく。
6/26/2016/SUN、追記。
潮風か、汐風か。
「潮風」とも書けるけれど、「汐風」のほうが好き。
オフコースに「汐風のなかで」という曲がある。オフコースの作品では、圧倒的に小田和正が書いたものが多い。でも、どの曲が好きか、一曲だけ選んで、と言われたら、迷うことなく、鈴木康博が書いた「汐風のなかで」を選ぶ。1980年、秋の思い出。
さくいん:江ノ電、中村雅俊、山川啓介、筒美京平、オフコース
クリスマスコンサート、きりくハンドベル アンサンブル、浜離宮朝日ホール、東京都中央区
毎年恒例になっているハンドベル・コンサート。最初に聴いてからもう20年は経つ。子どもが生まれそうなときと旅行へ出かけているとき以外は、毎年聴いている。このコンサートで、“O Holy Night”を聴くと年の瀬を感じる。
グループの編成や名称は変わっているが、主宰の大坪泰子は変わっていない。「ハンドベルの既成概念を次々に覆す若き第一人者」と紹介しているように、彼女が「きりく」を育ててきた。
「きりく」の特徴を挙げると:
- 指揮者がいない。8人が横に並んでいて、どうしてリズムが合うのか、不思議でならない。
- 少人数で多数のベルを使いこなす。演奏は6〜8人。ときどき隣の人とベルを忙しく交換している。ベル以外にもクワイアチャイムと呼ばれる楽器も使っている。
- クリスマス音楽以外で難易度の高い曲もレパートリーにある。たとえば「チャールダーシュ」「ずいずいずっころばし」「I Got Rhythm」⋯⋯。クリスマス音楽でも「鐘のキャロル」など、華やかでテンポの早い曲も定番になっている。
音楽の素養のない者の感想ではあるが、今年は芸術性が向上しているように感じた。
曲目をみても変化がわかる。以前は仮装してクリスマス音楽のメドレーを演奏したり、ルロイ・アンダーソンのように楽しげで、観客にも馴染みのある選曲をしていた。
そういう演出はなくなった。もう必要ないだろう。観客は彼らの演奏に期待している。
昨年につづいて、ケルト系バンド、KiLAの“Gwertzy”が演奏された。ベルとパーカッションの壮大なアンサンブルだった。
一部と二部のあいだの休憩時間。ロビーの四隅にイヤホンをつけた男性が立っている。SPと書いた札をぶらさげたように鋭い目でロビーを見渡している。誰かVIPが来るのだろうか。過去にホワイトハウスで演奏したこともあると聞いたことはある。
果たして、第二部の開幕前、二階席から拍手が沸き起こった。「やんごとなきお方」が来られていた。
さくいん:大坪泰子(きりくハンドベル・アンサンブル)
疲れやすい
丸一日寝てしまった。
続けて都心に外出すると疲れる。ふだんの散歩は1万歩歩いても平気なのに。
昨日は浜離宮ホールへ行く前に、銀座で二十代の頃、何度か行ったイタリアン・レストランで遅い昼食/早い夕食を食べた。「体力はついてきたね」と話したばかり。
こんな調子で会社員に復帰できるのか。不安。
My Favorite English Voices
好きな声について書いた。読み返すと日本語で歌う声と話す声だけを選んでいる。
日本語以外、私がある程度使える英語で好きな声はないか。
ないわけではない。でも、Karen Carpenterにしても、Carole KingやDiana Krall、Norah Jonesにしろ、皆、アルトだったり、ハスキーだったりして、日本語で好きな声と性質が違う。
クリス智子は英語も話す。英語で話す声もいい。他にはLisa、原田知世がフランス語で歌っている“T'en va pas”もいい。
そもそも英語圏の人気歌手は、低い声、太い声、ハスキーな声が好まれていて、高くて甘い、少女のような、あまり使いたくないが、いわゆる「アニメ声」のような歌手を私は知らない。あえて探すと“I Love You Always Forever”を歌ったDonna Lewis。
Wilson PhillipsやCeltic Womanのようなコーラス・グループになると高い声が入る。それでも、列挙した好きな日本語の歌声とは少し違う。
そもそも、英語という言語が、日本語に比べて、声を低く出すような性質をもっているのかもしれない。
市場の違いだろうか、英語の特性だろうか。よくわからない。すこし時間をかけて調べたり、考えたりしてみたい。
いま、人気の歌手はほとんど知らない。ラジオを聴かなくなったせいだろう。ふだんは自分の集めた音楽を聴くことが多い。
さくいん:英語、カーペンターズ、クリス智子、原田知世
心が傷つく、と言うよりは
心が傷ついた、とか、誰かを傷つけた、とか、そういう言い方がよくされる。
いまひとつピンと来ない。
心という臓器が、身体の一部として、どこかに持っているように思っていない。
何かキツい言葉を言われたとき、身体の一部が傷つけられたと思うよりも、後ろ向きで断崖から突き落とされたような気持ちになる。
だから、傷というよりは、全身打撲というほうが、私にはしっくり来る。
写真は、庭で見つけた千両。正月も近い。
『富士重工業50年史』は武蔵野市の図書館で、特集コーナーに戦後70年を考える本として置かれていた。
読むと、富士重工の前身、中島飛行機については『三十年史』が詳しいと書かれているので、そちらも借りてみた。
1944年11月24日、現在の武蔵野市にあった中島飛行機の工場、武蔵製作所に70機のB29が空襲を行い、甚大な被害を与えた。武蔵野市はこの日を「平和の日」としている。
見たことのない図版が多い。『三十年史』には、建屋の名称も詳しく書き込まれた武蔵製作所の図面があった。こういう資料は初めてみた。
武蔵製作所は、現在での東西は中央通りから八幡町一帯から千川上水まで。南北は中央公園南端からNTT武蔵野研究所まで。
約56万平方メートルに最大時、4万人が働いていたという。現在の武蔵野市の人口が約14万人なので、工場の異常な大きさと人口密度の高さがわかる。4万人もの人の住まいや食料はどうやってまかなっていたのだろう
競技場、プール、青年学校の位置は、現在の競技場、プール、第四中学校と同じ。
富士重工の「富士」は、大戦中、中島知久平が構想した大型爆撃機「富嶽」に由来することを初めて知った。二つの固有名詞は知っていたけれど、つながりがあるとは気づかなかった。
富嶽は四発機のB29よりも大きい六発機で、太平洋を無給油で横断できる仕様だった。一説には、「勝つためにはこれくらい非常識な技術を持っていなければならない。それがない日本は負ける」という中島知久平の遠回しのメッセージがあったとも言われている。
仮に知久平の考えがそうだったとしても、時代の趨勢は、もはや技術者の遠回しな論理では動かない方向へ舵が固定されていた。
知久平は戦犯の嫌疑をかけられたまま、現在の三鷹市大沢にあった別邸で亡くなった。その場所は中島飛行機中央研究所の一部だった。
広大な中島飛行機中央研究所の土地は、一部分を日米のプロテスタント系キリスト教徒有志が買い取り、国際基督教大学が創立され、一部は今も富士重工の工場として稼働している。
写真は、中島飛行機武蔵製作所跡にできた都立武蔵野中央公園。
さくいん:中島飛行機・中島知久平
クリスマスの前の晩、。家族が寝静まるまで外に出て時間をつぶした。サンタクロースは子どもが寝てから仕事をするものだから。夕方に見た時は華やかだった聖堂のステンドグラスの灯りも消え、信徒会館だけひっそりと夜闇に佇んでいた。
それなりの消費社会的なクリスマス・ディナーのあと、お笑い番組を見ながら、ふと、幼稚園でマリアを演じた聖誕劇の話になった。続けて園長先生が話してくれた、四人目の博士の物語を思い出した。
書棚から園長先生の話を聞いてから買った『もう一人の博士』を引っ張り出してきた。読み返すと、物語の構成はトルストイ『愛あるところに神あり』(『靴屋のマルチン』)に似ていることに気づいた。トルストイがヴァン・ダイクの物語を知っていたかどうかは知らない。
今更ながら、もう一つ気づいたことは、四人目の博士、アルタバンはクリスチャンではなかったこと。でも、彼はイエスに会うことができた。
加賀乙彦は洗礼を受ける前からキリスト教について文章を書いていた。友人だった遠藤周作はそれを「無免許運転」と呼んで受洗を勧めた。加賀乙彦は母親が信徒だったから、カトリックに親しみがあった。
救われるためには、洗礼を受けなければいけないのだろうか。それとも、何かの組織に属することがなくても、アルタバンやマルチンのように、「善き行い」をすれば、天国へ行けるのか。
森有正は「キリスト教の信仰は単なる道徳や倫理に収斂されるものではない」と書いていた。では、道徳でもない、倫理でもない、「信仰」とは何なのか。それが、まだわからない。
『もう一人の博士』にもその答えは書かれていなかった。何か暗示があったとすれば、「声を聞いたら出発すること」。その声がまだ聞こえない。いや、聞こえていても自分を偽り、気づかないふりをしているのかもしれない。
何にしろ、今年のクリスマスも、知人のある神父に、ミサが始まる忙しい時間に年末の挨拶をした以外、例年通り、世俗的・消費社会的・享楽的なものだった。
私は、何人かの敬虔なキリスト教徒に出会った。大学で西洋政治思想史を学んだ教授はカトリックだった。先生は信徒であることを60歳で早世するまで公けにはしなかった。大学院で指導教官になった教授は二人とも信徒だった。そもそも信徒でないと教授になれないと言われている大学だった。
大学院で丸山眞男の精読を指導してくれた教授も、アメリカ外交史の勉強会で研究者の「凄さ」を身をもって見せてくれた教授も信徒だった。
欧米の政治学や思想史の研究者にキリスト教徒が多いのは、学ぶためには相手の懐に入らなければいけないという心理からと思っていた。悪く言えば「西洋コンプレックス」が受洗の動機になっているように思っていた。
ある政治学の先生に、まったく場違いなところで、そうこぼしたところ「丸山先生も、福田先生も、信徒ではない」と返されたうえに、「君は何か誤解している」と厳しく指弾された。
確かに私は誤解していた。誤解していたどころか、キリスト教とは一体どういうものなのか、まったくわかっていなかった。わかっていなかったという愚かさを、最近になってようやく気づいた。ずいぶんと不躾な発言をしたと後悔している。
写真は、クリスマス・ミサ前の聖堂と夜の信徒会館。
さくいん:加賀乙彦、森有正、遠藤周作、丸山眞男
体力をつけるために毎日、1〜2時間、歩いている。散歩をはじめた4月から夏までは、公園や遊歩道をまわっていた。
寒くなってきてから、図書館を目指して歩いている。寒ければ、速足で歩けば暖かい。
自宅から歩いていける図書館は、4自治体、10館。一番近い所は10分程度。遠い所は4Km、1時間。目的地がはっきりしているので、自然と速足になり、単純な往復でも退屈しない。慣れてくると同じ場所へ行く所要時間は短くなる。
大型本は、予約して近い図書館で受け取る。棚を見て面白そうな本を借りているので、新聞の書評欄や広告で見つけて、ブクログに「読みたい」と登録してある本がいっこうに減らない。
今年は本よりCDを多く借りた。クラシックやジャズの名盤と言われるアルバムは買う必要はない。ほとんど図書館で借りることができる。
四つの自治体の図書館をまわり、それぞれが注力している分野の資料を借りている。
CDについては、コンピレーション・アルバムを借りられることも図書館のメリット。多くの場合、一度しか製作されないし、広く宣伝されるわけでもない。
クラシックやジャズについて、私のような門外漢にはコンピレーション・アルバムは、入口としてありがたい。
好きなアーティストの曲が入っているコンピレーション・アルバムを借りる。その中で気に入った曲が収録されている元のアルバムや、今まで知らなかったアーティストのアルバムを借りる。そのアーティストの曲が入っているコンピレーション・アルバムを探す。こういう具合にして、ミュージック・アーカイブを育てている。
歩くときは、音楽を聴いている。スマホからランダムに聴いているので、80年代のアイドルの次にバッハのオルガン曲を流れてくることもある。
お気に入りの音楽を聴きながら歩いているといろいろなことが思い浮かんでくる。推敲する文や、文章のあいだのリンク、新しい文章のアイデアは、歩いているときに思いつくことが多い。
何か思いついたら、忘れないようにその場でスマホにメモする。これが大事。帰宅してからと放っておくと、たいてい忘れてしまう。
写真は、葉がすべて落ちた銀杏。12月11日の写真と同じ場所。
さくいん:バッハ
今年の本。今年の音楽。
今年読んだ本と聴いた音楽で印象に残っている作品を記しておく。出版年は今年の発行とは限っていない。
今年読んだ本は雑誌を除いて約160冊。ほとんど図書館で借りた。読んだといっても、眺めて楽しむ図鑑や画集が多い。
音楽は、数え切れない。今月だけで123枚のアルバムを借りている。アーティスト数が204、録音したファイルは5,631。アルバム一枚あたりに10曲として、560枚くらい入手したことになる。
今年、買ったアルバムは、2枚。山中千尋、“Syncopation Hazard”と、菅野よう子、『海街diary オリジナル・サウンドトラック』。
本
『「思春期を考える」ことについて』と『昭和のテレビ欄』は購入した。
音楽
『泣きJazz』でMichael Brecker, "The Nearness of You" (ヴォーカルはJames Taylor)を知り、元盤の“The Ballad Book”を聴いた。
いつも流行に遅れている。Celtic Womanは今年聴くようになった。薬師丸ひろ子とのコラボレーション、“You Rased Me Up” (時の扉、EMIJ、2013)も初めて聴いた。
DEPAPEPEとJohn Tropeaも、今年知ったアーティスト。
DEPAPEPEは、新しいギターの世界を教えてくれた。John Tropeaは、20年以上前の学生時代によく聴いていたSteely Danを思い出させる、懐かしい、でも、新鮮さも併せ持ったギタリスト。
“My Little Christmas”は、今月、一番繰り返して聴いたアルバム。木住野佳子を聴くようになったのも今年のこと。
写真は、自治体が天然記念物に指定している松の木。
さくいん:『海街diary』、山中千尋、中井久夫、DEPAPEPE、木住野佳子
私の部屋
今年はまるまる一年、休職していたので、自宅で過ごす時間が多かった。モデルルームだった新古住宅を家具付きで購入したのは2009年末のこと。ほとんどの家具はそのまま使ってきた。
今年、ベッドとカーテンを買い換えて、ようやく自分の部屋らしくなった。ベッドには頭の方に本棚があり、お気に入りの文庫本を並べた。
自分用の机も買った。前は本を読むのもパソコンで仕事をするのもベッドの上だった。机があれば、もっと手で文章を書けると期待していたが、パソコンが狭いデスクの真中を陣取っていて、手書きは増えていない。
LEDの電灯も買った。デスクにも、ベッドの上で本を読むときにも使える。
食卓とリビングのソファはモデルルームのまま。これを買い換えることが来年の目標。
「物欲」というものも生きる理由になる。今はまだ自分の欲のことしか考えられない。まだ、ほかの人の幸福までは考える余裕はない。