同書の中で、著者は現行の安部政権に対して厳しい批判に多くのページを割いている。現実の政治に関わっていくということを、彼女は積極的にしている。
個人的には、研究者、とりわけ思想や思想史の研究者が現実政治に関わることをあまり肯定的にとらえない。
理由は三つある。
1. 同時代の出来事は検証が難しい。
9.11のように、まだ事実関係が明確になっていない出来事を取り上げることは、後になって修正を迫られるリスクがある。たとえば、1972年の沖縄返還に際して日米の間にあったとされる密約は、最近ようやく公文書が公開されつつある。
1961年のケネディ大統領暗殺。まだ誰もが認める真実が明らかにされているとは言い難い。まして、15年前の出来事には、まだ不明なことが多い。
いずれ、公文書が公開されて、歴史学者や、外交や政策の研究者が、さらに事実関係を明らかにしていくだろう。
思想や理論を論じるのであれば、誰もが認めている事実(エビデンス)を基にすべき、と思う。未解明の事実関係に軸足を置くと意見を異にする人たちに足をすくわれることになりかねない。
2. 政治に巻き込まれると学問的立場から意図せず逸脱しかねない。
昨年の安保法制改正の時のような状況下で発言することは、アカデミックというより、どうしてもジャーナリスティックになる。多くの憲法学者は法学者の立場から違法という発言をしていた。そのように学問的立場に立脚した発言は無論望ましい。
デモの先頭に立って群衆を扇動することは研究者のすべきこととは思えない。政治家が放言や失言をするように、研究者も政治的な運動に巻き込まれると学問的立場から外れた失言をすることがある。失言一つで閣僚が辞任に追い込まれるように、一つの失言で研究者の業績だけでなく、その人間性に対する信頼が失われるリスクがある。
3. メディアに消費される。
現実政治に関わり、活動が脚光を浴びて支持されると、メディアでの露出が多くなる。いわゆるテレビ文化人と呼ばれるようになる。
ワイドショーのコメンテータになると、最初は専門分野で意見を求められるだけだったはずが、やがて、スポーツや芸能人のゴシップにまでコメントを求められるようになる。研究者がマス・メディアで消費され磨耗して、流行とともに捨てられる光景は珍しいものではない。
しかも、テレビ文化人になった時点で、その人の研究を支持してきた人々の多くが失望していることを、テレビ文化人になった研究者は気づかない。
学者が現実の政治にかかわるのであれば、あくまでも研究者としてかかわるか、そうでなければ、一市民として運動に参加すべきと考える。学者が過度に政治的なメッセージを発信したり、政治的指導者を目指したりすることには賛同できない。
もはや、大学人だけが「知識人」である時代ではない。学者でなくても、自分が興味をもっている分野で優れた研究をし発信している人も少なくない。彼ら在野の研究者たちは肩書きももたず、自分の良心だけを頼りにしている。
旧交を暖める
大学時代の友人に会った。場所は、ちょっと変わった焼鳥屋。
大学時代の知り合いで定期的に会っているのは、彼しかいない。大学院時代の知り合いとは、まったく付き合いが途絶えた。指導教官にも年賀状さえ出していない。筆不精だけでは恩知らずで人間関係に薄情な性格は言い訳にならない。
彼とは3・4年次の演習が一緒だった。担当教授は政治思想史と政治哲学を専門にしていた。その教授は30年前、還暦にもならないうちに早逝してしまった。今もOB会らしい集まりはあるらしい。恩師が亡くなってしまったので、人付き合いの悪い私は、OB会も退会してしまった。
彼と親しくなったのは、学生時代よりも、30代半ばから、つまり10年くらい前からのような気がする。当時、彼も私も転職を繰り返していて、そのうちのいくつかは不本意なものだったから、そんな話をきっかけに年に一、二度、会うようになった。
ありがたいのは、彼が『庭』を隅々まで読んでくれていること。私が自分の楽しみのためだけに置いた細工まで気づいてくれていて、細かい質問もされた。これには驚いた。
優れた読者を前にして、うれしさのあまり、本文では遠巻きにしか書いていないことを話した。人に話したのは初めてのこと。
文章を書いていたおかげで、彼も山村良橘先生の講義を受講していたことがわかった。
彼と会うと、いつも新しいことに取り組んでいて驚かされる。資格の勉強、市民農園、ジョギング⋯⋯。今回は、Amazonでレビュワーにランキング入りしていると聞いてまた驚いた。
新しいことに挑戦する、目標を持つ、モチベーションを維持する。どれも私がもっとも苦手にしていること。見習うことなど、とてもできない。
私が彼を驚かせることは何もない。次回はどんなことで驚かせてくれるのか、いまから楽しみ。
親友の活躍が、眠りこんでいる気持ちを焚きつけてくれることを願う。
政治思想の演習にいた学生は優秀な人が多かった。ジャーナリストや大学教員になった人もいる。
そのうちの一人、紅一点だった、いまは関西で大学教員をしている人が、今月、東京で講演をすると聞いた。ふだん交流があるわけではないので、こっそり二人で聴講してみることにした。
いたずらに、小椋佳、キティ、1981
今週は、70年代末頃に聴いていた音楽ばかり聴いている。小椋佳、さだまさし、オフコース、それから、Billy Joel。
さだまさしが1979年に発表したアルバム『夢供養』に「歳時記」という歌がある。「歳時記」と書いて「ダイアリー」と読む。さだまさしにはこういうルビのついた曲名が多い。「異邦人」と書いて「エトランゼ」、「距離」と書いて「ディスタンス」とか。
「歳時記」に、「ちひろの子どもの絵のような」という一節がある。それが、いわさきちひろのことと、今日、初めて気づいた。ずっと「幼い、無邪気な」を表わす形容詞かと思っていた、37年間も!
さだまさし「歳時記」は、風の「22才の別れ」と同じように、学生時代の恋人は知らない別の人に「嫁ぐ」。子どもの頃は、女性の心変わりと思っていた。「22才の別れ」では、17才から5年間も付き合っていたのに、どうして「知らないところへ嫁いでいく」ようなことをするのか、理解に苦しんだ。
そうではない、郷里で親が勝手に決めた見合いをしたのかもしれない。黒井千次「春の道標」を読んだときにそう思い直した。「春の道標」は1981年発表の作品で、舞台は1950年、男女共学になったばかりの都立西高校。
親が決める結婚や「許婚」という風習は、今もどこかに残っているのだろうか。
さだまさしについて語り出せばキリがない。思い出すことも、書きたくても言葉にならないこともたくさんある。今日はここまでにしておく。
さくいん:さだまさし
寒梅忌
2月最初の金曜日、鎌倉で、行かなければいけない場所へ一人で行った。
寒梅忌。
この日に、そういう名前をつけてみた。
名前をつける、ということには重みがある。「2月第一金曜日」「2月6日」と言えば、日付でしかない。
名付けることによって、ただの日付は、意味のある「時」として定義される。
もちろん、名前を付けただけで定義が出来上がるわけではない。本来は、名前のついていない純粋な経験が最初にあり、それがいかなるものか定義されたとき、はじめて名前が与えられる。定義付けを行う思索と言葉の操作を「経験」と森有正は呼ぶ。
「寒梅忌」と名付けた日に、どんな意味があるのか、その意味はどう定義されるのか。ここで、ようやく、思索がはじまる。その準備のために14年という歳月が必要だった。
「寒梅忌」という言葉は、これから何度も定義しなおされるだろう。
桜の樹の下には死者が眠っているという。では、梅の木の下には誰がいるのだろうか。
天女か。そうであれば、すこしうれしい。
さくいん:寒梅忌
弱くてダメな人
DVDを買ったので、『海街diary』を繰り返し観ている。見るたびに発見があり、違う言葉が心に残る。
弱くて、ダメな人じゃん
これは、耳が痛い。正座をしてママに叱られているバカボンのパパの気持ち。
もっと一緒にいたかったのに
この言葉を、私は一度も口にしたことはない。ずっと飲み込んだままでいる。
言っても仕方のないことと思っていたし、言えば、周囲はさらに暗くて重い空気で満たされると知っていたから。
いや、そもそも、私はこういう思いが湧き上がることさえ抑えつけて、心に硬く封印をしていた。
「王様の耳はロバの耳」。言いたいことが言えない。そういう状態が継続すると、言いたかったという気持ちさえ抑え込まれて、やがて、そんな気持ちがあったことさえ忘れてしまう。モンスリーが愛犬の名前を忘れていたように。
そのせいで、悲嘆は歪んだ形で心の底に固着している。
心の底の硬い地面の上に積もった砂を払い、土を掘り、ようやく『庭』のような場所になった。
庭を耕す仕事は、これから始まる。
さくいん:『海街diary』、『未来少年コナン』
一人で、それから三人で
金曜日、鎌倉の朝比奈峠で用事を済ませたあと、両親の住む家を訪ねた。
土曜日、両親が出かけたいというので、再び、朝比奈峠へ行った。前日、一人で行ったことは伝えなかった。
こんな気遣いをしなければならないのは、とても悲しいことだが、やむを得ない。
そのあと、江ノ電で長谷まで行き、長谷寺と光則寺で梅を眺めた。まだほとんどの木は咲いていない。咲いている木は満開。紅梅は実家の庭が一番開いていた。
2月5日の紅梅は、実家の庭で撮影したもの。
写真はハート型の雲
これまでに読んだPTG(Posttraumatic Growth)の本は、主に専門家向けだった。一般の読者向けにみえるような本も、PTGを何の留保もなく、誰にでも起きるように書いている本には、読みながら、とまどいを感じないではいられなかった。
本書はPTGを求めている人、あるいは、PTGやPTSDという専門用語に翻弄されて混乱している人に向けられている。
心に傷をもった一般の人を読者として想定している本書は、細部にわたり、配慮が行き届いている。せっかちな私は、まとめの部分から読み出し、警告を受けた。
「第8章 『成長』をもたらすための六つのステップ」に、書いてある。
大事なルールがある。「今は無理だと思うことは、決してやるな」
トラウマの記憶は、圧倒的な力を持つことがある。強い感情に揺さぶられ、身体に不調を感じ、パニックになりそうなら、この章を読むのをやめなさい。
今はまだ、その時ではない。この本を読むのは、もう少し先にする。
昨日、就労移行支援施設のプログラムは「人生に大きな目標を立ててみよう」だった。
紙一枚にたくさん書き出してみたけれど、何一つ、ポジティブなこと、前向きなことは書くことができなかった。
「三つの使命を果たす、そのあとには何もない」。そういうことも書いた。
あるトレーナーは、人生の目標と合致していない職業を安易に選ぶと、しばらくの間はうまくいってもいずれ破綻すると言った。よくわかる。一昨年までの職業がそうだった。
橘木俊詔が言う、「人は(少なくとも日本社会にいる人は)ほどほどに働けばよい」「無理に働きがいを見出す必要はない」という言葉はよくわかるし、強く共感もする。
二人の言葉は、矛盾しないのかもしれない。人生の目標に合致して、それでいて、ほどほどの負荷の仕事。論理的に矛盾はない。
論理的に矛盾していなくても、そういう仕事が現実にあるかどうかはわからない。仮にそういう仕事があったとして、今の私は「雇いたい」と思われる状態にあるという自信はない。「人生の目標」さえ、定まっていないのだから。
どんな職業をどんな基準で選ぶか。自分の過去をどう見るか。この二つが大きな課題になっている。
さくいん:労働
「顔色がよくなっています」
先週、3週間ぶりに病院へ行った。規則正しい生活が送れていることと、就労移行支援施設のプログラムに満足していることを伝えた。
これで、不意に来たウツや不安をやり過ごすことが出来るようになれば、再就職に近づきますね。
S先生は、いつも的確な助言をくれる。確かに、そこがまだ出来ていない急所。いまは気分が悪くなったら寝る、という解決法しかない。働き出したら、すぐ寝るわけにはいかない。その日の終業まで、その週末まで、落ち込みそうな気分を何とか支え上げなければならない。
ほとんど寝ていた去年の初めに比べれば大きく回復している。その達成には自信をもっていい。
確かに。昨年の1月から5月の連休あたりまでは、ほとんど寝て過ごしていた。大阪と伊勢の旅行から帰ってきた翌日、4月6日に書きはじめた手書きの日記を読み返すとよくわかる。
病院の受付の人が「顔色がよくなった」と言ってくれた。翌日、施設のスタッフにも「通所をはじめた頃と比べると顔色がずっとよくなっていますよ」と言われた。
さらに昨日、障害者手帳を受け取りに保健所に行くと、就労移行支援施設を決める時に相談した担当者からも同じことを言われた。
三人に言われたのだから、社交辞令や励ましだけではないだろう。回復している実感はある。課題もわかっているのだから、焦る必要もない。時間はまだある。
写真は、日記帳。
当世大学事情
首都圏では、80年代に郊外にキャンパスを移した大学が都心へ戻りつつあるという。
一番の理由は、学生の数が減ったので、大学間で学生の取り合いが激しくなったことにある。交通の便がよく、繁華街に近い場所が若者にとって魅力的なのは言うまでもない。競争は、もちろん、教育の内容もさることながら、利便性も重要な要因になる。都心部の大学は人気が高まり、不便な学校は敬遠される傾向がある。
私が大学生だった80年代、多くの大学がキャンパスを郊外に移した。学生が多すぎて都心のキャンパスでは手狭になったからだった。郊外のキャンパスは建物は新しく設備も最新だった。下宿の家賃も安い。郊外キャンパスはそれなりに人気があった。
私は都市型キャンパスの学校に通っていた。キャンパスには学生が溢れていた。老朽化した建物に大教室があり、受講生が300人以上という講義もあった。少人数の演習を受講できないまま卒業する学生もいた。それで卒業できたことも、今から考えればひどい話。
図書館もひどかった。閉架式で蔵書の検索はカード式。資料をもらえるまで待たされ、出てきた資料が思っていたものと違えば検索からやり直しだった。
自習や雑談をする場所もなかった。講義のあと、友人と会い、話が弾んでも、その場で立ち話をするか、喫茶店にでも行くしかなかった。
当時は、学生も、保護者も企業も、周辺の大学の女子学生も、そこで何をしたか、その大学でどんな教育を受けたか、ということよりも、卒業した大学が有名であることを重視していた。
最近は学生が減ったうえに、建物が高層になっているので、都市型キャンパスでも学生密度は低い。
昨秋、卒業25年を祝う「ホームカミング」で母校へ行った。大学へ行ったのは、古い校舎が壊される前に見に行った時以来。
大学に着いて驚いた。建物は、いま流行りの、低層階は古いデザインのままで最新デザインの高層階を上乗せしたビル。中へ入るとエスカレーターとエレベーターがある。
競争させるためか、複数のコンビニ店があり、その隣には、自習も雑談もできる無料のスペースがある。壁には学校内外のさまざまな催しのポスターが貼ってある。
こういう場所は、30年前にはなかったので、どう呼ぶのか、わからない。
結論としてひとまず言えることは:
- 1. 大学は学生集めに努めている。
-
- 2. 利便性の高い都市型キャンパスは人気がある。
- 3. 学生を集めるため、都市型でも快適な環境を備えて高校生にアピールしている。
高校生にとって、志望校を決めることは簡単ではない。両親を含め、身近に同じ興味を持って専攻を選んだ人がいても助言は難しい。選抜基準も、入学してからの教育過程も、大きく変化しているから。就職活動に至っては、毎年状況が変わっている。
明確なキャリアビジョンを持って大学を受験する人は、むしろ稀だろう。
多くの人は、入れたところで関わりをもった学問をかじり、拾ってくれるところへ就職する。
「行き着いた場所で出来る限りの努力をせよ」という助言は、学校を出る前の若い人には、確かに傾聴の価値があるだろう。
写真は、江ノ電唯一のトンネル、極楽洞。
さくいん:80年代
京浜急行は、小学三年生のときに横浜の、現在は横浜そごうのある東口の水泳教室に週二回、高校生のときには通学でほぼ毎日、そして、会社員2年目までは通勤のために毎日乗っていた。大学時代は不登校学生だったので、あまり乗らなかった。
京浜急行の魅力は、何と言ってもスピード。駅数の少ない東海道線に対抗するために、品川ー横浜間では120Kmで走るという。
もう一つの魅力。本書でも指摘されている快適性。ふだん、首都圏でJRに乗り慣れていて、ときどき京急に乗ると座席の心地よさに驚く。JR東日本の通勤電車は座席のクッションが硬く、居心地が悪い。座り心地が悪いどころか、座席のない車両も走っている。
本書は、高速度と快適性を両立させるために、線路や車両、ダイヤグラムにさまざまな工夫を凝らしていることも紹介している。
主な駅の初代駅舎の写真も興味深い。
若いときは感受性も記憶力も鋭いものとつくづく思う。京急は、いまでも乗れば車窓の風景でどこにいるのかわかる。新しい建物があるのもわかる。
いま住んでいる所も、京急沿線に住んでいた時間と同じくらい住んでいるのに、車窓を見ても、どこにいるのか、いまだにわからない。おまけに自宅の最寄駅以外では下車した駅も少ない。
各駅停車の旅は、ささやかな夢に残しておく。
当たり前のように乗っているせいか、京急の写真はほとんど撮ったことがない。次回、乗車するときに写真を写して入れ替える。
3月23日、写真を変更。ピンボケなので。後日、再挑戦。
4月4日、ようやくちゃんとした写真が撮れた。ピンボケ写真も残しておく。
鉄道の本、2冊め。
『江ノ電』の著者は、江ノ電株式会社の元社長。経営者の視点からのエッセイ。
江ノ電には、だいたい月に一回乗る。なんとなく感傷的な気持ちになったときや、そうなりたいときに乗る。江ノ電は、私にとって身近な観光ローカル線。
本書を読むと、江ノ電は非常に複雑な立場にあることがわかる。
いまや日本だけでなく、アニメの『スラムダンク』を見た東アジアの若い人にとっては「聖地」と言えるほどの路線。言うまでもなく、古都鎌倉を訪れる人にとっては観光地の情緒あふれるローカル線。地元の人にとっては日常の足。部分的に路面電車でありつつ、日本一の急カーブのある「鉄道」でもある。
急カーブ用の特殊なレール、鉄の天敵、潮風がもたらす錆びとの戦い、日常的に線路を跨いで歩く地元住民と、それを真似する観光客の安全を懸念する鉄道会社の対立、など、これまで知らずにいたことが多い。
一番驚いたこと。ICカードの普及によって乗客にとっての利便性は向上した。しかし駅名が変更されたり、料金が変更されたりするたび、ネットワークに参加している会社はプログラムの修正をしなければならない。これに多大なコストがかかるという。
しかも、自社もいつか駅名や料金を変更する可能性があるため、他社が変更したとき、修正費用は各社で負担しなければならない。江ノ電のように小さな鉄道会社にとってプログラムの修正は相当な負担になる。
ICカードの利便性の裏にそういう不利益があったとは知らなかった。
しらゆきひめ、矢川澄子再話、こみねゆら絵、教育画劇、2001
新しい図書館カード
これまで「就労移行支援施設」と書いてきたが、正式には「施設」ではなく「事業所」らしい。
事業所は複数の自治体の境界線に近い。すでに一つの自治体の図書館カードを作った。さらに二つの自治体の図書館も事業所から徒歩圏内にあることがわかった。
都心部の図書館は、在勤・在宅でなくても貸出カードが作れるところが多い。
今日、初めてある図書館へ行ってみた。建物はかなり古い。
70年代初めに出版された森有正の単行本が開架に並んでいるので驚いた。他の図書館なら間違いなく閉架にある古い本が開架に並んでいる。大学図書館の地下書庫のよう。
それでいて、掲示されている「今週入った本」の数も多い。不思議な図書館。
住まいの近辺で4枚、事業所近くで1枚、図書館カードを作った。
6枚目の貸出カードを作り、早速、CDを10枚借りた。一人上限10枚は、他の自治体と比べて多い。最近は70-80年代のフュージョン音楽をまとめて聴いている。今日はリー・リトナーと松岡直也をいくつか借りた。
近々、7枚目の貸出カードを作るつもり。
東京動脈、栗山貴嗣、2009
江戸東京めぐり「江戸電車路線圖」、人文社、2002
もう一つ、繰り返し見て気づいたこと。この映画を何度でも見たくなるのは、舞台になっている古民家に郷愁を感じるから。
横浜市港北区、小机にあった父方の祖父母の家に似ている。
居間からは一段低い土間にある台所、縁側と縁台、簡素な閂のついた木戸。サッシュでないガラス窓。確か、柿の木だったか、縁台から木登りしたこともあった。
風呂場は土間の隣にあり、小さなタイルがモザイクのように壁に貼り付けてあった。
トイレはもちろん汲み取り式。扉の外にバケツがぶら下げてあり、パイプを下から押し上げると水が出る。こぼれた水は洗面器にたまる。
こんなことを思い出したのは、昨日、東海道新幹線が開通した当時のグラフ誌で、1964年の新横浜の風景写真を見つけたから。
小机は、横浜線で新横浜の隣り。戦前から畑と住宅が混在したところで、駅前に商店が並んでいた。新幹線が開業した当時、新横浜あたりは葦やすすきの野原だった。横浜線は運行本数も少なく、車両は山手線のお下がりだった。色は茶で、車両の真ん中にポールが立っていた。私が小学校にあがる1975年時点でも、まだ茶色の電車が走っていた。
小机から八王子に向かって次の駅、鴨居や中山のあたりはほとんど山林だった。未開発だったため、経済成長とともに猛烈な勢いで開発が進んだ。大規模マンションに加えてNECや松下電工といった大企業も事業所を建てた。
一方、小机はというと、すでに街が出来上がっていたため、鴨居や中山のような急速で大型の開発から取り残され、駅前の商店街など、昭和の雰囲気を今も残している。
さくいん:『海街diary』
雑談上手
就労移行支援事業所で「上手に雑談する」というプログラムがあった。目標は「自分が持っている情報を無料でほかの人に提供すること」「場を楽しくすること」「参加者が皆、話に入れるようにお互いに配慮すること」「自然に話題を変え、広げ、深めること」などなど。
真面目にすると「雑談」も難しい。
そのプログラムの中で、勢い余って、これまで誰にも話したことのない秘密をうっかり話してしまった。ところが、不思議と後悔はなかった。
やはり、誰かに話したかったのだろう。ここは、利害関係もしがらみもない場所なので気楽に話せる。
わかってもらえなくてもいい。ただ、聞いてもらえれば、それでよかった。
ここへ来ている人は皆、秘密をもっている、少なくとも、「なぜ、ここに来たのか」という秘密を。そして、ここで秘密を抱えているという秘密を共有している。だから、誰が何を言っても、この場限り。そもそも社会復帰するための準備だから、言葉を「素振り」しているようなもの。
遠藤周作が、告解をする時は、言葉が通じない外国の教会でするとどこかで書いていたことを思い出した。
太平洋戦争中、日本で最大級の軍需工場、中島飛行機武蔵製作所への空襲(1944年11月24日)を題材にした物語。この工場ではゼロ戦の飛行機のエンジンを製造していた。戦後、一時期、米軍住宅となり、現在は武蔵野中央公園と都営住宅、URの団地になっている。
これはB29の大編隊による最初の空襲だった。
戦前の中島飛行機が一般従業員にも待遇がよい優良企業だったこと、最初の空襲の際、工員の移動用に作られた地下街で亡くなった人が多かったこと、工場の外へ逃げることは許されていなかったこと、米軍は事前の空撮で工場の位置を正確に把握していたこと。
子供向けでありながら、武蔵製作所への空襲に関する歴史的事実を網羅している。
武蔵野市に住んでいた頃は、まだ子どもに絵本を読み聞かせていたので、武蔵製作所を伝える絵本を探していた。
本書は、一度廃刊となったあと、2014年に、11月24日が「武蔵野市平和の日」に制定されたことを記念して復刊されたという。
もう読み聞かせをする年齢ではない。娘も息子も、歴史には興味がない、高校の授業にない郷土史はなおさら。私が数学や物理化学にまったく興味がないのと同じように。
それでも、こんな本があることは伝えておいた。
高校時代によく聴いていた音楽。誰かに録音してもらったカセットテープしか持っていなかったので、ずっとCDを探していた。
「NICE! NICE! NICE! 」は2014年に初めてCD化されたらしい。
高校時代のことは、小学校や中学校の頃に比べて記憶が薄い。とくに二年生の夏以降は英語学校と予備校の記憶ばかりで、学校の風景は覚えていない。
でも、「あの頃」聴いていた音楽だけはよく覚えている。
高校に入学したばかりの頃は、いろいろなことに挑戦してみた。数学、読書、部活動、文化祭、ギター、左翼思想、詩、短歌、演劇、グループ交際、デート⋯⋯。
何をやっても、ものにならなかった。だめだった。空回りばかりしていた。
何をしたいのか、何をめざしているのか、まるでわからない。最初の試験がよくできたせいで有頂天になった。勉強をやめると、あっという間に成績は落ちた。
そうなると、何をしたらいいのか、いっそうわからなくなる。理由のない怒りや感傷が身体中から噴き出していた。
高校時代に聴いていた音楽を30年経た今になっても聴いてみたくなるのは、空っぽになっている記憶の器を満たしたくなるからだろう。
聴いてみたところで空っぽの記憶は埋まらない。マドレーヌ現象は起きない。私の高校時代はいつまでも空っぽのまま。
繰り返し見ていて気付いたことをいくつか。
この作品の魅力の一つはこれまで積み重ねられてきてすっかり手垢のついた「湘南」のイメージを一旦捨てて、一から街の魅力を引き出そうとしていること。
八幡宮も大仏も映らない。サーファーもいない。バスケットボールも登場しない。加山雄三も、サザンオールスターズも出てこない。
そもそも「湘南」という言葉が使われていない。「湘南」という言葉で肥大した地域のイメージを「鎌倉」に限定することで、街の魅力を凝縮している。
すずが千佳と同じようにシラス丼をかきこんで食べるのは、父がそうしてたからだったのではないか。
とすると、千佳は父の顔はうろ覚えであっても、食べ方を譲り受けていたことになる、釣り好きなところを受け継いだように。
何度も見てると、長澤まさみの演技が凄い、と思うようになる。次女である佳乃が一番多くの表情を見せなくてはならない役だから。
こんな本はいやだ
本が氾濫している時代には、良書を読むことよりも、まず悪書に手を出さないこと、という格言を聞いたことがある。
以下は、私なりの悪書の基準。当てはまる本は読まないようにしている。中身や作りが安っぽく感じる。
言うまでもなく、この条件は私の独断と偏見によるものであり、普遍的に通用するものではない。
この条件にあてはまる本でも、よい本はあるかもしれない。そういう本は、表紙や売り方で損をしていると思う。少なくとも、潜在的な読者を一人失っている。
- 1. 書名が命令調:小説は別、「風の歌を聴け! 」は可
- 2. 書名が「〇〇力」
- 3. 書名が「バカでもわかる」で始まる
- 4. 帯に、誰某が絶賛、何某が推薦
- 5. 表紙や帯に著者近影:タレント本は別
- 6. 書名が「なぜ」で始まる
- 7. 広告に読者カード:「私のバイブルになりました」「子や孫にも買いました」
- 8. 広告に「必読」
わたしとあたし
女性は自分のことを指すときに「わたし」と言ったり、「あたし」と言ったりする。「あたい」という言い方もあるが、滅多に聞かない。
私は、公の場では常に「わたし」を使う。「あたし」は使わない。ふだんは「オレ」と言っている。
女性は「わたし」と「あたし」を意識して区別しているのだろうか。例えば谷山浩子の歌では「わたし」もあれば、「あたし」もある。
「あたし」は普段使いで、飾り気のない感じ。「わたし」の方が、きちんとしていて、あえて極端に言えば、清楚な響きがある。
奥華子に、「初恋」という歌がある。悲しい歌だけれど、とても好きな歌。この歌では「わたし」と言っている。
もう一つ、好きな歌に「ガーネット」がある。この歌では「あたし」と歌っている。「ガーネット」はアニメ版『時をかける少女』の主題歌にもなった歌。
この歌には「わたし」が似合うと思う。美少女の恋心は「わたし」で歌ってほしい。
「ガーネット」の「わたし」版を聴きたい。
彩図鑑 中島千波の世界、郷さくら美術館、東京都目黒区
先週は忙しい週末になった。
金曜日、就労移行支援事業所のプログラムを終えてすぐ退出した。ふだんは弁当を食べながら、ほかの利用者とおしゃべりをして、午後の部が始まる前に退出する。
中目黒で中島千波の桜を描いた作品展を見た。彼の名前と花の作品が多いことは、父である中島清之の展覧会で知った。
屏風一面に広がる桜の花。一つ一つが丁寧に描き込まれている。清之の竹林を描いた大画面の作品でも緻密な仕事に感心した。よほど集中力がなければ、これほどたくさんの花びらを描くことは出来ないだろう。
目黒川の桜並木を描いた作品があった。赤い色の「なかの橋」が桜の渦に巻き込まれている。目黒川沿いを歩いて通勤していた頃を思い出した。辛いことが多い時期だったけどきれいな写真が一枚残っているだけで、いいこともあったような気になる。
過去の事実は変えられなくても、過去の見方は変えられる。
金曜の夜は、両親の家に泊まった。今月は二回目。
深夜、一人で酒を呑みながら、また、『海街diary』を見た。見るたびに発見がある。今回は、長澤まさみの演技に眼を瞠るものを見つけたので22日の箱庭に追記した。
DVDを買ってよかった。
土曜日は雨だったのでずっと家にいた。前の晩に夜更かしした分、ほとんど寝ていた。
スコットランド民謡の調べにのせて - 「ひろいかわのきしべ」展、葉祥明美術館、神奈川県北鎌倉
先週末、日曜日は快晴。バスで鎌倉駅まで行くと、駅前には大勢の人。ところが、一駅乗って北鎌倉で降りると、観光客はいても、混雑というほどではない。ゆっくり円覚寺と東慶寺で梅見を楽しんだ。右端の写真は東慶寺で見た紅梅。こんなに真っ赤な花は初めて見た。
北鎌倉には葉祥明の美術館もある。前から行きたかった。
今回は、”The Water Is Wide”の和訳絵本『ひろいかわのきしべ』の原画展を見た。葉祥明の絵は物語よりも詩に似合うように思う。
“The Water Is Wide”は、図書館でこの絵本を見つけたときに知った。朝ドラ『マッサン』に挿入されていたことは後から知った。
“The Water Is Wide”はとてもいい詩。
ただ、訳には気になる点がある。
八木訳は、“She's loaded deep as deep can be
”を「ふたりの舟は 沈みかける / 愛の重さに 耐えきれず」としている。これでは愛は川底に沈んで破局を迎えてしまう。冒頭にあり、最後に繰り返される希望をこめた言葉につながらない。
ネットを歩いて、翻訳家のladysatinさんが主宰するサイト、“Lady Satin's English Project”を見つけた。このサイトには、以前、Sting, “Fileds of Gold”の解釈も教わったことがある。
こちらは、“She's loaded deep as deep can be
”を含む節を「船が海を渡っていきます / 荷を積んで深く / これ以上にないほどに深く / でも私の愛の深さには及ばない」としている。これなら人生の苦難も愛の深さに及ばない、という解釈になる。
その解釈に続いて、最終節の“Give me a boat that can carry two / And both shall row, my love and I”に素直につながる。
葉祥明は水彩画だけでなく、本格的な油彩画もたくさん描いている。今回は、油彩画を間近で見ることができて満足した。
写真は、円覚寺山門、円覚寺舎利殿、東慶寺の紅梅、東慶寺のさざれ石。
2016年3月8日追記。
“The Water Is Wide”を収録したアルバムを2枚、Karla Bonoff, “Restless Nights” (1979)とJames Taylor, “New Moon Shine”(1991)を借りてきた。どちらも、とても良い。苦難と愛と希望がよく表現されている。
昨年、“The Nearness of You”を聴いて、James Taylorの歌声に心を動かされた。
若い頃、Paul Simonはよく聴いていた一方、James Taylorは素通りしてしまった。ほかの曲も聴きなおしてみたい。
何でも病気のせいにしない
今月、二度目の診察。
最近の状態をS先生に伝えた。
生活は規則正しく、よく眠れています。
朝は爽やかな気分で、就労遺構支援事業所へ出かけています。
でも、夕方には疲れてしまいます。これも病気の症状でしょうか。
S先生は、微笑みを浮かべながら答えた。
朝、元気で、一日の終わりに疲れるのは正常な証拠ですよ。
言われてみれば、その通り。どうも、何でも病気のせいにする癖がついていたらしい。
4月から就職活動を始めて、傷病手当金の給付が終わる6月までに就職先を決めたいと言ったときにも、反対はされなかった。これまでは、何か始めようとすると「ゆっくり、慎重に」と、むしろ先延ばしすることを提案されることが多かった。
「快方に向かっている」と初めてはっきり言ってもらえたので、素直に喜んだ。
無職なのに忙しい
無職なのに忙しい。
読みたい本、行きたい博物館、見たい展覧会、見てみたい風景がたくさんある。家族でもう一度行きたい場所もある。
「したいことがある」ということは生きがいを見つけられた、と言っていいだろうか。「快方に向かっている」というS先生の言葉も好調を裏付けている。
こんな風に暮らしていけたらいいな、と思う。でも、こんな暮らしを続けるためには、働いて稼がなければならない。
「働きがい」が見つけられるかどうか、それはまだわからない。それでも、必要性からとはいえ、「働く」ことに目が向きはじめたのはよい兆候だろう。
不思議なもので、去年の今頃は、死に場所を探していたのに、いまは働く場所を探している。