11/1/2020/SUN
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ここ数ヶ月で動きは見られない。
『未来少年コナン』の再放送も今週で終わり。来月には変化が出るだろう。
面白いのは最終回の感想を読んでいる人がたくさんいること。何度も見たことのある人が放映を先取りして読んでいるのか。
ここ数ヶ月で動きは見られない。
『未来少年コナン』の再放送も今週で終わり。来月には変化が出るだろう。
面白いのは最終回の感想を読んでいる人がたくさんいること。何度も見たことのある人が放映を先取りして読んでいるのか。
昨日は母の85歳の誕生日だった。去年は台北のホテルで祝った。
今年は台北でも行った飲茶の店の横浜支店に親族8人が集まり、お祝いした。
そのまま一人で帰すのも気の毒なので、有給休暇を取って私が実家に一白した。
とくにすることもないので、父が録画していたテレビ番組を漁っていると、2006年に放映されたNHKの番組「世界遺産 フランス縦断 総集編」を見つけた。
番組は、住吉美紀アナウンサーが美術評論家の伊藤順二とセーヌ河をエッフェル塔の前からシテ島のノートルダム大聖堂まで河岸の景色を撮しながらクルーズした。
アレクサンドル3世橋、ポン・デザール、ポン・ヌフ、オルセー美術館、ルーブル美術館、そして、シテ島。
焼失した聖堂のありし日の壮麗な姿を見ることができた。ノートルダムは「パリ市民の心の支え」と伊東は解説していた。
ノートルダムのそばに長く暮らした森有正はさらに踏み込んで書いている。
「促し」から「冒険」を通して真の「経験」へ、これが今の私には「思想」に到る唯一の道であるように思われる。そういう道程において、ノートル・ダムは、それ自体において、一つの思想であり、私にとっては一つの機縁になったのである。(カッコは原文では傍点)
「遥かなノートル・ダム」『森有正エッセー修正3』
いま、フランスはコロナとテロで揺れている。「心の支え」を失ったパリに穏やかな日が戻ることを願う。
パリには二度行ったことがある。母も父と何度か旅している。パリ旅行の昔話にしばらく耳を傾けた。
写真は贈った花束を母が生けた花瓶。
まともな会社員が務まらずに、会社社会から放り出されたときグレなかったのはなぜか。周囲の助け。それが一番大きい。家族、医師、保健センター、就労移行支援事業所、ハローワーク。多くの人の支えのおかげで「ガラスのように壊れそうだった」私は、再就職できるまでに回復した。
でも苦境は続いている。まだ闇から抜け出せたわけではない。
プライドは傷つき、収入は激減し、働きがいもなく、職場には雑談をする同僚もいない。
最も苦しかった時期に比べれば、生活も収入も、心も身体も安定している。それでも、ときどき強い不安にかられたり、自暴自棄になりそうになる。
朝ドラ『エール』。戦後、闇を彷徨っていた佐藤久志は歌の才能があったから復活できた。
私に立ち返る原点のようなものが何かあるだろうか。再び立ち上がり、身を立てる何かを持っているだろうか。
確かに英語だけは多少周囲よりも秀でていた。そのおかげで米系企業で18年間働くことができた。そこには自負がある。
私に取り柄があるとすればそれしか思いつかない。
英語力をもっと磨くべきか。英語で何ができるか。そこに今の苦境を抜け出す光明があるのか。わからない。
ちょうど、Linkedinから「障害者 英語」のタグが付いた求人票が届いた。
失うものは何もない。応募してみるか。
アメリカの大統領が誰になるかで世界のさまざまな情勢が変わる。
国際貿易、安全保障、温暖化対策、などなど。
それなのに、投票できるのは米国民だけ。
国民がその国のトップを選ぶ。
これが民主主義の最終型なのだろうか?
せめて選挙運動に参加できないものか?
そうすると仮想敵国が絡んでもっとややこしくなるか。
今はむしろ、いかに外国からの撹乱を抑え込むかということが課題になっている。
とすると、住んでいるアメリカ国民が大統領を選ぶ、という形がやはり最善なのか。
さくいん:アメリカ合衆国
完全に見誤っていた。
投票結果を見ると、両端の青と真ん中の赤。きれいに分かれている。
これがアメリカの「今」なのか。
そう受け止めるしかないのか。
選挙が終わっても、大統領が決まっても、米国の根深い分断はこの国を苦しめるだろう。
今は朝の6時。現時点で開票が終わっていないのは、いくつかの激選州のみ。まだどちらに転がるか、わからない。
今さら私が解説するものではないが、ラストベルトの経済不況はよほど深刻らしい。
思い出せば、Billy Joelが"Allentown"を歌ったのが1982年、Bruce Springsteenが"My Hometown"を歌ったのが1984年。
80年代に鉄鋼産業の斜陽化はすでに深刻だった。あれから40年。それだけ不況が続けば、内向き、保守化が進むのも理解できないことではない。
以前、『美少女の美術史』という画集を読んだ。アニメのキャラクターまで網羅したその本に比べると正統派の美人画特集。
印象に残ったのは、日本画の森本純「撫子」「貸傘」と「制作年代不詳に思えるほど濃密レトロな作風」の尾崎慶子。「めぐりあう3」「めぐりあう5」「帰れない3」「返信」。
尾崎の作品は今見ている朝ドラ『エール』に登場する戦後すぐの女学生の雰囲気と重なる。
どちらも今まで見たことのない作風で新鮮に感じた。
とはいえ、My Best 美人画は今のところ山本大貴で変わらない。
先週末に録画しておいた映画を観た。トム・ハンクスとメグ・ライアンのコンビでは前に『ユー・ガット・メール』も観ている。監督も一緒だったことに今回気づいた。
いい話だった。2作品ともさりげない終わり方がいい。映画はあまり観ない方だけど、この2作のラブ・コメディはなぜか心に残る。なぜだろう。
メグ・ライアンがキュートで、トム・ハンクスはおおらか。肩肘の張らない物語は休日の午後にちょうどよかった。『テネット』のときとは違い、今回はすべての伏線が理解できた。映画リテラシーの低い私は、こういう、わかりやすい作品を入口にするのがいいのかもしれない。
『めぐり逢えたら』、最後の場面はニューヨーク、エンパイア・ステート・ビルの展望台。柵があるだけで吹きさらしになっている。30年以上前、一人で行った旅を思い出した。
『めぐり逢えたら』は、場面と音楽が連動していてちょっとミュージカルの趣きもある。『ユー・ガット・メール』はキャロル・キングが歌う主題歌"Anyone at All"もいい。
『ユー・ガット・メール』は主題歌がいい。その一方で、『めぐり逢えたら』にはジョナの存在が光る。甲乙はつけがたい。
いい映画がたくさんあることは知っている。いつも2時間まとまった時間を取るのが億劫でなかなか観ない。観れば楽しいとわかっているのに。
さくいん:ニューヨーク
早朝、当確を知った。正直、ホッとした。このまま平和裡に政権移行が進むことを願う。
実家で寛いでいたので、バイデンとハリスの勝利宣言演説をじっくりと聴いた。かたや長年上院議員を務めた民主党の重鎮、かたや移民二世から州検事になり、瞬く間に上院議員まで駆け昇った、政治家としてはまだ若い五十代の黒人女性。二人とも、熱のこもったいい演説だった。
印象に残ったバイデンの言葉。
The Bible tells us that to everything there is a season – a time to build, a time to reap, a time to sow. And a time to heal. This is the time to heal in America.
聖書の「すべての業には時がある」(伝道の書)を念頭においた言葉だろう。
印象に残ったハラスの言葉。
When she (my mother) came here from India at the age of 19. She maybe didn't quite imagine this moment. But she believed so deeply, and in America, where a moment like this is possible. And so I'm thinking about her, and about the generations of women, black women, Asian, white, Latina Native American women who throughout our nation's history have paved the way for this moment tonight.
黒人女性初の副大統領としてすでに威厳のある姿だった。高齢で健康面で不安も拭えないバイデンを支える彼女は非常に重要な責務を果たすことになるかもしれない。
オバマが大統領になったときにも思った。移民の子が政権の中枢に入れるアメリカには、やはり多様性と可能性がある。
可能性を支える多様性は、裏に返せば、分裂・分断の亀裂にもなる。多くの解説者はアメリカ社会の分断状況は続くだろうと予測している。その懸念に異議はない。
それでも、協調路線をとると思われる次の政権のおかげで国際社会が安定に向かうことを期待している。中国の人権問題、香港問題。パレスチナ・イスラエル問題。北朝鮮の核と拉致被害者の問題。イラン問題。温暖化対策。
楽観的過ぎるかもしれない。今日くらい、少し明るい未来を夢見てもいいだろう。
明日からは険しい道を歩いて行くのだから。
さくいん:アメリカ合衆国
米大統領選挙は稀に見る大接戦だった。メディアはこぞって「アメリカの分断」を強調している。
それでは、日本社会は分断されていないのだろうか。
私は菅政権を支持していないし、自民党も支持していない。私が好んで選んで、Twitterでフォローしている人たちは同じ考えの人が占めている。
ところが、報道によれば菅政権の支持率は50%以上あり、自民党の支持率も40%近い。
今回の大統領選挙についても、日本でトランプを支持している人が意外に多いことをTwitterで知った。
日本の子どもの7人に1人は貧困状態にあると言われている。経済格差は縮小せず、むしろ教育格差の広がりに影響を与えている。
日本社会も、米国社会のように選挙の数字には表れてはいないものの、分断・分裂していることは否定できない。
次期大統領、バイデンは国内の融和と団結 (healing and unifying) を訴えている。
日本に、融和と団結を呼びかける指導者はいるだろうか。
写真は、つるべ落としの秋の夕陽。今まさに落下するところ。
在宅勤務を終了して17時過ぎに家を出ると、すでにとっぷりと暮れている。まずは近くの公園へ。
最近の公園には子ども向けの遊具だけでなく、大人向けのトレーニング器具がある。ぶら下がり棒につかまり懸垂を数回。十代の頃は、何十回とできたのに今は数回で精一杯。
住宅地を抜けていつもの原っぱ公園へ。ジョギングする人、懐中電灯でボードゲームをする人、カードゲームをする子どもたち。子どもは風の子、薄着でも平気な顔でゲームに熱中している。公園の脇にある高校の教室が明るい。部活動も再開しているのだろう。管楽器の音が聴こえる。
最近早歩きを始めた。3分ほど高速で、そのあとゆっくりインターバル。これを繰り返して歩く。この歩き方がダイエットに効果があると聞いた。帰宅すると、お尻の付け根と太ももに心地よい疲労感があった。
公園からの帰り道。近未来的な建物に遭遇した。最近、改築されたらしい。
広い階段はちょっとした野外劇場の趣き。建物のデザインは直線を基調にしている。壁面を覆う格子からもれてくる光が未来的な雰囲気を生み出している。
ここは何かを製造している工場ではない。ここは清掃工場。ゴミを燃やしている。
毎週水曜日、『刑事コロンボ』の再放送を見ている。
70年代のテレビドラマで、DVDも販売されているのに、これだけ何度も再放送をするのはよほど人気があるのだろう。
我が家ではこれまでの再放送も何度も見て、DVDも持っているのに、再放送があるとつい見てしまう。『未来少年コナン』と同じ。
平成生まれの子どもも何度も見ているので、すっかり「マニア」になっている。
先日放映された「5時30分の目撃者」。見ている途中で娘が帰宅した。するとテレビを見るなり目を輝かせた。
これ、この人が見えるはずない!って犯人が叫ぶヤツだよね?
お見事。
お見事なのは娘だけではない。70年代のドラマを台詞を覚えるまで見せた私たち、70年代育ちの両親。
『コロンボ』と『コナン』以外にも、教え込んだ「70年代カルチャー」は数えきれない。
キャンディーズ、ビリー・ジョエル、『銀河鉄道999』、『ブラック・ジャック』、『奥さまは魔女』、『ドカベン』などなど。
子どもたちに装着した「70年代」養成ギプスは、しっかりと彼らの心身の一部分となってくれたとみえる。
本当にお見事なのは、40年もの歳月を経ても色あせない作品たちだろう。平成生まれの人たちも魅了する力が作品になければ、どれほど親が押しつけても「マニア」になるほど好きにはなるまい。
見方を変えれば、テレビ番組やコミックは、すでに主流の下を流れる"サブ”カルチャーではなく、受け継がれていく「伝統」「古典」となっている、と言えるかもしれない。
さくいん:『刑事コロンボ』、『未来少年コナン』、ビリー・ジョエル、『銀河鉄道999』、『ブラック・ジャック』、70年代
図書館で「3月号 - 特集:美人画」と一緒に借りてきた。
東京に住んでいることは本当に恵まれている。私が積極的に美術館へ行くようになったきっかけは松濤美術館で見た「小林秀雄 美を求める心展」。2002年の秋。それ以降、美術館・博物館のおかげで、どれだけ心豊かな時間を過ごすことができているか。
この美術展を見たことが、『庭』をはじめるきっかけにもなった。
とくに心に病を得てからは、美術館を訪ねることはいつも癒しと慰めになっている。
まだ行ったことがない、行ってみたい場所をメモしておく。
掲載されている美術館のなかでも、私のお気に入りの3館。
行けばホッとして疲れも取れる「行きつけの美術館」。
月に一度の診察日。好天に恵まれたので、診察のあと、近くの公園を散歩した。
陽だまりのベンチに座り、何も考えず、しばらくぼんやり過ごした。
This is natural mindfullness.
正午に旧知の友人と待ち合わせて公園脇のイタリア料理店で忘年会。家が近いのに先方が多忙なためになかなか会えず、久しぶりの会食。
"Go To Eat"を利用してちょっと贅沢なランチ。昼からワインを開けるのも快い。
家族の近況から大統領選、良書の選び方、内陸に住むと海が恋しい、小林敏明は深い、今読むべきはベルクソン、という話まで。あれこれと話題が弾み、雑談を楽しんだ。気の置けない友人とはつくづくありがたい。
帰り道、雑貨屋の並ぶ商店街の喫茶店でコービーを一服。二人とも神奈川県の出身なので、県民談義にも花が咲いた。
ランチの忘年会というのも健康的でいい。とくに今日のような陽射しが穏やかな日には。
さくいん:ベルクソン
またしても体罰事件。いや、体罰という言葉は生ぬるい。はっきりと教員による暴行事件と書いておく。容疑者は「指導の一環」と開き直っているらしい。許しがたい。
どうして学校で、教員による暴力事件が後を絶たないのか。不思議でならない。
ふと、考える。
こういう報道を見聞きして、40年前、好き放題に生徒を殴っていたあの教員たちはどんな感想を持つのだろうか。少しは「悪いことをしていた」と反省の気持ちはあるのか。
それとも「あの頃はあれでよかった」とか、「指導の一環には必要」と今でも思っているのだろうか。
もう二度と会いたくはないが、心の内は訊いてみたい。
鉄道の駅には「暴力は犯罪です」と大きなポスターが貼ってある。
学校にも同じポスターが必要。「いじめは犯罪」というポスターの隣りに。
さくいん:体罰
運動を兼ねてちひろ美術館まで歩いた。ここは企画展があってもなくてもときどき出かける「行きつけ」の美術館。
企画展は「子どもの心を見つめて いわさきちひろ展」と「ちひろ美術館コレクション 絵本の世界を飛び出して」の二つ。
子どもの絵では、『戦火のなかの子どもたち』の「たたずむ少年」が印象に残る。肉親を失ったのか、家が焼かれたか、悔しさとさびしさをこらえて立っている。焼け跡に力強く屹立する松本竣介「立てる像」を思い出した。
もう一つの企画展では絵本「ジョットという名の少年」の挿絵を三つ折りにした祭壇画が美しい。優れた宗教画家の生涯が宗教的な枠に収められていて、原作の持つ厳かな雰囲気が引き立つ。
朝早く行ったので人影はまばら。図書室では一人だった。
子どもが小さいころによく読み聞かせた『あめのひのおるすばん』『もしもし おでんわ』『あかちゃんのくるひ』を読み返した。
気が早いけど「クリスマス」のプレイリストをiPhoneに入れた。
今年新しく入れたのは、Pentatonix。
定番は、木住野佳子、Stevie Wonder、Musica Sacra、Manhattan Transfer、Café Après-midi、Windham Hill、栗コーダーカルテット、Celtic Woman、Ramsey Lewis Trio、ゴンチチ、Tatsu Yamashita、友枝小学校、David Foster。
ずっと探していた本にようやく巡り合ったような気がする。
親でなくても身近な人を失くした経験、とりわけ若い頃に死別体験のある人にとって有益な一冊。
本書を見つけたのは、図書館の心理学の棚。監修者がグリーフケアにも力を注いでいる宗教学者、島薗進だったので、興味を持ち借りることにした。島薗の著作『ともに悲嘆を生きる グリーフケアの歴史と文化』は読んだことがある。
帰宅してまず、解説、訳者あとがき、監訳者あとがき、それから、「はじめに」と題された前書きを読んだ。この本は私のために書かれた本ということを確信した。「はじめに」にある「親との死別後の経験に関するセルフチェック」にある25の質問を読んだ。25項目すべてに思い当たる節があった。そのような読者に対して本書は提案する。
これから数日間、予定していたあらゆることを中止して、ひとりになる時間をなんとか作ってください。そして、この本を読んでください。きっと物事を良いほうに大きく変える助けになるはずです。あなたのまわりの方たちとの人間関係が良いものになるかどうかは、あなたの自分自身との関係が、どのようなものなのかにかかっています。そして、あなたにはまだ手付かずのままになっている、とても大切なあなたの一部があるはずです。
この言葉も私に宛てて書かれたように思う。
“Never the same”という書名に著者の思慮深いメッセージを感じる。
死別後、周囲の大人は「何も変わらない、今まで通り」と取りつくろい、説き伏せようとする。もう何もかも、今まで通りではないのに。
その痛みに寄り添ってほしいのに。
本書は買って読むことにした。急いで読みたいのでネット書店に注文をしたところ。時間をかけて熟読し、提起されている課題を試してみようと思う。
本書の感想は、よく考えて来年2月にその時の気持ちと合わせて書く。
先週末、馴染みのライブハウスへ行った。
店は10月末まで配信ライブだけで営業していた。非常事態宣言のときにはクラウドファンディングには協力したけれど、配信ライブは見ていない。
11月に入ってから、金曜日か土曜日、週末だけ店を開けて客を入れるようになった。先週末は再開後、3回目の営業日だった。
店内はほぼ満席だった。実際、予約の電話をしたときも「いつもの席」は埋まっていた。ただ、店内を見渡すと、来ている客は常連客ばかりということがすぐわかった。
誰かに誘われたり、どこかで噂を聞いて初めて来たり、2軒、3軒とはしごして飛び込みで来たような人はいなかった。客は皆、ステージがはじまる前に来店して席に座っていた。そのあとで入ってきた客はいなかった。
クラウドファンディングで協力し、配信ライブも視聴して店を支援し、店が開けば来店する常連客は確かにいる。でも、それだけでは店は続かないだろう。
感染の第三波に襲われている今、ライブハウスも苦悶苦闘している。
私にできることは店に行くことだけど、そう頻繁にはできない。
何とか生き延びてほしい、と願うしかない。
そんなことを考えていたので、今ひとつ、弾けて楽しむことができない夜だった。
さくいん:ケネディハウス銀座
本の感想文に書影をつけることにした。
左のサイドバー、書名の下の空間に高さ240ピクセル、幅はオリジナルのサイズに合わせ、イメージを埋め込みはじめた。
MacのChromeでは問題なく表示される。書影がつくと、いっぱしの商業ブログっぽい。
夕方、リビングでiPadを開いてみて驚いた。
書影が本文に重なっている!
MacのChromeでも、ブラウザの表示幅を狭くしていくとあるところで書影と本文が一部分重なる。それを過ぎて狭めると書影は本文の上に来る。
iPhoneでは最初から書影は上に来る。
さて、どうするか。閲覧者の環境をGoogle Analyticsで調べてみた。
デバイスカテゴリを見ると、スマホが5割強、デスクトップが4割弱、残りがタブレット。OSはiOS, Windows, Androidでほぼ3割ずつ。モバイルデバイスで見るとiPhoneが5割強、iPadは5%程度。
分析結果から見ると、タブレットで閲覧している人は非常に少ない。
そこで結論。書影のサイズは現行のままにする。タブレットでも横向きにすれば、書影と本文は重ならない。
賃金労働者でさえ16年で挫折してしまった私がこんなに長く続けているのは"書くこと"と結婚生活くらい。
学生生活は小学校から数えると18年した。そう思うと人生の中で学校生活は長い。それと同じくらい、書くことを続けてきた。
18年前に『庭』を始めたときには、こんなに長く続けられるとは思ってもみなかった。
日記も、何をしたかを書くだけのメモも、長く続いたことはなかった。
文章を書くきっかけをくれたのは小林秀雄。松濤美術館で「小林秀雄 美を求める心」展を見て全集を読みはじめた。
それまで持っていた「高踏を気取った作家」のイメージが崩れて、考えたことを書くことの楽しさを教えてくれた。
あれから18年。
人生も文章も、思いもよらない方向へ進んでしまったけど、書くことの楽しさだけはいい方向に進んでいる。
さくいん:小林秀雄
降誕節がはじまった。クリスマスソングも聴きはじめたし、聖夜の雰囲気が増してきた。
信徒でもないのに、聖書は何冊も持っている。旧版の共同訳聖書、結婚式で牧師に頂いた新約聖書、最近買った新版の聖書、子どもが幼稚園でもらったポケット版の新約聖書。これ以外に英語版とフランス語版もある。『アートバイブル』という本も持っている。
有名な聖句を見聞きしたときには日英仏語で確認して蛍光ペンを引いている。
旧約聖書は思い出したときに、パッと開いたページを読む。その日から続けて一つの章が終わるまで続けて読む。全部を通読したことはない。読んでいる本で聖書から引用があればその章を読む。
新約聖書は一通り読んだ。読み方を教わったので「マルコ」は繰り返し読んでいる。
生誕の逸話は「ルカ」に詳しい。この季節に必ず読む。外典にある「ヤコブ原福音書」はマリアの生誕まで遡っていて面白い。スルバラン「聖母マリアの少女時代」を思い出しながら読む。
クリスマスの場面を読むと幼稚園で子どもが演じた聖誕劇を思い出す。もう20年近く前のこと。なつかしい。
長い時間が過ぎたとしみじみ思う。