島薗進は宗教社会学の泰斗。何年か前に『日本人の死生観』を読んだことがある。本書はその続編にあたるという。
「グリーフケア」を学ぶ人にとっては格好の入門書。選書とはいえ、参考文献も掲載されていてかなり専門的。特にグリーフケアにおいて宗教的、スピリチュアルな側面の重要性を説く第2章とグリーフケアの理論の歴史をまとめた第3章は、著者が持つ膨大な知見が凝縮されていて読み応えがある。
私個人の感想を書くと「ともに悲嘆と生きる」という副題から予感していた通り、本書の内容は私の期待していた「悲嘆とともに生きる」ではなく、いささか当てが外れた。これが正直な感想。これについては最後に書く。
「悲嘆」を通じて現代社会で失われてしまった人々のつながりを再生する。宗教者はその仕事に大きな役割を果たす。既成宗教が形骸化した現代にあっても、人々はスピリチュアルなケアを求めているから。著者はそのように考えている。戦後、「民主主義」を旗印に社会の再構築を模索した昭和の知識人たちのように。
悲嘆のなかにある孤独な個々人がどのように気持ちを分かち合う場や関係をもちうるのか、これを問うことがグリーフケアの主要な課題となっていることがわかるだろう。グリーフケアは個々人の心に分け入っていく「この世界の片隅」の事柄であるとともに、共生のあり方を問う倫理学的、社会貢献的な企てでもある。
(第7章 戦争による悲嘆を分かち合う困難)
日本には「悲嘆」を通じてきずなを深める宗教的な文化とその歴史がある。死者とのつながりを保つ盆や法事がそれにあたる。それを基にして現代で積極的に活動する宗教人たちもいる。
「悲嘆」を通じて人と人とのきずなを深め、「悲嘆をともにする新たな文化や社会性」を再構築する。それはけっして夢物語ではない。著者が紹介する多くの事例が実現性の高さを物語っている。
事故や震災など集団で同時に悲嘆を抱えた人たちの間ではそうした機運が高まっている。
その一方で、事件や自死で残された人たちは、一部の自助グループを除いて孤立している。集団で被害を受ける事故や災害と違い、犯罪や自死は死別そのものが個人的な体験だから。なかでも自死による死別体験はいまだに偏見の目で見られることもあり、宗教的には大罪とみなす見方も依然としてある。
犯罪被害者や自死遺族は悲嘆を分かち合うことができるのか。絆を構築できるのか。私の思考はそこで立ち止まってしまう。
著者も現代社会において悲嘆のあり方は個人によりさまざまであり、容易に社会性を持たせることの難しさは承知している。
現代社会では個々人がが置かれた立場が異なり、どのような死別や喪失であるにせよ、まずは孤独な悲嘆に苦しむことを当然と考えてよいような社会環境が広まっている。多様性を意識し、異なる個人同士という前提をさしおいて、悲嘆の共同性をよびさまそうとしても無理がある。お互いの悲嘆が胸に閉じ込められてしまう孤独を避けられないことを踏まえて、悲嘆に向き合うことが求められている。
(第7章 戦争による悲嘆を分かち合う困難)
悲嘆は個人的で孤独な体験。"だから"分かち合えない、とみるか、"それでも"歴史と文化の遺産と新しい試みを見れば悲嘆を通した共生が可能である、と考えるか。楽観的ではないにしても希望を込めて著者は本書を締めくくっている。
私と著者の意見はそこで分かれる。
ここから先は本書とは直接関係のない、私のつぶやき。
最近、ある決心をした。リアルな世界で自分の悲嘆は語らない。
私が抱えている悲嘆はあまりにもこじれていて、また長らく封印されていたために、いまとなっては涙でも言葉でも発露することができないほど凝り固まっている。
溶け落ちた核燃料の欠片にはもう誰も手で触れることができないように、私の悲嘆でありながら、それに触ることは私にさえできない。
このような心境を「複雑性悲嘆」と呼ぶのだろうか。そうかもしれない。しかし、見方を変えればむしろ単純に見える。私が複雑な悲嘆を抱えているのではなく、ただ一つの悲嘆が私の全身を包み込んでいるのだから。
「悲嘆とともに生きる」ところから「ともに悲嘆と生きる」ところへ少なくとも今の私は進むことはできない。
リアルな世界で私の悲嘆を語ることはない。誰かと分かちあえると思っていないし、誰とも分ち合いたくない。私だけの秘密にしておきたい。
その代わり、『庭』では少しずつ私を包んでいる悲嘆について書いていきたい。ここだけがそれを許された場所と思っている。
すでに『庭』をはじめた頃には書けなかったことを、第五部からは書いている。私にとってグリーフケアはセルフケアであり続けるだろう。