4/29/2017/SUN
自死は、向き合える――遺族を支える、社会で防ぐ、杉山春、岩波ブックレット、2017
『自死は、向き合える――遺族を支える、社会で防ぐ』(杉山春、岩波ブックレット、2017)
— 碧岡烏兎 (@uto_midori) 2017年9月1日
著者は熱意をもって正直に書いている。
私も私なりに、熱意をもって正直に感想を書いた。https://t.co/39vyRQMsAx
書店でもらった岩波書店の新刊案内で知った。高い本ではないので買って読んだ。
自死や自死遺族の問題について、関心を持ちはじめた人には格好の書かもしれない。複雑で根深い問題が整理され紹介されている。
本書は、一度でも自死を意識したことのある人や自死遺族向けではない、と思う。
それは、いくつかの点で自死遺族への配慮が不足していると思わないではいられないから。
著者は四年前に友人を自死で失くしたと「まえがき」を書き出している。ところが、その後、同じ「まえがき」の終わりで次のように書いている。
自死とは、人とのつながりを失い、社会という居場所から、死という形でこぼれ落ちてしまう現象だ。
「人とのつながりを失い」という言葉は、蜘蛛の糸のような細いつながりを頼りにして信じていた遺族にとってかなり厳しく辛い。
そして、4回の雑誌連載とそれを加筆して本書を書き上げたときの心境が続く。
四回の連載をめぐってそのような思考を積み重ねる中で、(筆者注:友人を失くしたときに感じた)私の中の黒々とした塊は、徐々に溶けていった。友人をただ、悼むことができるようになった。
改めて命を客観的な社会の中に位置づけることが、悼むことだと思ったのだ。
自死は「公認されない死」とも言われる。自死した者について誰も話さなくなり、遺品は片付けられ、まるで初めからそういう人はいなかったように扱われる。そういう場合も少なくないと聞く。かつてキリスト教圏では自死は大罪で墓に入れてもらうことも拒まれた。
いまも家族に自死した者がいたことを秘密にしている人もいる。確かにその死は、「客観的な社会の中に」位置付けられてはいない。自死者の生きた証しを残すことが求められているという著者の主張には共感する。
このあと、本文では経済的に、また社会的に、長く辛い体験を持つ自死遺族を紹介していく。その重苦しい調子と「まえがき」のさっぱりした感じとはどこかずれている。
4年間で悲嘆を解消できた人に対して、多くの自死遺族はため息まじりに「よかったですね」と言い返すしかないだろう。
それが著者の正直な気持ちならば、その気持ち自体を責めるつもりはない。自死遺族のなかにも、長く苦しまない人もいるに違いない。ただ、そうではない人が圧倒的に多いことを提起する本書の意図と上の一節は矛盾する。
著者は「命を客観的な社会の中に位置付けたい」と述べている。であれば、客観的なルポルタージュに徹し、正直な気持ちであっても自分の体験は書かないほうがよかったと思う。
前半で自死遺族が抱えるさまざまな問題を提起したあと、後半は自治体や民間団体が行っている、さまざまな自死の予防策が紹介されている。
そのなかで印象に残ったのは、著者が参加したあるセミナーで聞いた言葉。
「自殺予防とは、その人の自由を回復することなんですね」
確かに、「生きるか死ぬか」の二者択一から「死ぬしかない」という選択をしてしまう視野狭窄は自死の直接の原因と言える。「死ななくてもいいか」と思うことができれば、前向きでなくても、活動的でなくても、死を選ばずになんとか生きていくことができる。
そういう気持ちにさせるのは、身近な人の些細な言葉や仕草であったり、毎日見ているはずの当たり前の風景だったりする。それを方法論として具体化するのはきっと難しいことだろう。精神科医の春日武彦も、最後の一線を超えないように思いとどまらせる魔法の言葉はないと書いている。
私が心配しているのは、予防策が機能しないことではなく、「死んではいけない」という標語が今、「死にたい」という希死念慮と向き合っている人たちや、長いあいだ苦しんでいる遺族を更に苦しめることにならないか、ということ。
希死念慮は「死にたい」という行動的な気持ちではない。「もう死ぬしかない」「自分には生きる価値がない」。そんな風に思うほど、ほかに逃げる場所も見つけられずに追い詰められた心境。
「死んでしまいそう」なほど苦しんでいる人が「死にたい」と言える場所さえも見つけられなかったら、もう本当に死ぬしかなくなってしまう。
自殺予防の活動をしている人たちの目標は、「一人でも自死を減らすこと」であってほしい。「自死は、必ず防止できる」「この街での自死をゼロにする」といった強い調子の標語にすり替えられてほしくない。
自死を完全に予防できる社会は、全員が皆勤賞を目指す学級に似ている。
一人の落伍も許されない。インフルエンザに罹っても学校へ行かなければならない。そこでは目的と行動が本末転倒を起こしている。
死にたくなってしまった人を救うはずの社会が、死にたいという気持ちさえ表に出せなくなってしまっては、これも本末転倒だろう。
さらに言えば、「完全な防止」を目指す社会で自死が起きてしまったら、遺族になった家族は、友人は、どんな気持ちになるか。
あれだけ予防策が行き届いているのに、なぜあの家では自死する者がいたのか?
すべての自死が防止できるのなら、なぜあの人をとめられなかったのか?
今以上に過酷な蔑視や重い自罰感が待ち受けていることは想像に難くない。
なぜなら、自死はもうそこではありえないことで、あってはならないことになっているから。
この点は、小泉義之が『現代思想 2013年5月号 特集=自殺論』(青土社、2013)で指摘していた。
自死を予防する立場と遺族を支援する立場("prevention", "postvention"、事前事後とも言われる二つの立場)はまったく正反対で、これらを同じ場所で論じること自体、矛盾をはらんでいる。二つのテーマは別の本で論じた方がいいのではないか。
だから、自死の予防策を進めると同時に、防止運動にも、社会全体にも「止められない自死もある」、という風穴を開けておく必要があるように思う。
「全員で皆勤賞を目指す学級」が楽しい場所になるとは思えない。
それでは、人には自死する権利はあるのか。その問いに私はまだ答えられない。ただ、自死は防止できる、と言い切ることにはためらいがある。