冬の午後の空

本書のことは前から知っていた。出版された頃、御茶ノ水のキリスト教専門の書店で見かけた。買わずに図書館が購入するのを待っていた。いつまで待っても入って来ないので、久しぶりに銀座へ行った折、教文館で購入した。


買ってよかった。自死の現状、予防の諸活動、自死遺族の グリーフケアについての最新の知見、自死者の葬儀など具体的な活動が書かれている。最終章はプロテスタント系キリスト教の精神史の視点から「自死」と「自殺」の違いを再考する。章立ては10。


興味を引いた章について感想を書いておく。

「葬儀社から見た自死の問題」。現場にいる人だからこそ観察できる遺族の苦悩と動揺。悲しみに打ちひしがれている遺族を支えて葬儀という儀式を通じて社会的な意味づけをすることで「公認されない死」とも言われる自死を遺族が属する社会に自死者が生きた事実を「公認」させる葬儀の役割。葬儀社の細やかな配慮に感心した。

この章で取り上げられているエンバーミング(いわゆる死化粧)と湯灌(葬儀前に湯で清めること)を最近、体験した。確かに、綺麗に清められた遺体を見ることは見送ることと心の整理のためにも大いに役立つ。遺体を見ることができなかった死別はいつまでも死の事実を受け止めることができない。

「この世の光になるために教会ができること」は、自死念慮者を保護して社会復帰を支援している牧師の活動。これまで教会とは「救われたい人」が行く場所と思っていた。本当は「救いたい」人が集まる場所ということに気づいた。このような活動に参加することは今の自分ではとてもできない。生命を救う仕事を当たり前のようにしている人に頭が下がる。


「自死遺族のグリーフケア」の章は、喪失体験に反応する悲嘆を受け止める過程について、最近の研究成果を紹介している。

従来、死別体験の後、いくつかの段階を経て悲嘆を「克服」すると考えられてきた。最近では、段階はあるにしても死別体験者はそれを直線的に進むのではなく、往復したり、あるいは螺旋状に進むと考えられているという。怒りや自責、恥などの感情も抱える自死遺族の場合、その感情が辿る道は複雑なものであることは想像に難くない。

自死遺族へのケアとして「傾聴」が強調されている。これは最近読んだ『自死遺族の癒しとナラティヴ・アプローチ』でも「教えてもらう」という言葉を用いて強調されていた。

ところが、この傾聴が難しい。聞くことが難しいだけでなく、話す方でも難しい。『自死遺族の癒やし』でも遺族が「物語る」まで待つこと、話しやすい環境を作ることなど、さまざまな工夫や努力が必要と指摘されていた。

「公認されない死」である自死の遺族が抱える悲嘆は、いわゆるトラウマと同様「語る」ことが難しい。自分でも心のなかに答えの出ない問いかけが積み上がっていて、悲しみだけでなく怒りや悔しさなど多様な感情があるのに表には出ないことがある。

その結果、悲嘆の表出は「遷延」し「遅発」する。こうした悲嘆を「複雑性悲嘆」と呼ぶらしい。自死遺族の悲嘆は多くの場合、「複雑性」なのではないか。

「複雑性」といえば、被害者と加害者の両面を持つ「複雑性心的外傷」と通じる。遺族に悲しみと自責の念を残す家族の自死は「複雑性PTSD」を引き起こす可能性が高い。

死別体験から長い時間が経過し、遷延して心の奥底に溶け落ちた悲嘆の破片(débris)をどうしたら拾い上げることができるか、言葉にできるか、誰かに聞いてもらえるのか、耳を傾けててくれる人はどこにいるのか。そうした問いには残念ながら本書は答えてくれない。

ただ、そういう悲嘆もあると知るだけでも安堵するところもある。特殊であっても異常なわけではない。


最後の第10章は、聖書研究者である土井健司が書いた「自死の何が罪とされてきたか」。この章はとても難しい。

最近では「自殺」という言葉の代わりに「自死」がよく使われる。「自分を殺す」のではなく、病気であれ経済的な困窮であれ、「自ら死ぬ」ほどの苦しみが原因という見方が広く知られるようになったからだろう。

土井は「自死」という倫理的判断のない概念のなかにあえて「自殺」という罪深い概念を置く。「自死」と「自殺」は同等でもなければ対立でもない。「自死」の一部に「自殺」がある。

では「自殺」とはどういうものか。トマス・アクィナスの議論を展開して土井は三つの関係性の否定に注目する。

自己愛の否定と自己保全の否定、自分が属している社会(他者)への害悪、神のものでもある生命を侵害すること(生命は人間にとって所有物ではない)(後略)。

この考えに従うとうつ病や過労いじめや体罰、パワハラに苦しんだ末に亡くなった人も「自殺」ととらえることになる。言葉を換えれば、倫理的判断のない一般的な概念として「自死」を設けた意味がなくなってしまう。この考え方は現代の風潮に明らかに反する。

どういう意図で土井はほとんどの「自死」を「自殺」とみなし、罪とみなすのか。


ここで土井は論理を転回する。

では関係性を損なうような自死、すなわち自殺は、どうして起こるのだろうか。(中略)一方があれば他方もあるのであって、自殺しようとする者の向かいにいる存在も問われることになるのではないか。

「むろん罪を犯すのは自殺者の方ではある」と自殺を罪とみなしたまま彼は続ける。

しかし、なぜその人が自らの生を求めないのか、また本当に神はその人の生を求めてはいないのか。そしてそれ以上にその人の生を「あなた」は求めないのか。また社会はその人に何も手を差し伸べないのか、こうした問題もあるように思われる。

聖書には自死は罪であるとは書いていない。それでもキリスト教の精神史を考慮すると「自殺を善とすることはできない」し、また「善でもなく悪でもないものと考える」こともできないという。その上でキリスト教的視点から「自殺」について考察をまとめる。

また、たとえ誰かの自死がこのような自殺であるとして、遺されたわれわれはどうすべきだろうか。キリスト者としてわれわれのなすべきことは自殺者を断罪することなのだろうか。裁くことではなく、むしろ何とかして寄り添うことの方がはるかに福音的ではないのか。

この議論はわかりづらい。現代では自死は「自分を殺す」ことではないという理解が一般的になりつつある。神学者でも聖書に記述がないことから自死を罪と認めない人も出てきている

そういう風潮の中で、あえて「自殺」を罪としたうえで自殺を生み出す社会に対し批判的な目を向ける土井の論理は俄かには同意しかねるが、ある意味、斬新ではある。


土井の主張を本章だけでとらえようとすると過激で反動的にさえ思える。ただし、副題にある本書の主題『「断罪」から「慰め」へ、「禁止」から「予防」へ』を念頭にして読むと彼の議論はあくまでも「慰め」と「予防」のための論理であることがわかる。

とりわけ神学者である中道基夫が書いた、第6章「自死者の葬儀と遺族へのケア」と重ねて読むと本書全体の主題でもあるキリスト教的な自死観がわかる。

中道は葬儀の宗教的な意味を重視する。

(葬儀におけるグリーフワークは)神が創られ、魂を与え、「よし」とされた人間が、愛する者との死別、特に自死を経験したことによって傷つけられ、損なわれた神の祝福を回復するプロセスとしてとらえたい。

さらにモルトマン『終わりのなかに始まりが』から「悪からの解放」という言葉を引き、遺族と自死者自身の宗教的救済が葬儀を通じてなされると説く。ここでも、自死は罪深い「自殺」とみなす一方で、それがゆえに宗教的救済を受ける契機となりうるという土井説と同様の論理の逆転がある。


聖書は「友のために自分の生命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)と言う。確かに身を呈して列車を止めた永野信夫(三浦綾子『塩狩峠』)は大きな愛を持っていたと言えるだろう。

では、収賄など政治的なスキャンダルの渦中ですべてを知っているキーマンが、それこそ「罪」が仲間や派閥の領袖に及ばないように自ら口を封じる場合はどうだろう。

「友のために自分の生命を捨てること」に違いないとしても、「大きな愛」とは言えないだろう。むしろ社会全体で見れば「大きな罪」だろう。犯罪の事実が明らかになれば、亡くなった後でも訴追されることもある。

一つ一つの自死は、それ自体多くの面を持っている。判例のように分類しても、罪の有無を判断をすることは難しい。

そう考えると、自死の罪性は神が裁くものと放置するのでなく、一旦、すべての自死を罪とみなした上で、何が罪としての死をもたらしたのか、何がその人をそこまで追い込んだのか、一つ一つの事例を帰納的に考える土井の主張には一理ある。

とりわけ、昨今、注目されている過労パワハラ過剰な指導体罰、いじめなどを原因とする自死については自死した者よりも自死させた者の罪を明確に犯罪として捜査する必要が大いにあると考える。


本書の結論は自死遺族にとって「一つの見方」では済まない重みがある。倫理的判断から遠ざけられた「自死」は再び「罪のある自殺」と定義されて、さらにその罪を引き起こした要因の一つとして自分を見つめ直さなければならないのだから。

そして、死に追い込んでしまった自責の念は果てしなく深まる危険性もある。それでも、本書で紹介されているさまざまな予防活動や遺族の支援活動はこの論理と矛盾していない。本書全体を通じて「自死」という人生の終わりを社会全体で、またキリスト教会全体で受け止める姿勢が貫かれているからだろう。


本書に書かれているキリスト教の伝統に沿うような「自殺」観はすぐには理解できないと書いた。ここは「理解したくない」が正しいだろう。「罪があるからこそ救われる」という論理もわからない。

多くを学ぶと同時に重い荷物を増やされたような読書だった。


さくいん:自死・自死遺族悲嘆・グリーフ


付記。

本書では、捕らえられることを知りつつエルサレムに入城したイエスの選択を「自死」とする見方が書かれている。そう考えると多くの殉教者も「自殺」したことになる。

この問題は、私が考えるにはあまりに大きい。