島薗進『ともに悲嘆を生きる』に参考文献として挙げられていた本。入門、と銘打っているだけあって悲嘆に関する研究について網羅している。
人は必ず死ぬ。そして人は生きている間に必ず身近な人の死を体験する。死別体験は誰にでもある普遍的な出来事。ただし、誰もが同じ心境を経過するわけではない。故人とのつながりを感じながらすんなりと日常生活に戻れる人もいれば、長い間、悲しみや苦しみを抱えて生きる人もいる。
人はどのように死別体験を過ごすのか。大事なく過ごせる体験と長引く体験では何が違うのか。そして重く長い死別の悲しみを和らげるためにはどんな手立てがあるのか。悲嘆学はそういうことを研究する学問なのだろう。入門書を読み終えてそう思った。
『ともに悲嘆を生きる』にも書かれていたように日本には死別体験について独特な文化がある。本書でも一章を割いて概説している。
「死体」という即物的な言葉とは別にある「遺体」という言葉。遺骨へのこだわり、盆の儀式、墓参などなど。
墓参りについて、若い頃には強い抵抗があってすることがなかった。「死」そのものを受け入れられずにいたせいもあるし、歌の歌詞ではないがそこにいるとも思えなかった。
心境に変化があり、数年前から機会があれば墓参りをするようになった。
亡くなった人と会うことはできない。けれども、もし、その人がまだ生きていたら食事を共にしたり話をしたり、同じ時を同じ場所で過ごしていただろう。墓参りというある時間をその人を思うためだけに使うことであり、それはその人が生きていたら共にに過ごしていた時間を過ごすことで、とても意味のある時間の使い方に思うようになった。
心に残ったことを二点。
本書は悲嘆の緩和について研究史を紐解きながら、階段を登るように進んでいく一方的な「グリーフ・ワーク」を否定している。学問としていくつかの類型を観察することはできるにしても、現実には悲嘆との付き合い方は人によって違う。
また、レジリエンスをPTG(心的外傷後成長)のように過度に積極的な意味の「成長」ととらえず、「適応」というやや中立的な意味合いを込めて捉えていることに共感を覚えた。
「レジリエンス」パターンの人の多くは、喪失体験を消化できるだけの世界観や意味体系を既に保持していたために、あらためて意味の探求をすることなく、その事態にうまく適応できたと考えられる。
(第10章 成長とレジリエンス、2-3 死別とレジリエンス)
寿命が長くなり、いわゆる「天寿を全うした」死を迎える人が多い。そういう場合、死別体験も穏やかで受け止めやすいものとなる。「死」とは、人が必ず通る普遍的な経験。その一方で、災害、事故、自死、いじめ、過労死など、簡単には受け容れられない死別体験が日々、続々と報道されている。問題はこのような辛い死別体験から生まれる悲嘆。本書では「複雑性悲嘆」と呼ばれている。
「複雑性悲嘆」には、どのように対処すればよいか。著者がまとめている治療方法を列挙しておく。
- a) 患者の死別体験とその影響に関する話し合い
- b) 悲嘆に関する心理教育
- c) 悲嘆・感情モニタリング
- d) 重要な他者(キーパーソン)との面接
- e) 個人的人生目標に関する話し合いと課題設定(モチベーション強化)
- f) 死別後に回避している状況への再訪問(実生活内暴露)
- g) 死別体験の記憶への再訪問(イメージ暴露:死と遭遇した場面の想起と陳述)
- h) 故人の思い出の振り返り
- i) 故人とのイメージ対話
(第7章 複雑性悲嘆、4. 複雑性悲嘆の治療)
私にできていることはbとcくらい。悲嘆に関する本を読むことだけはたくさんしてきた。a, d, eについてはまったくできていない。
見方によってはfは実践できている、一人で餃子を作るたびに。
g, h, iについてもできていない。試みたところでまだ苦しくなるばかり。
あらためて自分が抱えている悲嘆が「複雑」で「慢性的」で「遷延的」であることを知らされた。