10/1/2018/MON
旧約聖書
ここしばらく、寝る前に旧約聖書を読んでいる。サムエル記から列王記まで。
今夜はダヴィデが退き、ソロモンが即位したので、ここまで。
王位を争う血で血を洗う一族の抗争に慄く。
ここしばらく、寝る前に旧約聖書を読んでいる。サムエル記から列王記まで。
今夜はダヴィデが退き、ソロモンが即位したので、ここまで。
王位を争う血で血を洗う一族の抗争に慄く。
昨晩は22時就寝。今朝は5時前に自然に起床。ストレッチ、腕立て伏せ、腹筋、チューブを使ったトレーニング、マインドフルネス……。
6時に朝食。洗濯物を干して6時45分に出発。
読めば誰かを殴りたくなるほど気分が悪くなるのを知っていながら、また体罰研究の本を借りた。目次と序章に目を通して、早くも読み終える自信をなくした。気になるところを拾い読みして読み終えたことにする。
本書の要点は二つ。一つは法律と倫理学の知見を駆使して、体罰が許されないものであることを徹底的に論証する。これは学問的な操作だから難しいことではない。
もう一つは、現実への提案として、躾をする場(著者はこれを家庭化と呼ぶ)や子どもにとって唯一の居場所(社会化と呼ぶ)という学校の特権的な位置付けから解放し、教育の場に特化させること。
学校を開放的にすること、子どもの居場所を複数にすることには賛成。かつて私は「多元的学校主義」と書いたことがある。
あの暴力教員たちは、今頃、どこで、どうしているだろう。自分がしたことを罪だったと思ってはいないだろう。
おそらく恩師と慕い、いまでも年賀状を欠かさない人もいるに違いない。私も二十代の頃までそうだった。
それくらい体罰の洗脳力は強い。
自分が受けた体罰が暴力であり、法にも倫理にも反することと気づくまで私も長い時間がかかった。
さくいん:体罰
1980年10月7日、さだまさしのフィルムコンサートへ行った。場所は山下公園前の神奈川県民ホール。
この頃、さだまさしはあとで大借金となる映画『長江』を撮影するために長く中国に滞在していた。そこでコンサートの代わりにコンサートの映像を各地で見せていた。ライブはアルバム「印象派』が発売される直前。
コンサートは二人で出かけた。二人だけで出かけたのはきっとこれが最初で最後だった。確か、このイベントは私がねだって行ったもの。さだまさしはオフコースと同じくらい、二人とも好きだった。
この日は元気そうに見えた。記憶には楽しい一日が残っている。「楽しかった」と最期の手紙にも書いてある。「道化師のソネット」が好きだったということも書いてある。
「あの頃」、二人の心は通い合っていた、今でもそう信じている。
本当は、磨り減ったか細い神経の上を綱渡りのように歩いていた。一歩、踏み間違えれば真っ逆さまに落ちてしまうような、そんなところまで来ていた。12歳だった私はその危険に薄々気づいていながらも何も言葉にはできなかった。
心配している
その一言が言えていたら、その後の人生はまったく違うものになっていたかもしれない。
あるいは、「あの頃」はすでに「終わりの始まり」にいて、終わりが来るのは時間の問題だったのかもしれない。
残された時間がもう少ないことを、私には知るよしもなかった。
いまの暮らしが不幸というわけではない。それでも、ときどき、人生をやり直しなくなるときがある。やり直す地点もはっきりわかっている。38年前の今日、1980年10月7日。
このフィルムは『里程標』という名前で後になってDVDで発売された。今も中古品を買うことはできる。
この日の記憶をそのままにしておきたくて、DVDは買っていない。
演奏された曲目
昨年の夏、ここへ来てから父が具合を悪くしたので、気が重く足は遠のき前回の企画展は来なかった。今回は企画が面白そうなこともあり、気分を換えて「ブルックスブラザーズ展」を新宿で見てから都営地下鉄を乗り継いで行ってみた。
モリソン書庫はいつ来ても心が躍る。
古地図を見る楽しみは自分の故郷が書き込まれていること。「改正日本輿地路程全図」(1779)に「金沢八景」「六浦」の地名が書かれている。実際には、二つの地名は鎌倉時代までさかのぼる。
いま住んでいる場所は都内なので、残念なことに近世以降の地図にしか地名がない。
今回の展示は伊能忠敬の10回にわたる測量に合わせて古地図を見せている。忠敞が測量の勉強を始めたのは50歳になってからという。まだまだ自分も頑張らないと、という気持ちが湧いてきた。
これには自分でも驚いた。ここ数年後ろ向きな考えしか思いつかなかった。ものの見方が好転しているような気がする。
荘厳なモリソン書庫が気持ちを昂ぶらせるのかもしれない。
さくいん:東洋文庫ミュージアム、伊能忠敬
職場での立ち位置に迷っている。
調子がよくなってきたのでもう少し仕事を増やしたい気がする。
でも「それでは、皆と一緒に遅くまで残業してください」と言われたら困る。きっとついていけないだろう。一度伸び切ったゴムは元には戻らない。
中井久夫が書いていた。この国では「〈普通〉のハードルが高すぎる」と。
さくいん:中井久夫
会社を休んだ。昨日の朝も行きたくなかったけど、何とか出勤した。今朝は早く目覚めたにもかかわらず、早くから「行けない」と決め込んでいた。
会社にメールを出してから11時まで眠っていた。
毎年この時期にこういう日がある。これが「季節の変わり目」というものだろうか。
一日中、布団に潜り込んでいても、よいことを思いつくこともある。自分のウェブサイトを作ろうと思ったのもこんな風に寝込んでいるときだった。
今日は何も考えていない。手に取った本をパラパラめくったりしているだけ。
こんな調子では正社員になるのは無理だろう。もっとも、会社の側にはその気はまったくないように見える。
旧約聖書、列王記 2まで読みすすんだ。
神の怒りの激しさもさることながら、つぶさに描かれる人間の欲深さ、業の深さに驚きを禁じ得ない。
安月給で退屈だけれど5時で帰れる仕事。
働きがいはあるけど毎日遅くまで残業で、ノルマと顧客の要求のプレッシャーが重い。
会社で周りを見ているとその二者しか選択肢がないよう思われてくる。
その「あいだ」はないのか。
そういう仕事はないものか。
再就職をしたはじめこそ毎日出勤するだけで精一杯だったものの、やがて頼まれたことはこなせるようになり、ほぼ2年を経た今は時間を持て余していることもある。
今いる部署では、自分が培ってきたスキルを活かすことはできない。ここに5年も10年いる自分も想像できない。
まずは人事部に英語力を活かせる部署への異動を相談してみる。
面白い。英語の文章でイタリックで使われるラテン語やフランス語を解説した本。
対象となる英単語もわざと難しい言葉を選んでいて英語のボキャブラリー強化にもなる。
さくいん:英語
土曜日は出かけるので予約して夜の病院へ。
好調であることを伝え、一種類、減薬してもらった。前回も気分の乱高下を和らげる薬を減らしてもらった。今回減らしたのは抗うつ薬の効果を補強する薬。
どちらも私の方からお願いした。
減薬されると「治ってる」実感が強まる。S先生も好調であることを認めているから減薬に応じているのだろう。
異動の相談を人事にすることも咎められなかった。
焦らず、急がずにね
それでも、前のめりになりやすい私にクギを刺すことをS先生は忘れなかった。
さくいん:S先生
土曜日の夜、親しい人とステーキを食べに六本木まで出かけた。名目は慰労会。
ある仕事が10ヶ月かかってようやく完了した。私は任せきりだったので感謝をこめて招待した。
招待したのはステーキハウス。それも、純アメリカンな店。あの、とろとろのマッシュポテトとクリームスピナッチを食べてもらいたかった。
広い東京で、レストランは数えきれないくらいあるのに、クリームスピナッチがメニューにある店が見つからない。ようやく見つけた一店が六本木にあった。
ステーキもクリームスピナッチも期待通り、思い出通りだった。
食事のあと、タクシーに乗って銀座のライブハウスへはしごした。
一畳敷に惹かれるのは、それが「小宇宙」だからだろう。
一枚の畳とわずかな縁だけの小さな書院。それを作っているのは全国の寺社仏閣から勧進された木材。こんな場所で本を読んだり黙想したりできたら、小さな部屋で大きな気持ちになれそう。
本物の一畳敷には入れない。今回は博物館に原寸の模型があり、中へ入ることができた。心地よい居室で寛いた 松浦武四郎の気持ちが想像できたのはこの模型のおかげ。
今日は、一畳敷を含む古民家群全体、泰山荘の一般公開日だった。案内をしてくれた学生の落ち着いた上手な説明に同行者が驚いていた。
私をまともな人間と思うなら、あなたはまともな人間ではない。
くすぶっていたことが一つ、スッキリした。
障害者枠だからやらせてもらえないではなく
障害者枠でもやらせてくれ
「それくらいの気概を持ってもいいんじゃないか」とある人に助言された。
もう少し「働きがい」を広げてみようか。そんなことを考えはじめている。
さくいん:労働
昨日は一歩進んだ気がしたのに、今日は三歩下がっているような気がする。
もっと正確に書けば、今日も午後はもう一歩踏み出そうとしていたのに、今は後ずさりをはじめている。
こういう小刻みな心境の変化は神経が磨り減って疲れる。
もっと大きなゆってりとした心を持てないものか。
印刷技術の普及と天文学の発展が同期していたという視点が面白い。展示はその説を余すところなく絵解きしてみせていた。
この博物館の企画展はいつもとても充実しているので、観覧するだけでは消化できない。そこで、ふだん本は買わないようにしているのに図録はつい買ってしまう。『武士と印刷』のときもそうだった。
ガリレオは処刑されたのだと思っていた。軟禁生活のあとで亡くなったと初めて知った。
コペルニクス、ケプラー、ガリレオと聞いて、小学生のとき、遅くまで起きて見たテレビ番組『コスモス』を思い出した。
「あの頃は」⋯⋯⋯、今日は止めておこう。
さくいん:カール・セーガン
睡眠時無呼吸症候群を解説したウェブサイトを見てまわるとどこでも怖いことがたくさん書いてある。 懸念される合併症に「夜間突然死」もある。
もういつ死んでもおかしくない。
希死念慮を抱えている人が病死したら既遂というのだろうか。
物事がすこしいい方向に動き出しているだけに、突然あっけなく終わりそうな気がしないでもない。