11/28/2015/SAT
「最後の手紙」について
いつだって真剣に
僕は生きてきたはずだけど
でもいつもそこには
孤独だけが残されていた
———「夕陽を追いかけて」(財津和夫/チューリップ、1978)
君のことを思い出させる
季節になりました
僕は少し早歩きをして
忘れようとするんだけど
どこまでも追いかけてきて
そっと懐かしい風をよぶんだ
———夕暮れ電車に飛び乗れ(空気公団、山崎ゆかり作詞作曲、2010)
「最後の手紙」という副題をつけて、『庭』の第五部を書きはじめた。
なぜ副題にこの言葉を選んだのか。昨年の6月末、第四部を終わらせてからの出来事を振り返りながら書いておきたい。
「最後の手紙」という言葉は、数年前に読んだ立川昭二『最後の手紙』(筑摩書房、1990)から借用した。立川は「最後の手紙」という言葉について、自身が経験した辛い体験を書いたあとで、次のように書いている。
このように私たちは、それがあるいは、その人との「最後の手紙」になるような文章や会話を常にかわしているのです。私たちは、ふだんお互いいつでも会えたり話したりできると思っていますが、じつは死という別れは不意にやって来るのです。生きているということは、それほど“あやうい”(原文傍点)ものなのです。ですから、常にこれが「最後の手紙」のつもりでお互い書いたり話したりする気持ちでいなければならないのでしょう。
(「おわりに」『最後の手紙』(立川昭二、ちくまプリマーブックス、1990)
この本を読んでからというもの、「最後の手紙」という言葉はいつも私の心の隅にいて私のことを見つめていた。
昨年6月に書くことを止めてから間もなく、次に書く文章を考えはじめた。
「最後の手紙」。この副題を最初に決めた。そのときは、第五部を「この世界」で私が書く「最後の手紙」にするつもりでいた。「最後の手紙」は2015年の春には書き終える予定だった。
実際、何かを試みることはなかった。それでも毎晩、目を閉じてから「最後の手紙」の下書きを頭の中で繰り返した。何を書き、その手紙を家のどこに置いて、いつ家を出て、どこまで行き、どこで冷たくなるか、それを考えることが、私にとって入眠儀式となっていた。
凍死の美しい幻想が僕をしめつける。
「心願の国」(原民喜、1951)
「箱庭」をいま読み返すと、2013年後半から急速に精神状態が悪化している。自分で書いた文章とは思えないほど、書き手の心が乱れていることがわかる。
幸い、「最後の手紙」を書き置きして家出することはなく、いまも家族と暮らすことができている。それは、会社を辞めて心身を押さえつけていた重石が一つ減ったから。
私は、私自身の「最後の手紙」を書くことは、とりあえず、延期した。やめたとは書かない。死にたい、という気持ち、いわゆる希死念慮は、心の中に閉じ込めておくよりも、風当たりのよい場所にさらしておいた方がいい。何人かの心の専門家からそういう助言をもらった。
どす黒い感情を封じ込めても、<ピース缶爆弾>は、やがて爆発するに違いない
そんなことを、中学三年生の頃、ノートに書きなぐったことを覚えている。
ところで、「希死念慮」は死を希うと書くけれど、「死にたい」ということとは違う。このままでは「死んでしまいそう」な苦しみや「私には生きる資格がない」という過剰な自罰意識を意味する。
今でも、前のように常時ではないにしても、「どうにでもなれ」と投げやりな気持ちになる日がないわけではない。誰だって、そうだろう。いや、そんなことを思いもつかずに暮らしていける人もいるのだろうか。
11月28日という日付そのものに特別な意味はない。ただ、毎年、この日付が近づいていくると思い出す。思い出すのは、1980年の秋。
1980年の秋。私はまだ、「悲しみ」を知らなかった。無邪気な坊やであったけれど、それでも、「悲しみ」が近づいていることに気づいていた。それどころか、愚かにも私はそれを招き入れようとさえしていた。
幸福な時間を過ごしていた、1980年の秋。11月28日、陽が沈む少し前、一人で家を出て、近くにある公園のベンチにひととき座っていたことを覚えている。幸せをかみしめながら、それがもうすぐ終わりそうなことに怯えていた。
でも、その不安をわかってもらえる人はいなかった。
誰かに伝えたかった。胸のときめきと幸せなひとときと、その全てが今にも崩れそうになっていること、そして、その真中に私がいることを。
そのために公園まで歩いた。そうだった。理由もなく家を出たのではなかった。
でも、公園には誰もいなかった。誰にも会えなかった。誰にも声をかけられなかった。誰の家の呼び鈴も押せなかった。
しばらく、ベンチに座り、あたりが宵闇に沈みかけた頃、家に帰った。
それから二月して、何も書かれていない、真白な「最期の手紙」を私は受け取った。
何度見返しても、何も書いていなかった。
突然の出来事に、私はどう気持ちを表現したらいいかわからずに、感情を失い、言葉も失った。
今年の11月28日は、悲しいような懐かしいような、不思議な気持ちでいる。それは、あの日歩いた同じ公園を、今日、歩いたせいかもしれない。
11月28日が特別な日であるのは、誰か一人のことを思い出す日ではなく、1980年の秋、「あの頃」、私の世界をふんわりと包んでいた雰囲気がよみがえり、抑えられない、言葉にもできない気分にさせることに気づいたから。
ひとつの偶像によって象徴される、愛と誠実さと思いやりに満たされた「この世界」。
This world, filled with love, faith and compassion, which is symbolized by an idol I adored.
頬をなでる快い微風。広々とした秋の青い空。いつまでも見ていたい大きな瞳と「こぼれるような笑顔」(小田和正「めぐる季節」)。優しい声。
それから、幼いながらも精一杯背伸びした、知的で誠実な会話。
今年の秋は、「悲しい気持ち」(桑田佳祐)になる理由を考えている。また「私の青春そのもの」(荒井由実「卒業写真」)と呼びたくなる人たちについて考えている。
それは、つい最近、サガンの『悲しみよ こんにちは』を読んだせいかもしれない。
あの日、呼び鈴を押そうか、迷ったうちの一軒は取り壊されて更地になっていた。それだけ、時間が経ったということ。
あれから35年の時が過ぎた。いま、私は「最後の手紙」について考えている。
私が受け取りたかった、そして、返事を書きたかった「最後の手紙」。
その手紙を受け取ることはない。それはわかっている。でも、どこかにきっと書かれている。私に読まれることを待っている。
そう、信じている。
蛇足の追記。ここにたどり着くのに13年かかった。