再開
ブログ『烏兎の庭 第四部』を閉じて一年。ブログを再開する前にTwitterを再開する。
始めるとのめり込む性質なので、自分にルールを課すことにした。
一日一瞥一投一転一応
「応」は、RTへのコメント。対応、反応、応答というニュアンスから選んだ。
このあと一応したら、今日は終わり。
まだうまくは説明できないが、一神教とは「一つの声」、それもどこから聞こえてくるのか、わからない声を素直に信じること、と考えている。敬虔と盲信という一神教が持つ両義性もここから説明できないか。まだ自問中。
確かに、森有正も、アブラハムが「出発せよ」という一つの声に無条件に従ったことの重要性を繰り返し指摘している。
さくいん:森有正
CSS3の解説書はまだ少ない。本書は説明もわかりやすい。
無料のテンプレートをダウンロードして、CSSファイルをいじりながら本書を読むと、どこを変えると何がどう変わるのか、だんだんわかってくる。
これまでウェブサイトは本や解説サイトを参考に一から自作していた。
HTML5とCSS3について少し調べてみると、13年前にウェブサイトを自作しはじめた時代に比べて出来ることが増えた分、かなり複雑になっている。自作の難易度は高い。
そこで今回は、無料のテンプレートをもとにして自分好みで加工することにした。
参考にしているサイトは“Free HTML5 Templates”。
今回は配色も、このサイトのテンプレートを参考にしている。
第四部までは『デザイナーのための世界の配色ガイド』を参考にしていた。この本は、単なる色見本ではない。世界のさまざまな地域から、その土地でよく使われる配色、すなわち、色と色の組み合わせを多数紹介している。
ところが、気に入った配色をCSSに落とし込んでも、ブラウザでは印刷された本と同じようには見えない。かといって色見本から見やすい配色を作るのも難しい。
テンプレートはプロのデザイナーが作ったものなので、配色のバランスもよく、当然、ブラウザでの再現性は高い。
参考サイトにはたくさんのテンプレートがあるのでレイアウトと配色を別なところから持ってきて、さらに解説書を片手に手を入れると、少しは独自色が出せそう。この文章を書いているあいだもレイアウトと配色の作業はまだ途中。
サイト内検索が可能に
第一部から第四部までの目次ページにGoogleカスタム検索を設置した。文書と文書の間をリンクさせることを楽しんでいる。たどっていくことで発想の過程や考えの深まり、方向転換がわかる。そういう意味ではもっぱら自分のために置いた。
索引を置いている「はてな」もアクセス分析のGoogleも、ブクログもサービス自体は無料。その代わりに、広告が表示される。表示される広告の業界も製品も選択することはできない。
自分が所有する「庭」としてウェブサイトを持つのであれば、お金を払い、広告を排除するべきではないか。ときどき考える。
企業が不祥事を起こすと、その企業の広告に出演していたタレントは「広告塔」などと責められる。
最近では、原子力発電の宣伝に登場して「安全神話」の形成に加担していたのに、いざ事故が起きると、言い訳もせずに、だんまりを決め込む有名人に、私は強い憤りを感じている。
では、自分はどうか。自分のサイトに広告が表示されている企業について、私は責任を持つべきではないか。
サイトに広告が表示された企業が不祥事を起こしたり反社会的な行為をした時、「私は無料サービスを受けていただけです」と言い逃れするなら、原発事故の後に沈黙している有名人と同じではないか。
はてなダイアリーは、現在、1ヶ月の無料お試しキャンペーンを行っているので、申し込んだ。
はてなはダイアリーの利用者に、はてなブログへの移行を勧めている。試しにデータを移してみると、索引サイトとしては使い勝手がよくない。
ダイアリーのほうがサイト内検索がしやすく、索引に向いている。はてなダイアリーはそのまま残すことにした。
最近の日常生活
失職してから初めて受けた健康診断の結果を聞いた。体重に変化はなかったものの、肝機能や代謝系の数値はいずれも格段に改善していた。
やはり生活習慣が変わったことが奏功している。昼はラーメン、出張先では夜に同僚と酒、加えて週末には憂さ晴らしにさらに酒に溺れていたから、心だけではなく身も病んでいた。
酒は呑んでいない、と言いたいところだが、週末は呑んでいる、いや、金曜日まで待てなくて木曜日の夜から呑むこともある。日曜日は昼も夜も呑まない。
最近の日常生活。
朝は8時半から9時の間に起床。8時までは子どもの朝食や弁当作りで慌ただしいので、目が覚めても寝床でひっそりしている。家族と顔を合わせるのが恥ずかしいということもないわけではない。
子どもと親には、通勤時間が長いので在宅勤務に変えてもらったと言っている。
薬の副作用か、昼食を食べると眠くなるので2時間ほど午睡する。雨降りでなければ、散歩に出る。遠くまでは行かない。
気候がよくなった5月に張り切って2時間サイクリングをしたら膝を痛めてしまった。時間ができたからと張り切ってジョギングをはじめたりするのはよくない、と中井久夫の本で読んでいたのに、注意されていたとおりになってしまった。
「休むことが仕事」というのは、つくづく難しい。
仕事をしていたときに苦しんだ焦燥感や得体の知れない不安からは、ほぼ解放された。それでも、難しい本は読む気にならないし、長い映画を見ようとも思わない。遠い所まで出かけようとはさらに思わない。
もともと私には趣味らしい趣味がない。あえて言えば、図書館に行くことか。本を読むわけではなく、書棚のあいだを、ただ本の背表紙を眺めて歩いたり、自分では買うことのできない大型の図鑑や写真集を眺めたり。
家の近くに図書館があるのはありがたい。しかも、二つの自治体の図書館が徒歩圏内にある。気分次第でどちらかに行き、タラタラしている。それでも十分、気晴らしになる。それ以上のことをする気にはまだなれない。
仕事以外に打ち込める趣味らしいものがないことを嘆いたこともあったけれども、金のかからない趣味をもっていてよかったとも思う。もっとも、小遣いはみんな呑んでしまうので、毎月何も残らない。
夜は本を読んだり、過去の文章を推敲したりしてから、0時には寝ている。よく眠れている。8〜9時間は睡眠時間をとっている計算になる。
さくいん:日常
70年代の広告を眺めて気づくのは圧倒的に白人金髪のモデルが多いこと。男も女も。ステレオやテレビのように当時、最先端だった製品はもとより、洗濯機や照明などの生活家電でも白人金髪のモデルが使われている。
『80s 日本の雑誌広告』で80年代の広告を見ると違いがわかる。
白人金髪が減り、黒髪で黄色い肌のモデルが増える。しかも、タレントとして名を知られているわけではないファッション・モデルではなく、アイドルと呼ばれる十代の男女が最新の化粧品から日用品まで、あらゆる商品の広告に使われるようになる。
70年代でも、欧米人に対し、まだこれほどコンプレックスを持っていたのか。広告を見比べてあらためて驚く。
さくいん:70年代、80年代
体罰は暴力
東京都教育委員会が体罰が起きた学校名を公表した。ほとんどが部活動で起きている。学校から離れた合宿中が多い。「シゴく」と「鍛える」とを履き違えている指導者が多いのではないか。
わずか3年前、体罰を受けた後、生徒が自死するという衝撃的な事件が広く報道されたのに、何も抑止効果はなかったとみえる。
部活動に手当が出ない。それが教員の労働時間を長くして、過労とともに授業の準備もままならなくしている、という報道を目にしたことがある。
顧問をやらされて困っている教員もいれば、部活を我が物にしている「熱血」もいる。
察するに、そういう輩は手当のない活動だから、ルールはオレが決める、とでも思っているのだろう。
殴る蹴るは体罰を越えている。体罰=暴力として立件する断固とした姿勢が教育行政に求められる。
さくいん:体罰
『時代の果実』は1998年から2010年まで新聞や雑誌に書かれた短文集。図書館で「戦後70年」関連図書を集めた棚で見つけた。
短いエッセイだが、戦後、学校制度が混乱していた頃の学校生活を素描した「女生徒が珍しかった頃」が面白い。学制が変更され、それまで男子校だった府立のトップ校、いわゆるナンバースクールも共学になった。黒井は、その大転換の時期に高校生活を送った。
小説「春の道標」は、この素描を下敷きにしている。事実は反対。「女生徒」の方が、若い日に書いた小説をエッセイに書き直したもの。
「春の道標」は、学校は男女共学という現代的な制度に変わっても、家族や結婚という暮らしの基盤ではまだ古いしきたりが残っており、主人公を失望させている。
大正末期から昭和一桁までの世代は、生まれた年一年の差で、運命が大きく分かれた。年長者は応召され、その次は工場で動員されるか、幼い子は少国民扱いだった。
黒井千次は、1932年生まれ、私の父と同じ。学年では一つ若い。私の父は動員されて現在では「こどもの国」になっている場所にあった爆弾工場で働いていた。黒井は学校の周辺で防空壕を掘ったり、空襲で焼けた家を片付けたりしていたという。
この世代は、戦後に学制が大きく変わったため、入った学校と出た学校が違う。父は、尋常小学校から旧制中学に進学し、四年修了、今でいう飛び級で旧制高校に入学し、新制大学を卒業した。だから父は小学校と大学しか卒業証書を持っていない。
黒井は、疎開先から帰京して国民学校に編入し、旧制都立十中に入学した。
この学校が都立第十新制高校になり、黒井が三年生のときにさらに名前が変わり都立西高校になった。そして学制の変更で新制高校は男女共学になった。といっても、初年度に入学した女子は4人だったという。翌年、1/4にあたる100人の女子が入学して、一気に学校の空気が変わったと述懐している。
ほかにも父親が法務省に勤務していたので戦後しばらく府中刑務所の看守官舎に住んでいた逸話など、戦中から終戦直後の秘話として興味深い。誰もが苦労して誰もがそれぞれ特別な体験をもつことになったのだろう。
すこし調べて驚いたこと。黒井は、後に卓球の世界チャンピオンとなり、国際卓球連盟理事会長としてアジアのピンポン外交に尽力した荻村伊智朗と同期(新制3期)だった。二人のあいだに交流があったかはわからない。『時代の果実』に荻村の名前はなかった。
都立西高校は、JR中央線の西荻窪駅、西荻窪と吉祥寺のあいだにある。中央線沿線の古い写真を集めた写真集を眺め、敗戦後の混乱期に過ぎていった青春時代が想像しながら読んだ。
写真も情報も豊富な『中央線 街と駅の120年』。一点、事実誤認を指摘しておく。
戦前、武蔵境駅から中島飛行機武蔵製作所西工場まで引き込み線が敷設された。戦後、工場跡地に「東京スタジアム グリーンパーク球場」ができた。これは本書が記す現在の武蔵野中央公園(西工場跡)でなく、東工場跡にあった。線路は西工場跡からさらに延伸されたことになる。球場跡は現在の緑町パークタウン(UR団地)の広場あたり。
砂埃がひどくて球場は一年で閉鎖になった結末に変わりはない。コラムにもあるように廃線跡は武蔵境からループを描いて武蔵野中央公園まで続く遊歩道になっている。
プロ・スポーツの若年化に対する懸念
プロ・スポーツの若年化が気になる。
卓球選手の伊藤美誠や平野美宇のような中学生が、一年中、世界を転戦しているのは、いくら実力が世界水準とはいえ、おかしくないか。義務教育であるはずの中学校の勉強はどうなってるのだろう。
卓球のようにマイナーと思われている種目であっても、毎週、どこかで大会が開かれている。福原愛や石川佳純など有力選手は、東南アジアからヨーロッパまで、文字通り世界中をまわっている。
移動距離や時差を考えると、国内だけで行われているプロ野球やJリーグの選手よりも過酷な生活をしているようにみえる。
世間は若い選手をもてはやし過ぎる。
若いときから全身を酷使すると、選手として全盛期になるはずの年齢でケガに苦しみ、引退を早めてしまうこともある。
実際、ごく最近、福原は世界卓球、錦織はウィンブルドンという、もっとも注目される大会に出場する権利がありながらケガで棄権を余儀なくされた。
プロスポーツで息長く活躍するためには、ケガをしない頑強な身体が必要。現役生活が長い選手は高校時代に「上手に手を抜いていたから」という冗談とも真実とも受け取れる話を聞いたこともある。
運動でも音楽でも、一つのことを極めることで人間的に成長する、ということはある。最近の若いスポーツ選手はインタビューの受け答えもきちんとしていて、話しぶりからは実年齢よりずっと大人に聞こえる。
福原愛や錦織圭はもちろん、さらに若い伊藤美誠や平野美宇も、すり減らずに、息長く活躍してほしい。
教員の暴力事件について
1990年、兵庫県の県立高校で、登校中の女子生徒が鉄の門扉で殺された事件から25年経ち、追悼集会が行われたという。
この校門圧殺事件と、1995年に起きた、福岡の私立高校で教員が女子生徒を撲殺した事件。二つの事件は忘れることができない。
その理由は学校内で教員が生徒を殺すという異常性だけではない。加害者の呆れ果てる居直り、加えて、奇妙な周囲の加害者擁護と被害者へのバッシング。
この三点は二つの事件と2012年に大阪の高校のバスケットボール部で起きた体罰事件にも共通している。
そして、もう一つ、忘れられない大きな理由がある。
それは、「私だったかもしれないから」。
事件の報道を見たせいとは言いたくないけれど、しばらく控えてきた酒を浴びるように呑んでいる。さすがにハードリカーではない。ビールを1.5リットルくらい。それでも、家族は怪訝そうにみている。
酒を呑んではいけないのに、己を律することもできず、弱さに負けて溺れている。そう思われているに違いない。反論する余地はない。
こんな父親が、子どもの進路に口を挟めるはずがない。
9ヶ月の余命をどう生きるか、真剣に考えなければいけない。いや、このまま、崩れていくのもいいかもしれない。今夜はそんな気分。
もう20年近く前、『お笑い北朝鮮』(伊藤輝夫)という本が話題になった。全体主義国家でどれだけ厳しい言論統制が行われていて、いかに個人崇拝が強制されているのか、さまざまなルートで入手した資料で明らかにしていた。
書名にある通り、この本の狙いは『お笑い』だった。全体主義独裁国家で行われていることは、豊かで民主的になった日本から見ると滑稽でしかなかった。
本書はその『お笑い』とテーマは同じ。ところが舞台は身近な日本。70年前の日本は「笑える」国だった。
勇ましいことを言っているはずのプロパガンダが、どこか的を外している。わざとではないか、あとで創作したのではないか、と思いたくなるほど、今の感覚ではありえない「トンデモ」が生活の隅々にまで行き渡っている。
今、安保法案が議論になっている。日本国が戦争に巻き込まれるのはもちろん嫌だが、もっと嫌なのは、「安全保障」を金科玉条にして、生活のあらゆる場面に政府が介入してくること。同じ方向に頭を向けさせ、そうしない人やそうできない弱者は差別され、排除される。
政治家からは早速、「反対するマスコミは懲らしめてやる」という恐ろしい発言が飛び出している。法的な力はなくても、威嚇としては効力は余りある。
現代は経済的相互依存の時代なので、隣国との繋がりの強さや広さは1930年代の比ではない。時に政治的に対立するとしても、すぐに戦争をはじめたり、外国人を「鬼畜」と呼びつけるようにはならないだろう。
それでも心配になる。それは、戦後においても、日本社会は何かあるたびに一斉に同じ方向へ進む現象が頻繁に起きているから。そして何よりも、前科があるのだから。
集団的自衛権の議論について
直前になって学者が意見具申したり、世論調査で否定的な回答が過半数になったりしたけど、では、なぜ前回の選挙で与党に大勝させたのか? 与党に投票したのは誰か。彼らは公約が守られたと喜んでいるのか。無難に与党に投じたことを今になって後悔しているのだろうか。
仕方がないとは言わないけど、与党は集団的自衛権の確立を公約にしていたのだから、あのときにNo! と言っておかなければ。
今頃になってこれだけ民意の後ろ盾があるにもかかわらず、政府の強硬姿勢を崩せない野党、とりわけ民主党には失望した。
やはり、最も公に民意を示す選挙で与党を勢いづかせてしまったのはよくなかった。
図書館の雑誌棚で偶然に見つけた。映画やドラマのロケ地を画面から探り出して訪ねる趣味があることは知っていた。ネット上にはそうした趣味人の研究報告がたくさんある。それを主題にしている雑誌があるとは知らなかった。
私自身、テレビドラマも映画もほとんど見ないので、単純に旅雑誌として読んだ。
いずれ映画『海街diary』も特集されるだろう。そのときはよく読んでみようと思っている。
映画『海街diary』を見た帰り道。82歳の父が、「極楽寺といったら「俺たちのアレ」だな」とつぶやいた。
「“アレ”じゃダメなのよ、ちゃんと思い出さなきゃ」と母はいつもの通り、嗜めていたけれど、私からすると、テレビドラマを自分からすすんで見ることのない父が40年近く前のドラマを覚えていることに驚いた。
「俺たちの」のあとには「朝」やら「旅」やら「祭り」やら、いろいろあったから、「俺たちの」が出てきただけでも記憶力はまだまだ十分か。
我が家が鎌倉に近い、ということはもちろんある。両親は、今の私の年齢の頃、つまり40代後半から50代にかけて、毎週末でかけて鎌倉のほとんどの名所を見ている。私は、修学旅行生が行きそうなところしか知らない。
江ノ電の鎌倉高校前駅からの風景が私のお気に入り。これまで駅で降りたことはない。坂を上がったところから江ノ電の踏切と海を見下ろす景色が、アニメ『スラムダンク』で使われて有名になり、台湾からもたくさんの人が詣でると最近、知った。今度行くときは駅を降りてみる。
江ノ電でよく途中下車するのは稲村ヶ崎駅。冬の天気のいい日なら、ここから江ノ島の先に富士山まで見える。岩場の先に出ると西にあたる右手には七里ヶ浜、東にあたる左手には材木座海岸、その先、遠くに川端康成が仕事場にしていた逗子マリーナも見える。
もう一つ、鎌倉で気に入っている場所は、切り通し。鎌倉は山を背にして海に向かって扇型に広がっている。これが自然の砦になっている。その山を切り開いて隣の地域へつないでいるのが切り通し。小さな滝があるところもある。
昨日は大型台風のせいで終日、家にいた。正確には自室にいた。まるで執行日を独房で待つ死刑囚のように部屋のすみでうずくまっていた。本も読まない。音楽も聴かない。
死刑囚という比喩は、大袈裟ではない。うずくまったまま、スマホで調べる。自宅からその日のうちに行ける一番遠い無人駅。そこまで行く列車の時刻表。冬の平均降雪量。
最後に探したのは、Google Mapのストリートビューで駅の近くで街道からは見えない雑木林。
これで準備完了。あとは「いつやるの?」
「今でしょ」というところまではさすがに思わない。それでも、頭のなかで北国までの冬の旅を想像していた。
こんな想像をするのはどうかしている。わかっている。水曜日に「今年は例年しんどい6月を乗り越えられました」とS先生に言ったばかりなのに。
最近、S先生に嘘をついている、ということに気づいた。
何も変わっていないのに、「調子はいいみたいです」「規則正しい生活が送れるようになってきました」などと、嘘をついている。本当は汚泥のような情念に引きずり込まれ、帰ることのない冬の一人旅を計画している。
夜が明けて、雨が止んだら、昨日、煩悶していたことはほとんど忘れた。考えたことの記憶として覚えているので、上のように書き留めることができる。今日も同じ心境のままだったら書き留めることはできなかっただろう。
時折、何の前触れもなく襲ってくる、この汚泥のような情念。怒り、悔しさ、悲しみ、憎しみ……。あらゆる負の感情が塊になって降りかかってきて、暗闇の淵へ私を突き落とそうとする。
まともに相手をしても勝ち目はない。そういうとき、一番の対抗策は眠ること。
幸い、不眠の症状はないので、バッハ作曲の静かな曲を集めたアルバムを聴きながら、眼を閉じる。
菊池桃子の歌手デビュー30周年記念アルバム。発売してから一年経ち、ようやく聴くことができた。
期待していたことを書いていたらきりがない。「雪に書いたLove Letter」の最後を、オリジナルのささやきとは違ってメロディーで聴けたことで私は満足した。
昨年、このアルバムの発売にあわせてNHKの歌番組『SONGS』に菊池桃子が出演し、このアルバムから何曲か歌った。
番組の冒頭、デビュー曲を録音したレコーディングスタジオを彼女が訪ねた。そこで、感極まって涙ぐんだところを撮影した。
この演出には何の意味があったのだろう。演出ではなく、シナリオではない偶然だったのか。では、なぜ、そういう場面を番組に挿入したのか。
菊池桃子は、かわいくて、明るくて、爽やかなイメージを売りにするアイドルだった。
それが、Soul R&B風に急に売り方が変わった。その後、結婚して離婚して、大学院に通い、母校の教員になり、各地で専門的な講演会にも出るようになっている。
いつの間にか彼女のイメージは、教室にいそうな、可愛い「Momoco」から、努力で自立した「菊池桃子先生」に変わっている。
少なくとも今回の「SONGS」は、私には、新しいイメージを補強する演出に見えた。たとえ、前もって準備されたものでなかったとしても。
あの涙はいったい何だったのだろう。タレントとして、こちらの岸からあちらの岸へと渡る橋を歩いたときに抱いていた不安の欠片だろうか。
それを揶揄するつもりはない。誕生年が同じで、誕生日も同じ週だから、という勝手な理由で、私はずっと彼女を遠いところにいる同級生のようにみていた。深夜ラジオでリスナーの「恋話」を朗読していたときから。
だから、菊池桃子は、私にとっては、いつしかアイドルではなくなった。先を進む、「がんばってる同級生」になった。
さくいん:菊池桃子
私が探していたのは、開通から新宿駅が地下化するまでの笹塚・新宿間の写真。
森有正は、大正から1950年に渡仏するまで、甲州街道と淀橋浄水場のあいだ、いまは町名ではなくなり、地域名でかろうじて残っている「角筈」に住んでいた。
『エッセー集成』にも角筈界隈の記述がある。
森家の墓は多磨霊園にある。『バビロンの流れのほとりにて』の冒頭に書かれている、墓参のときにも、きっと京王線に乗って行っただろう。
戦前の写真は多くはないが、深く読書をするための想像の糧になった。
さくいん:森有正
過去の体罰を告訴できるか
今日のニュースで聞いたこと。
第二次大戦中、捕虜の米軍兵を強制労働させた企業に当時の捕虜が正式な謝罪を求めてきた。その企業が求めに応じて正式な謝罪を行った。
70年前の強制労働で謝罪を求める人がいて、それに応じる企業がある。ならば、35年前に中学校で受けた暴力について教育委員会と教員個人に謝罪を求めたい。
記録も証拠もないので、おそらく無理だろう。
ただ、私と同じ世代で、同じような経験をした人は少なくないはず。もっと70年代の管理教育について、批判の声が上がってほしい。
そのとき、私は単なる被害者ではないことを肝に命じなければならない。そのときには「否」の声を上げられず、体制に従った弱虫で、追従しなかった勇気ある人を見捨てたのだから。
さくいん:70年代、体罰
第五部 開園
「烏兎の庭 第五部」を書きはじめた。造園途中だが、一部公開する。
書きためていた文章もあるので、構成上は1月に開始、としている。実際に編集作業を始めたのはごく最近。
副題とエピグラフについての文章を書きあぐねている。まだ、時間がかかるだろう。
夏の散歩
静養が目的の休職であっても、少しずつ回復しなければならない。医師からは、運動と陽にあたることを勧められている。
先週は台風のせいでほとんど外へ出られなかった。外出できないと気分が沈み、気分が沈むと少しの晴れ間に出歩くことも億劫になる。悪い循環に陥る。
梅雨が明けたあとでも、猛暑のせいで夕方でも散歩することをためらった。図書館まで歩き、雑誌を読み、涼んでは帰る暮らしを繰り返した。こんなことを書いていては、暑くても毎日職場や学校に通っている人に怒られそう。
今日も午後に図書館まで行ってはみたものの、この暑さでは散歩は無理かな、と思い、雑誌をいくつか読んで過ごした。読んだ本と聴いた音楽は、ここで公開しているけれど、雑誌についてはほとんど書いてない。とりわけ、ファッションとライフスタイルの雑誌については、書かないようにしている。理由は単純。ハビテュスが透けやすいから。
陽が傾いてから外へ出ると、風も吹いていてすこし涼しい。思い切って、いつもの散歩コースを三分の一ほど歩いて帰った。
歩くのは、大きな公園とかつて軍用線路だった遊歩道。帰りには、2002年夏から2009年末まで住んでいた団地を抜ける。まだ学校に上がる前の幼い子どもたちが砂場で遊んでいるのを見ると、ここで過ごした「あの頃」を思い出す。
私たちが住んでいた部屋は、現在は自治体が借り上げて保育室になっている。一階で、前が広場なので、そういう用途に適している。私の家族はそんな好環境を独占していた。
「あの頃」の『庭』は、図書館で借りた本やCDの単なる記録から、すこしずつ感想を書きはじめるところだった。
おでかけ
旧知の友人から誘いがあったので、午後に出かけた。午前は一度起きて朝食のあと、昼まで寝ていた。
電車に乗って「おでかけ」するのは久しぶりなので、約束よりも少し早めに家を出た。百貨店でセール品のポロシャツを一枚買った。ブランドのロゴが左胸でなく、ひかえめに左下にあるのがうれしい。
この夏は、何年ぶりかでジーンズも買い換えた。最新の素材はジャージのようにフニャフニャしてまだ慣れない。下ろし立てのジーンズはゴワゴワでないと。カジュアルな服を久しぶりに買った。家にいるときはほとんど、会社でもらったシャツを着ている。どれも辞めたり、辞めさせられた会社だけど、気にしない。
歩き疲れたので、大型書店の書棚脇にある椅子に座る。そばにあった本を手に取る。「日本のショーカー 2(1970~1979年) 」(二玄社、2007)。
いろいろ相談したり話を聞いたりするつもりで会ったのに、ほとんど私が喋っていた。機嫌がいいときの悪い癖。呑むペースも早い。ビールを呑み、久しぶりに焼酎を呑んだ。あっという間に二人でシソ焼酎を一本空けた。
相談事に対する回答は直接もらわなかったけれど、昔から知っている友人と気持ちよく呑み交わしているうちに、相談するつもりだった「悩み事」は、もうどうでもよくなってきた。
友人と握手をして別れ、各駅停車に乗り、音楽を聴く。
Jake Shimabukuro "Hula Girl"、坂本九「上を向いて歩こう」、稲垣潤一「夏のクラクション」、さだまさし「思い出はゆりかご」、中村雅俊「海を抱きしめて」。
泣きたくなる曲が続くなぁ、と思っていたら“Memories"というプレイリストを選んでいたことを忘れていた。
まだ早いので下車駅で生ビールと博多ラーメン+替え玉。まだ呑むか、まだ食べるか。
バスはもうないので、30分歩いて帰宅。手にはコンビニで買った缶ビールが2缶。まだ呑むよ、今夜は。
気分がいいのは、親しい人と呑んで快く酔ったから。こういう状況にあると、変に気を使い声がかけづらい。私自身もそう。社長が何と言ったのか知らないが、昨年末に辞めた会社の人からはまったく連絡は来ない。
いつものように声をかけてくれるのは、気がおけない間柄だから、ずっと昔から知っているから。彼との付き合いはもう32年になる。高校に入ってから、もうそんなに時間が経っている。
プレイリスト“Memories”は続く。「まつりばやし」「フェリー埠頭」「愛の唄」「窓」「19のままさ」「Somebody to Love」「Home Again」「夜曲」。
私、今夜は泣くと思います。
東京の近代史跡を歩く
この週末は、盛りだくさんだった。
金曜は久しぶりに電車に乗って街へ出た。百貨店で買い物をして、夜は友人と焼鳥屋で呑んだ。
土曜日はサウナのように暑い体育館でバスケットボールの観戦。贔屓のチームが勝ったので満足した。
昨日の日曜日。子どもが通う高校の校長先生が、江戸の城下町だった日本橋から江戸城跡を案内してくれるというので、行事に参加。
日本橋(日本国道路元標)→熈代勝覧複製絵巻→三越本店→三井本館→日本銀行本店(金座跡)→常盤門→北町奉行所→東京駅丸の内北口(原敬暗殺現場)→三菱一号館→明治生命館→皇居東御苑(大手門→本丸御殿跡→天守台→平川門)
改装中の常盤門とその周辺にある江戸時代から残る石垣は、最近見た、NHKテレビ『ブラタモリ』でも紹介されていた。
暑かった。35℃の猛暑日だったとあとで聞いた。体力もないので辛かった。持参した水筒では足りず、途中何度も水分を補給した。3時間の散策で3リットル以上は飲んだのではないか。
歩いた距離はせいぜい10Km、歩数は14,000歩くらい。
天守台に登った後、平川門で解散となった。地下鉄竹橋駅に向かう途中で石垣の写真を撮った。一種の壁なので、ピーター・シス『かべ』の感想文に添えた。
校長先生が今回の散策の種本を紹介してくれた。
東京都教育委員会が中高生向けにテーマを「江戸・東京」に絞った歴史教科書。『江戸から東京へ』(2015)。検索すると全ページがPDFで公開されている。図版が多くて、内容もわかりやすい。
「日本人としての自覚を高めるため」とは、すこし肩に力が入りすぎている。「どこの国籍であっても、東京に住んでいる人に東京の歴史に興味をもってもらいたい」とすれば刊行の目的はもっと広く伝わるだろう。
昨日は膝の痛みがなかった代わりに足が疲れた。引率者をはじめ参加者がずっと立っているのに、疲れて何度も座ってしまった。それでも、調子がよければ外出もできて、これだけ歩けるということがわかったのはうれしい。
今週はおとなしくしていよう。
先週の金曜日、夜に友人に会う前に、大型書店で時間を潰した。
百貨店の中を歩いて疲れたので、椅子に座って手近な棚にある雑誌を読むことにした。
『日本のショーカー』は1970年代の東京モーターショーで発表されたプロトタイプと量産直前の新車を掲載した図鑑。
1970年に出品されたトヨタEX-7とマツダRX500は、ミニカーをもっていたのでよく覚えている。
1980年出品のいすゞ X(後でピアッツァとして量産された)も覚えている。この年のクルマは見覚えがあるものが多いので、晴海まで行ったのだろう。1979年出品の6代目(910系)ブルーバードも見た記憶がある。
ということは、小学五年生と六年生の年に続けて行ったのだろう。一緒に行ってくれる友だちがいなくて、母親と行ったことを思い出した。
クルマだけでなく、商業車やカーステレオまで、抱えきれないほどカタログをもらってきた。しばらくは大事にとっておいたものの、処分してしまった。
今になって、70年代のクルマの写真集を探して見ている。
もったいないことをした。
8月14日追記。
夏休み、実家で探したところ、EX-7とRX-500のミニカーが出てきた。
傷だらけの車体を見ると、相当、遊び込んだことがわかる。
撤去される中島飛行機武蔵製作所の変電室を見に行く
武蔵野市にある都立中央公園のすぐそばにある、中島飛行機武蔵製作所の変電室が撤去されると聞いた。最後に内部を公開するというので、足を伸ばして見に行った。
武蔵製作所は大戦当時、日本最大の航空機エンジン工場だった。
よく知られたゼロ戦は、機体の設計と量産は三菱で始まり、エンジン(栄型)の量産は三菱に加えて中島が請け負った。
この建物は、最初に作られた東側の工場とあとで拡大した西側の工場との間にあった。
軍事施設なのでただの変電室でもかなり頑丈に作られている。70年以上前に造られたコンクリート建築には見えない。
東京の西部に住むようになって、物足りないことが二つあった。一つは海が遠いこと。さらに西へ行けば多摩湖があることは知っている。ここの景色は素晴らしい、でも海ではない。サーフィンはしなくても、ときどき海が見たくなる。
もう一つは、歴史的な場所が少ないこと。関西に出張へ行くと、どの路線にも国宝級の寺院や城郭があり、各社とも宣伝している。
関東大震災と空襲、そして戦後の都市開発を経て生き残っている古い建物は少ない。
またひとつ、目に見える史跡が消えた。
日曜日に講師付きで東京駅周辺の散策をした。建物はなくなっていても、掲示板で歴史的な場所であることが示されている場所がたくさんあることを知った。
武蔵野市は、中島飛行機のどんな施設があったのか、市内のあちこちに掲示板を置いている。
AR技術を使えば、スマホから見るとその場で昔の景色が見えるようにできる。建物は失われても、歴史への関心は高まるだろう。
さくいん:中島飛行機
松田聖子 松本隆作詞曲 ベストテン
松本隆作詞の作品のなかから好きな曲を選ぶと松田聖子ばかりになってしまう。
そこで、昨日はあえて松田聖子以外の作品から好きな楽曲をリストにした。
今日は、松田聖子が歌った松本隆作品のなかで好きなものを列挙しておく。
発表年をみると、中学一年から高校三年までの6年間に集中している。ということは、『ザ・ベストテン』を見ていた期間と重なる。
松田聖子は、薬師丸ひろ子と同様、年齢が少し上だったこともあって、アイドルとして見てはいなかった。同年代の菊池桃子や原田知世が私にとってアイドルだった。
高校生の息子の部屋の壁にはKobe Bryantのユニフォームが飾ってある。中学時代、私の部屋には原田知世の特大ポスターが貼ってあった。確か、映画『時をかける少女』の予約特典。隅のハートマークを擦ると物語で鍵となるラベンダーの香りがするはずだったのに、何度こすっても紙の匂いしかしなかった。
松田聖子はアイドルでなく、すでにシンガーだった。ほかのアイドルがメロディを追うのも苦労していたのに、松田聖子はブレイクした「青い珊瑚礁」のときから「聖子節」と呼べるような独自の歌唱スタイルをもっていた。もちろん、音を外したりリズムに遅れることはなかった。
当時の歌番組は、ほとんどが生放送で、しかも生演奏に合わせて歌っていた。それでも上手に聴かせていたのだから、実力は確かにあったのだろう。
松田聖子が歌った松本隆作品で好きな曲リスト。カッコのなかはアルバム名。発表順。
- 曲名:作曲:歌手:発表年
- December Morning (風立ちぬ):財津和夫:1981
- ひまわりの丘 (Pineapple):来生たかお:1982
- 水色の朝 (Pineapple):財津和夫:1982
- 真冬の恋人たち (Candy):大村雅朗:1982
- 野ばらのエチュード (Candy):財津和夫:1982
- 愛されたいの (c/w 野ばらのエチュード):財津和夫:1982
- 天国のキッス (ユートピア):細野晴臣:1983
- メディテーション(ユートピア):上田千華:1983
- ガラスの林檎 (Seiko・Plaza):細野晴臣:1983
- Sweet Memories (Seiko・Plaza):大村雅朗:1983
「Pineapple」と「ユートピア」は、一番好きなアルバム。とくに「Pineapple」は「Love Song」や「SUNSET BEACH」のように、長く編曲も壮大で詩の世界も広い。「SUNSET BEACH」は心中が織り込まれていてどきっとする。作詞した松本隆自身も、思い切ったことをしたとどこかで書いていた。
「ユートピア」では「秘密の花園」と「天国のキッス」。私にとって中学二年の三学期から中学三年の初夏まで。この数ヶ月の間にいろいろなことがあった。
できれば思い出したくない嫌な出来事が多く、また、できれば知りたくない嫌な自分をたくさん見つけた。「天国のキッス」を聴くといつも何とも言いようのない感傷と嫌悪が心に広がる。
松田聖子のデビューは、1980年4月。最初の3枚のアルバムでは、ほぼすべての楽曲が三浦徳子と小田裕一郎のコンビによる。
この頃の、つまり小学六年生のときにも、いくつか好きな曲がある。それは、また別の機会に書く。
2020年6月30日追記。
上記のお気に入りの曲には大村雅朗編曲の作品が多いことがわかった。
松本隆、松田聖子