土を掘る 烏兎の庭 第三部
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5.10.08

北海道立文学館、北海道札幌市

企画展 馬たちがいた——加藤多一と北の風景

はるふぶき、加藤多一文、小林豊絵、童心社、1999
ホシコ、加藤多一文、早川重章絵、童心社、2006
馬を洗って⋯、加藤多一文、池田良二版画、童心社、1995

ガイド 北海道の文学 新常設展図録、(財)北海道文学館編、2005


羊が丘にて

札幌へ旅行した。目的は文学散歩ではなかったけど、宿の近くに文学館があることを知り、歩いていってみた。最初に行ってみたときは、月曜で休館。4月の終わりとはいえ、雨のそぼふる札幌はまだ肌寒く、中島公園脇のホテルで温かいカフェオレを飲んで帰った。

翌日、朝一番に出かけて空港へ行くまで大急ぎで見てまわることにした。

それほど大きな博物館ではない。常設展だけならすぐ見終わるだろうと思い、館内を歩きはじめた。入口の左に企画展の大きな看板。加藤多一の名前に記憶はなかったけれど、開いてみた図録にあった『はるふぶき』の題名は覚えていた。

小林豊の原画を見られるなら、と企画展まで見ていたら、すっかり空港へ行く時間が遅れてしまった。


豊平川の水道橋

常設展は、アイヌの口承文学にはじまり、開拓者たちの文学、やがて北海道で生まれた作家たちが活躍する時代まで、簡潔ではあるものの見ごたえのある展示だった。

見応えあるものに感じたのは、紹介されていた作家に思いのほか読んだことのある人が多かったから。多読とはいえない私が、北海道の文学には意外なほどに馴染みがあった。

私は、一人の作家のすべてを読むことはあまりない。とくに小説の場合、たいていは一冊読むと、いい印象であればなおさら、ほかの作品に手を出したくなくなる。紹介されていた作品には、中学2年生の終わりから高校生のなる頃までに読んだ作品が多かった。

この頃は奨められるがままに日本文学の作品ばかり、それも、どこか陰のある作品ばかり読んでいた。札幌に来た目的がその頃の友人が建てた新しい家を見ることだったこともあり、北海道の文学史をたどりながら、いつしか「あの頃」のことを思い出していた。


大倉山夕景

石川啄木がその短い生涯の最後を北海道で過ごしていたことを文学館の展示ではじめて知った。函館に一族の墓もあり、道内に数え切れないほど歌碑がある。

小樽の人、伊藤整は『若い詩人の肖像』一冊しか読んでいないけれども、その一冊で私の文学史のなかでは大きな場所を占めている。小樽の街のイメージも、この作品を読んだときから変わっていない。

同じ小樽出身の小林多喜二では、有名な『蟹工船』よりも、同じ文庫本に収録されていた「党生活者」が印象に残る。当時は、革命、活動家、地下組織という言葉に憧れていた。心酔していたというよりは、かぶれていた、と言ったほうが正しいだろう。“FOR BEGINNERシリーズ”(現代書館)で全学連、マルクス、毛沢東、アナーキズムなどを読みあさったのも同じ頃。

三浦綾子『塩狩峠』は中学三年生の秋か冬のはじめに読んだ。この本を奨めてくれた女生徒が、当時の最新作だった、谷山浩子『たんぽぽサラダ』をカセットテープに録音してくれた。テープの余りの部分にLed Zeppelinの“Stairway to Heaven”と“Achiless Last Stand”が入っていた。

“Stairway To Heaven”は手書きの歌詞ももらった。だからいまでも私は、Led Zeppelinを聴くと谷山浩子を思い出して、谷山浩子を聴くとLed Zeppelinを思い出す。テープへのお礼だったのか、思い切って彼女を「いわさきちひろ美術館」へ誘った。同じ年の女の子と二人で電車に乗って出かけたのは、たぶんあのときがはじめてだったと思う。

そのあと、結局私は彼女にふられたとずっと思っていた。でもほんとうは私の方こそ、不誠実な態度で彼女を困惑させていたということに、ごく最近、つまりこうして文章を書くようになってから気づいた


文学館の前の桜

私が小学生だったころ、光村の国語教科書の編者だった石森延男。彼も北海道出身の作家の一人。彼の詩「野菊」は、卒業式で上級生を送るたびに歌ったのでよく覚えている。

福永武彦が戦後しばらくのあいだ、帯広に住んでいたということを息子である池澤夏樹についての展示で知った。終戦後、福永は結核が悪化して、形成手術を受けるために東京、清瀬の療養所へ入った。収入もなく病床にあるあいだに池澤夏樹の母親とは協議離婚することになったという。最初の長編小説『草の花』が書かれたのは、療養所を出て数年後のこと。

樺太で生まれた李恢成『伽耶子のために』も、15歳から16歳の頃に読んだ。物語はもう忘れてしまった。同じころに読んだ立原正秋『冬の旅』と同様、もう一度読もうという気にはなれない暗い雰囲気だったことだが記憶に残っている。

どういうわけか、そんな本ばかりを奨められ、それでも嫌がこともなく、奨められるがまま読んでいた。今になって思い返せば、その頃は表向きはどうでも、内面的にはそんな本がかえってやすらぎを与えてくれるような気分だった。


もう一人、忘れることができない北海道出身の作家がいる。それは永山則夫。彼は1949年に網走に生まれ、集団就職で上京した。

展示には名前もなかったものの、常設展の隅に置いてあった北海道出身作家の本を集めた書棚に彼の小説『捨て子ごっこ』が、他の有名作家の作品に混じって並んでいた。

私が読んだのは、『無知の涙』の一冊だけ。高校の薄暗い図書室で読んだ。「革命」という言葉に何か胡散臭さを感じはじめ、そうかといって、何に従って生きていけばいいのか信条も目標も見つけられずに理由のわからない怒りや虚しさばかりを募らせていた頃の愛読書。

奥浩平や高野悦子、樺美智子の本ーーあるいは遺作と呼ぶべきかーーを読んだのも、同じように中学生の終わりから高校一年生のころ。


大倉山ジャンプ台

児童文学のコーナーでは、神沢利子の名前を見つけた。人間に対してけっしてやさしいばかりではない自然を鋭く見つめる感性は、北国で過ごした少女時代に育てられたものらしい。北海道在住の児童文学作家というと、絵本の翻訳で活躍している千葉茂樹も私は思い浮かぶ。実際、彼が訳した作品には、『雪原の勇者』『雪の写真家 ベントレー』など、北国を舞台にしたものが少なくない。残念ながら文学館に彼の名前はなかった。

企画展で特集されていた加藤多一は、北海道を舞台に人と馬との関係を主題にした童話を多く書いている。前に読んだ『はるふぶき』のほかに、『馬を洗って…』(池田良一版画、童心社、1995)と『ホシコ』(早川重章絵、童心社、2006)を原画の展示で読んだ。反戦というメッセージと自然や動物と深く関わりながら生きる素朴な人々の生きるさまが鮮やかに撚り合わされて物語を生み出している。


『馬を洗って…』は、悲しい。戦争の本質の、さらに奥にある核心を柔らかな文章でありながら、血が滲みだすように薄暗く描き出している。普通の人々が、戦争が起きるとどうなるか、静かに、鋭く、悲しみを込めて告発する。

戦争の恐ろしいところは、敵国と殺しあうことにだけあるのではない。むしろ、より恐ろしいのは身近な味方のなかで、社会の目的が「勝利」に一元化されてしまい、それに従わない人や、戦争に参加できない者や足手まといになる者ーー病者や老人、女性や子供のような弱者ーーが簡単に見捨てられること。そして、前線にいる兵士たちのあいだでも、生き残るために、階級による差別やいじめ、密告、少ない食糧をめぐる内輪の争い、などが生じるところにある。

とりわけ、太平洋戦争での日本軍は捕虜になることを恥と指導し、自害することを奨励した。また、怪我や病気で戦闘に参加できなくなり帰郷した兵士は、家族もろとも非難を浴びたという逸話も聞く。『馬を洗って…』も、そうした国の武力行使という定義とは異なる、さらに深く恐ろしい戦争の一面を物語る。

しかも、ほとんどの人は自らの常軌を逸した異常な行動をあとになって「そういう時代だったから」と平然と開き直るか、そうでなければ、あっさり忘れてしまう

平時には平和に暮らしている素朴な人々が、ひとたび戦争がはじまり世の中の価値観が無理やり一つにされると、ふだんでは絶対にしないようなことまで平気でしてしまうようになる

『馬を洗って…』は、そうした普通の人々の戦争責任を静かに告発する。

絵本作家ではないけれども、『おおきなかぶ』(トルストイ原作、内田莉莎子再話、福音館、1966)の挿絵を描いた佐藤忠良も北海道生まれ。夕張で生まれ、札幌の中学校へ進学してから美術学校で学ぶために上京したという。


大倉山からの眺め

一回りして、知っている作家や作品が多かったのでかなり満足した。でも、何か物足りない気もする。北海道の文学といえば、これら純粋な文学作品とは別に、中島みゆき松山千春ら、北海道で生まれたシンガー・ソングライターの歌詞も、私には欠かすことができない。

それから、北原ミレイ「石狩挽歌」(なかにし礼作詞)や、森進一「襟裳岬」(岡本おさみ作詞)をはじめとする、多くの演歌の歌詞も北海道の文学と言ってさしつかえないだろう。北海道を舞台にした演歌のなかでも私が好きなのは、冠二郎「旅の終わりに」(立原岬作詞)。立原岬は五木寛之のペンネーム

文学館でも一つ、歌になった詩が紹介されていた。河邨文一郎「虹と雪のバラード」。21世紀になっても私にとって札幌といって真っ先に思い浮かぶのは、1972年の冬季オリンピックのテーマソングでトワ・エ・モアが歌ったこの歌。

大倉山シャンツェに歌碑もあったらしい。知っていたら皆で写真も撮っていたのに。小雨続きの四日間だったけれども、ジャンプ台の頂上に立ったときだけ、垂れ込んでいた雲がさっと開け、眼下に街の風景が広がった。あまりの絶景に、ここで口ずさもうと思っていた歌のことも忘れてしまっていた。



uto_midoriXyahoo.co.jp