尾崎翠を知ったのは、おそらく飛行機の機内雑誌にあった鳥取の紀行文。『第七官界彷徨』という幻想的な名前の小説を書いたこと、大正時代に鳥取から上京して文学を志していたが、心身を病み帰郷したこと、そして、そのあと戦後まで存命ではあったものの二度と筆をとることはなかったことなど短い評伝と、彼女の小説からの引用があった。
鳥取の海は5年前に家族で自治体の農村体験で行った。「本州にこんな美しい海があるのか」と感動した。文章に添えられた鳥取の海辺の写真が、懐かしさとともにずっと心に留まっていた。
全集を借りてきて『第七官界彷徨』を読みはじめた。ところが、もっとも知られているこの作品は読み進めても面白くは感じられず、途中でやめてしまった。それでも彼女の文章には何かひきつけられるものがあったらしい。
全集に収められた他の随想や断章のような短文を読みはじめてみると、彼女の文章世界を彷徨していくことになった。
随想のなかで印象に残ったのは「悲しみを求める心」。この文章も比較的知られているのか、著名な作家の随想集にも入っていることを図書館で知った。
この文章では二つの悲しみについて書いている。一つは、彼女が父を亡くしたときに感じた悲しみ。もう一つは、母が「私もこれから先十年のあひだだよ」と言ったときに感じた悲しみ。
前者の悲しみを肉親を亡くしたための「ひととほりの悲しみ」に過ぎず、「真のかなしみ」ではなかったと書いている。その一方、母が老い先短いことを娘に告げたとき、彼女は「強いかなしみが私の胸を通った」とある。二つの悲しみ。何が違うのか。
父の死は肉親を喪った悲しみであり、それは彼女のなかにしかない。この悲しみは「取り残された淋しさ」と言い換えることができる。一方、母の言葉は、そのとき母はまだ生きていたにも関わらず、尾崎は死者の言葉としてそれを受け止めている。つまり、悲しみが共有されている。「真のかなしみ」は一人の心のなかにあるものではなく、死者とわかちあうもの。
母の心と私の心とはその時真に接触してゐた。私の願ふのはその心の永続である。絶えず死の悲しみに心をうちつけて居たいのである。それは決して無意味な悲しみではない。私の路をみつけるための悲しみである。
このような「真のかなしみ」の先に「生のかがやき」がある、そう尾崎は書いている。
悲しみを分かち合うことは難しい。たいていの場合、分かち合いたい相手はすでに亡くなっているから。尾崎翠と母の会話は、母親が自分が死にいく者として語りかけていたから、死の悲しみをわかちあうことができた。自然な老いや長い闘病で死がお互いに意識されている関係では尾崎が体験したような対話もあるかもしれない。
では、突然、目の前からいなくなってしまった人と悲しみをわかちあうことができるのか。
「死者は遺された者の心に生きる」。そういう言葉をよく聞く。それが可能であれば、死者と悲しみを分かち合うこともできる。また、相手が生きていたときに交わした対話を何度も反芻することで、死者と語り合うこともできる。幼い頃に母を亡くした山形孝夫はそうした二人きりで交わされた言葉の記憶を「死者との黙契」と呼んでいる。
「もしあの人がいまここにいたらどうしていただろう」。何か問題や障害にぶつかったとき、そう問いかけることも「死者との対話」と言えるかもしれない。
「悲しみを求める心」の結びは、「真のかなしみ」を見出すことの難しさを記している。
母の言葉に対する瞬間のかなしみこそ私の心である。けれどもともすると私は淡い心に遠くから死をながめては何故私たちのゆくてに死がよこたはつてゐるのかが判らないことがあつた。
思うに、「真のかなしみ」は見出すことも難しいうえに、さらにそれをつねに心にとどめておくことに難しさがある。
「死者は遺された者の心に生きる」というとき、それが自分に都合のよい思い出だけを貼付けたコラージュであったなら、それは遺された者の願望と親しい人を喪った「ひととほりのかなしみ」を投影した偶像にすぎない。そこから「真のかなしみ」は生まれない。死んでいった者は、命を落とした嘆きや、果たせなかった夢への悔恨や、もしかすると生き残った者に対して怒りももっているかもしれない。
そうしたものを、もう語り合うことができない、死者との対話で見出し、心に刻み続けていかなければならない。
「悲しみを求める心」は私の心の琴線に触れた。全作品を読んだわけではないけれど、翠が見ていたはずの、あの浦富海岸を、私も見たことがある、そう思うだけで、ほかの作家よりも少し近くにいるような気がする。
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