硝子の林檎の樹の下で 烏兎の庭 第四部
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2012年11月


11/3/2012/SAT

旅のパウロ――その経験と運命、佐藤研、岩波書店、2012

心地よい読書だった。引き込まれるようにして一気に読み終えた。『イエスの父はいつ死んだか―講演・論文集』(聖公会出版、2010)を読んだときもそうだった。言葉遣いがやさしく、それでいて一つ一つの言葉に重みがある。

しばらく情緒不安定な状態が続いている。何とか週末ごとに書いていた文章も途切れた。今回の感想文はTwitterで放り投げた断片を組み立てなおした。

夕べは、古い仲間と楽しく杯を傾けた。15年前、この業界で最初に出会った人たち。今は皆、違う場所で働いている。知人の知人が同僚であることを知り、あらためてこの業界の狭さを知る。悪い噂を立てられなければ、もう少しはこの業界にいられるだろうか、業務の実力は別として。

残っていた仕事があったので、帰宅後、1時過ぎまで起きていた。

今朝は9時に起きた。図書館で予約していた資料を受け取ってから、S医院まで自転車を漕いだ。

先々週の出来事を話しているうちに、S先生の前でも壊れてしまった。自分で自分の感情を制御できない。

しばらくはこの状態が続くのだろうか。11月は、いつもなら少し感傷的ではあっても、調子は悪くない月。今年は『庭』を開いて10年の節目。

開園の記念日には何か書きたい。


さくいん:S医院


11/24/2012/SAT

悲しみを求める心、尾崎翠、定本 尾崎翠全集(上下)、稲垣真美編、筑摩書房、1998

尾崎翠の文章で気に入ったものは他にもある。「生活の反映」は全集未収録の随想。『尾崎翠——モダンガアルの偏愛』(KAWADE道の手帖、河出書房新社、2009)で読んだ。

私は寂しくはない、けれども落ちつきがない、安心がない、そして統一がない。

この一文は今の私の心境そのもの。考えさせられたことが多かったので感想を整理する意味でも何か書いておきたい。今週は「悲しみを求める心」の感想だけでも長くなってしまったのでやめた。

「草に坐りて」という詩のような短い文章も気に入った。「草の上に腰を下ろして」という副題をつけた『庭』の第二部のエピグラフ「草の葉/言の葉」に追記しておく。


「悲しみを求める心」はふかく心に残ったものの、感想文はなかなか書き出せなかった。これまでにも同じようなことを何度も書いているから。とはいえ、「悲しみ」について自分の考えをすべて書ききったという気持ちはない。まだまだ書き足りないし、上手に表現できているとも思えない。

多くの画家は、同じモチーフを何度も繰り返して描いている。一つのモチーフについて、さまざまな角度から、また技術を修練して満足するまで——満足することがないことを知りつつ——描き続ける。そういうことを多くの画家から学んだはずだった。

また、悲しみについて書くこともあるだろう。


さくいん:悲しみ(悲嘆)


11/26/2012/MON

学者の書くエッセイ

学者の多くは私小説というものを理解していないか、そうでなければ見下している。私小説家が、どれほどためらいながら、それでも文字通り身を切るようにして自分の「経験」を作品に昇華させている重みを知らない。多くの資料を駆使して仕上げる研究論文に比べれば、自分の体験を書くくらいなら朝飯前と思っていないか。

もちろん、すべての学者や研究者のエッセイや随筆、自伝の類いが安っぽい「体験記」や「語り」になっていると決めつけるつもりはない。読んでよかった思う本も少なからずある。


11/27/2012/TUE

職業にスリルはあるか

困難な交渉事の第一幕をなんとか切り抜けた。職業上の困難をスリルと思い、楽しむことができる人が羨ましい。どうも私は、仕事を楽しんでいると周囲には思われている。内心は不安と恐怖でいっぱいでも、他人の目にはそうは見えないらしい。


11/28/2012/WED

開園記念日

10年前の今日、『烏兎の庭』を開いた。なぜこの日を開園の日に選んだのか? 誰かの誕生日だった気がする。前世紀、昭和のことなので忘れてしまった。

誕生日おめでとう

その一言が言えなかった。だから今年の今日、言おう。誕生日おめでとう!


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