最後の手紙

烏兎の庭 - jardin dans le coeur

第五部

ひまわり

2015年8月

8/3/2015/MON

似非湘南ボーイ

江ノ電 300形 江ノ電_鎌倉高校前駅

先週の金曜日。定例になっている月一回の両親のご機嫌伺いに行く前、ふと海が見たくなり小田急線に乗り、片瀬江ノ島駅で降りた。

ピーカンではなかったものの、砂浜からの照り返しと潮風で汗がべっとり肌にまとわりつく。さっそく海の家で生ビールを呑んだ。

鎌倉と逗子では飲酒と大きな音声が禁止になった。その分、江ノ島付近に人が集まっているようにみえた。


東浜から鎌倉高校前駅まで、国道134号線ぞいを歩いた。日差しが強くて辛い。

鎌倉高校前駅のまわりでは、韓国語と中国語が飛び交い、多勢の若者が踏切りの写真を撮っていた。アニメ『スラムダンク』の主題歌でここの風景が使われているらしい。海外でも放映されて、台湾や韓国から詣でる人が増えているという新聞記事を最近読んだ。


やはり私は似非湘南ボーイだった。「似而非」と名付けてくれた大阪新地のラウンジのマスターは正しかった。

サーフィンもしないし、釣りもしない。ましてやヨットは誘われても怖くて乗れそうにない。幸い、誘われることもない。

でも、海を眺めることは好き。国道沿いのガードレールに腰掛けて、鎌倉の海を眺めていると、なぜか、ほっとする。これが故郷というものか。


『海街diary』で、すずが花火大会の帰り道、「自分には居場所がない」と風太にさみしさを告白する場面を探して、極楽寺で降りてみた。

紫陽花の季節も過ぎて、極楽寺はひっそりしていた。


12/17/2015/THU、追記

予約しておいた『海街diary』のDVDが届いた。特典ディスクを先に見た。

すずと風太が話していたのは、極楽寺駅のホームのベンチだった。

本編はまだ見ていない。


さくいん:鎌倉大阪『海街diary』


8/4/2015/TUE

夏の散歩 2

梅雨が明けてから、散歩は日中を避けて夕方にしている。休憩を入れて約2時間。

今日は夕方まで暑かった。私の部屋は2階にあり南と西に向いて窓がある。窓を開けて扇風機をまわすとさほど暑くない。だから昼食後に昼寝をする時はエアコンはかけない。ただし、寝汗をぐっしょりかくので、前夜の風呂の残り湯で汗を流して着替える。

16時過ぎ、いつも通り家を出た。図書館で30分雑誌を読んで涼み、あらためて出発。

ところが、途中から足が重くなり意識も朦朧としてきた。もってきた水筒の水は帰路の公園でなくなった。

疲れ切ったことを口実に日曜から木曜までは呑まないという禁を破りビールを呑んだ。350ml x 4。ちょっと呑み過ぎか。


20代の頃、友人に毎晩どれくらい呑むか、訊かれた。「ふだんはビール、500ml缶2本かな」。その頃はまだ、シングルモルトやジンの味は知らなかった。

「ちょっと多くないか?」と忠告を受けた。しばらくしてまた、「その後、どれくらい呑んでる?」と訊かれた。

「大きい缶、2本は止めて、小さい缶3本にしたよ」。得意げに答えた。

すると、友人はつぶやいた。

馬鹿か、お前は。算数もできてない

8/5/2015/WED

真夏のスポーツ大会

夏の甲子園が始まる。誰かが死ぬまでやるのだろう。選手でも審判でも観客でも。

いや、一人二人死んだくらいでは止めないかもしれない。

気候が穏やかな春に野球大会を開くのはわかる。冬にラグビーやサッカーの大会を開くのも、そのスポーツの性質にあっている。

なぜ、真夏に長丁場の野球大会を行うのか。理解に苦しむ。

灼熱のグランドに若者を長時間立たせ苦しみながら戦う姿を楽しむ。勝ち上がる学校の投手が、より多くの球数を連投すると、つまり、より苦しむほど、賞賛する。

これほど若者の健康を無視した嗜虐的なイベントも珍しい。コロッセウムで人と獅子を戦わせたと言われるローマ人も驚くのではないか。


環境が厳しいのは野球だけではない。室内スポーツの卓球やバドミントンの場合、直射日光を浴びることはないにしても、風が吹くとボールやシャトルが変化するために、窓も扉も閉めた体育館で、エアコンもつけずに大会を行う。微風で気温を下げることができる設備は大きな体育館にしかない。


8/6/2015/THU

8月6日

これまで8月6日に、8月6日らしいことを書いたことはない。

今年は、時間に余裕があるので、自分と8月6日の関わりについて、書いておく。

広島へ初めて行ったのは、1987年の夏。8月6日直前だった。私は大学一年生で、アメリカのある私立高校のサマースクールに通訳ボランティアとして帯同していた。来日した生徒は、5人ほど。女性の校長が引率として同行してきた。東京では、博物館を見たり、高校生と交流したり、茶道を体験したり、一通りの日本体験をした。

この“Japan Tour”では平和教育も一つの柱になっていたので、広島訪問は重要なイベントだった。


語り部の女性が話す生々しい体験談を聞いて、英語で伝える。英語の拙さはもとより、広島へ来たのも初めて、そもそも体験談を聞くのも初めての自分が語り部の方の代わりになって話していることが恥ずかしくてならなかった。

昨夜見たNHK『クローズアップ現代』でも、語り部の話を読み聞かせるだけでは伝わらない、と語り部を継承する人が話していた。あの時の私もただただ聞こえてくる日本語を自分の知っている範囲の英語に置き換えることで精一杯だった。


「来年もお願いします」という期待を裏切り、私はプロジェクトから離れた。体験したわけでもない、知識もない自分が、わけ知り顔で年齢もほとんど変わらないアメリカ人に何を伝えられるのか、疑問のほうが大きくなった。

とにかく、もっと戦争について知らなければならない。そう思い、旅をはじめた


まず、長崎へ行った。ちょうど通訳ボランティアの仕事があり、インドからの来訪者と2週間近く九州を旅した。

宮崎で市内、青島、日向、さらに大分との県境に近い高千穂と五ヶ瀬まで行った。長崎では、グラバー邸から浦上天主堂、大浦天主堂、稲佐山まで、一通り回った。もちろん、平和資料館も見た。

このとき、インドからの来生者が展示を見て驚きもせず、「日本では半世紀前かもしれないが、インドではこれが今の現実。一般人が巻き込まれる戦争が続いている」と呟いたことが忘れられない。


同じ年の冬、『観光コースでない沖縄』(新崎盛暉ほか編著、高文研、現在は第四版2008)を片手に沖縄の戦跡をまわった。

1989年の春には、上海から汽車に乗り、南京で『南京虐殺祈念館』を見学した。それから香港経由で北京へ行き『人民革命戦争博物館』を訪ねた。

激しい地上戦で民間人が多数犠牲となった沖縄や日本と長く交戦していた中国で戦跡を見ても、まだ戦争について語る自信はもてなかった。むしろ、体験を伝えるむずかしさが募った。

両親ともに昭和ヒトケタなので、幼い頃から具体的な戦争体験を聞くことはできた。

また、飛行機にも興味があったので、軍艦軍用機の図鑑もたくさん読んだ。どういうわけかわからないけれど、十代の頃は戦争に興味があった。だから大学では政治学を専攻し、拙いもののルソーの思想を軸に「戦争と平和」について論文を書いた

自分の子どもには、戦争に関連したテレビ番組もマンガや小説も無理には勧めてない。こういうものは、無理強いするほど嫌がる。戦争ではなくても、原爆でなくても、生命に関わる大切さを学ぶ場所を彼らは彼らなりに見つけているだろうし、これからも見つけていくに違いない。やがてヒロシマナガサキに興味をもつこともあるかもしれない。


その後、広島へは何度か仕事で行く機会があった。これから先、少なくとも仕事で行くことはもうないだろう


さくいん:広島沖縄中国


8/7/2015/FRI

戦後70年

昨日のつづき。

戦後70年。ということは、いま70歳の人でも戦争の記憶はない、ということ。1945年で10歳前後、1930年前後に生まれた人が、自分の体験としての記憶(中井久夫のいう成人型記憶)をもつ最後の世代だろう。彼らは「少国民世代」とも呼ばれる。

『クローズアップ現代』では、被爆体験を直接、生徒に伝えるのではなく、まず教員に伝えて、平和教育に役立ててもらう試みが始まっていると伝えていた。

40代以下の教員は、親も戦後生まれという人が多い。私が語り部の通訳にとまどったように、自分も知らない、両親から聞かされたわけでもない、過酷な体験を生徒に伝えるためには、まず教員自身が理解を深める必要がある。戦争を知らない世代の、さらに次の世代にいきなり戦争の悲話を伝えることは、番組も示唆していたように、かえって逆効果かもしれない。その意味で、まず教員が戦争を知る、という試みは正しいと思う。

真面目な話、平和教育は、生徒に行う前に、生徒を殴ったり、いじめを放置したりするような教員たちに必要だろう。国家間の武力行使である戦争は個人の暴力性の延長線上にあるものだから。自らの暴力性を制御できない人が戦争体験を継承できるはずがない


記憶が風化していくことは、致し方ない。70年前の戦争の記憶が徐々に風化しているように、日露戦争や日清戦争の記憶はもはや直接には伝えられていない。

ましてや戊辰戦争や、さらに遡れば関ヶ原の合戦や源平の合戦、応仁の乱などは、記憶そのものは完全に風化している。

それでも、伝えられているものがないわけではない。文学や映画、マンガは言うまでもなく、絵画や彫刻などの芸術作品や博物館の展示など、さまざまな器=メディアを通して記憶は伝えられる。

大切なことはただ体験を伝えることではない。体験を通じて人々が苦しみつつ獲得した志、森有正の言葉を借りれば「経験」伝えていくこと

それを遂行するためには自らの体験を凝視し、観察し、分析し、吟味し、理解しもう一つの体験、すなわち表現をしなければならない


さくいん:森有正


8/8/2015/SAT

匿名で甲子園に出場できるか

素朴な疑問。前にも書いたこと

匿名、もしくはニックネームで甲子園大会に出られるか? インタビューを拒否、顔のアップ映像を拒否できるか?

何かの事情で他県の高校に進み、それを知られたくない人もいないとは限らない。

アマチュアの選手全員が有名になりたいと思っているわけではないはず。


8/9/2015/SUN

画鬼・暁斎 ― KYOSAI 幕末明治のスター絵師と弟子コンドル、三菱一号館美術館

アール・ヌーヴォーのガラス、パナソニック汐留ミュージアム
芸術新潮 2015年7月号 - 特集 とんでもない絵師 河鍋暁斎、新潮社、2015

先週末、両親と美術館をハシゴした。月に一度くらいはどこかへ連れ出したいとは思うものの、さすがに80代の人を連れて夏の海や山は無理。映画の次は美術館にした。

東京駅で、地下街から丸ビル前に出て三菱一号館美術館へ。そこからはタクシーで汐留ミュージアムまで行くことで、酷暑を避けることができた。


河鍋暁斎を見るのは初めて。作品の量と幅の広さに圧倒された。正統な狩野派の掛け軸から、動き出しそうな猿や鯉の絵、江戸の町人を素描する風俗画から、かなりエグい春画まで。眺めているだけで満腹になる展覧会だった。

常識人の枠を逸脱していたので、国内の人には変人扱いされた一方、ジョサイア・コンドルをはじめ、お雇い外国人に人気があった。ルネッサンス期の万能人のように見られていたのかもしれない。


三菱一号館と汐留ミュージアムは、交通の便がよいので頻繁に訪ねる。展覧会によって行くというよりも、ときどき馴染みの美術館へ散歩に行く感じ。三菱では明治時代の丸の内の様子や当時のサラリーマン生活を展示する資料室が何度見ても面白い。

汐留は、ルオー作品を多く所蔵しているので、いつ行っても何かが展示されている


三菱一号館と汐留ミュージアムは都心にあり、展示室は広くはない。郊外にある美術館ほど、ゆったりした気分にはなれない。しかも、たいてい混んでいる。

都会の美術館には、都会の美術館なりの楽しみもある。涼しくなったら、一丁倫敦の古地図を持ってウインドーショッピングをしよう。

60年前の丸の内OLが誇らしげに案内してくれるだろう


さくいん:三菱一号館美術館汐留ミュージアム


8/10/2015/SUN

甲子園を止めて高校総体の中継を

甲子園の野球大会を全試合、放映することはやめて、代わりにすべてのインターハイの種目の決勝戦を放映してはどうか?

そうすれば、もっと多くのスポーツに関心が広がり、各種目で競技人口も増えて裾野が広がるだろう。

ほかのスポーツ、とくにサッカーに対して野球人気の相対的な凋落をみれば、高校生の野球の試合を全試合、全国放送する意味は薄くなりつつある。

文科省はオリンピックで獲得するメダル数の目標を設定している。そのこと自体、馬鹿げたことと思う。それでも、もし、多くの種目で多くの活躍を希望しているのであれば、一つのスポーツ、しかも今現在、オリンピックの種目ではない野球に多大な資源と時間をかけているのは合理的でない。

朝日新聞の商売や文科省や高野連の思惑など、「大人の事情」だけで野球優位を続けていては、ほかの種目の競技人口が増えたり、優秀な選手が育つこともないだろう。


8/12/2015/WED

老いへの歩み、黒井千次、河出書房新社、2015


老いへの歩み

黒井千次を読んだと話したら、私の読書の師匠が新しいエッセイ集を買い、読み終えたからと貸してくれた。

文章が読みやすい。読んでいると情景がすんなりと浮かんでくる。そして、書き手の思いがゆったりと読み手の心に広がっていく。

奇を衒ったところもなく、刺激的な表現もない。それでも、文章に味わいがある。

文章を書くことが上手になりたい


こんな文章を好む。読書の好みに関していえば、私は実年齢よりも老いているかもしれない

それは、もちろん、文学の世界へ招き入れてくれた人の影響が大きい。

最近、若手で、若い人に人気のある朝井リョウの小説を読み始めたところ、5ページも読めなかった。21世紀の文体は、私には夏目漱石の文章くらい難しい。昭和に流通していた言葉に翻訳してほしいくらい。


さくいん:黒井千次朝井リョウ夏目漱石


8/13/2015/FRI

夏の思い出


8/14/2015/SUN

マンモス中学校に残る謎

1学年10クラスもあった80年代前半の中学時代。

2年下の学年では、体育や技術の教員が英語を教えていた。ほんとうに英語科の免許を持っていたのか、疑問。

一人が複数科目持つのは、免許がなければ、当然、法律的に問題だろうし、仮に免許を持っていたとしても、授業の準備などを考慮したら、実務的に無理ではないか。いずれの教員も部活の顧問もしていた。

幸い、私は三年間、英語しか教えない教員に英語を教わった。

子どもの数が多かった70年代から80年代にかけて、1,000人以上の生徒数をかかえる小学校・中学校も少なくなかった。

厳しい校則体罰は多すぎる生徒を「管理」するための必要悪だったのかもしれない。教科担当のあやしい配置も当時の学校経営の難しさを示している。

だからといって、人権を無視した校則や不要な暴力は、今でも絶対に許せない。

大人になってもこれだけ苦しめられているのだから、公式に告発したいくらい。

それでも、まだ、「お前が弱いだけ」「嫌なことは忘れろ」と言われるのか。


さくいん:70年代80年代


8/16/2015/SUN

盆休み

今週は夏休み、世間で言う盆休みだった。548連休中の私にとっては特別ではない。

家族親戚が一堂に顔を合わせる機会はなかなかない。世間の「休み」は貴重。それでも一人、受験生が多忙で、親戚縁者全員集合、というわけにはいかなかった。

2歳から82歳まで、皆が健康であるのはありがたい。病を患っているのは私だけか。

幼い甥姪と遊ぶ。可愛くてしかたない。我が家ではもう誰も遊ばなくなったおもちゃをあげた。

幼い子を見ていると、我が子の幼い頃も思い出す。

あの頃」はまだ病気ではなかったか。すでに何かが狂いはじめていたか。つい余計なことを考える。

呑んで、食べて、昔語りをして⋯⋯そういう夏休みも終わった。

548連休はまだ続く。


8/17/2015/MON

奥付に編集者の名前を

本の奥付には著者の名前の横に発行人としてたいてい出版社の社長の名前が記載されている。編集者の名前は著者があとがきで謝辞とともに触れられる程度。

編集者は、音楽でいうプロデューサー。作品を企画し、装丁に関わり、著者を支援し、ときには遅筆の著者を叱咤する。場合によっては、内容や全体の構成までも関わる。

ある小説の作家のブログを読んでいて、とても驚いたことがある。彼曰く、作品の舞台から物語の展開、いわゆるプロットまで編集者や出版社のほうで決められていて、著者は決まった筋書き通りに物語を書いているだけ。

こうなると、「作品」とは、いったい誰の作品なのか、わからなくなってくる。


読者として外から見ていると、編集者こそが、本という製品を作っている。企画、出版予定日、装丁、単価、そうした、言ってみれば「製品」としての本の部分は、主に編集者側が提案しているのではないか。

極端な言い方をすれば、上に書いたように著者は本文を書いているだけ、ということになる。実際、荒川洋治は著者は出版されるまで装丁を知らないこともあると言っていた。


映画やテレビドラマでは、ふつう長い長いエンドロールがあり、一つの作品の製作に、さまざまな役割で多くの人が関わっていることがわかる。もちろん彼らの名前もわかる。

本ではそれがない。不思議なこと、この上ない。

編集者の関わりは名前だけの発行人よりずっと大きい。そういう現場での責任者である編集者の名前が、公式に記載されないのはおかしいと思う。


さくいん:荒川洋治


8/19/2015/TUE

やや不眠症

散歩セット

午後2時。

睡眠が安定していない。

仕事をしているときも、昼食後に睡魔が襲ってきて、昼休みに少し眠ることもあった。退職後は毎日必ず午睡していた。それでも夜も自然に眠くなり、23時頃には床についていた。

最近、午睡はしていない。ところが、夜、なかなか寝付けない。布団に入ってから眠るまで1時間くらいかかる。able, anger, above…といった具合に、一つのアルファベットから始まる単語を考えているといつの間にか入眠している。

これは、森有正が眠る前にしていたこと。森は、フランス語の単語を400個ほど数えていて、浅い夢をみることがあった(「流れのほとりにて」、1967年6月3日、『エッセー集成 1』)。

冷房は1-2時間だけかけている。暑くなるせいか、目が覚めて、水筒から麦茶を飲む。これが夜中に2、3度ある。


朝は早く目覚めてしまう。これも暑さのせいだろう。7-8時に起きて、朝食をとると、ここで眠くなる。

朝食後に横になると昼頃まで眠ってしまう。今日もそうだった。

5月に痛めた膝がよくならないので、運動を控えていた。そのせいもあるのだろう。

夕方、少し歩こう。


夕方、近くの公園まで歩いてきた。膝に痛みはなかった。先週はいつもの散歩はせずにいたのがよかったのかもしれない。陽が傾くのが少し早くなったのか、暑いとはもう感じない。水筒を開ける回数も減った。これなら、遠くまで歩いても自転車で行っても大丈夫だろう。

写真は、私の散歩セット。小さなトートバッグに水筒とタオル。バッグのロゴの上に置いてあるのはiPhone用ケース。万一落とした場合に備えて外出するときにはケースに入れている。もともとは眼鏡屋でもらったメガネ用。サイズがちょうどいい。

バッグは、父が船旅のビンゴ・ゲームで当てたもの。客船の名前が書かれている。

今は耳掛け式のイヤホンを使っている。


さくいん:森有正


8/21/2015/FRI

川崎のぼる〜汗と涙と笑いと〜展、三鷹市美術ギャラリー

場所は、以前、クールベ展を見たところ。

原画の迫力がすごい。印刷された雑誌とはまるで違う。川崎のぼるのように画力のある作家ならなおのこと。

星飛雄馬と星一徹。雑誌の一ページだと物語の一部分として見てしまう。連載の表紙やクライマックスのページを見ると、漫画を超えて、一枚の肖像画のように見える。

作画を依頼されたとき、川崎は野球をあまり知らなかったという。野球漫画といわゆるスポ根漫画の金字塔『巨人の星』は、野球を知らない人が描きはじめていたとは。驚きの逸話。


『巨人の星』のラストシーンが漫画とアニメで違うことも知った。

私の記憶ではアニメの最後の場面は、一徹が飛雄馬を背負って球場を出て行くところ。展示されていた最終回、最後のコマは倒れている飛雄馬に一徹が頭を下げて、つぶやく。「ワシたち親子の戦いは終わった」。


面白かったのは、上下二つに分けて描かれた自叙伝の理想と現実。

『まんが道』に描かれた藤子不二雄をはじめ、のちに大家になった昭和の漫画家は皆、貧乏生活からキャリアを始めている。生活の先行きもわからないのに漫画に若さの全てをかける情熱的な姿は、怠惰な私の理解を超えている。

もう一つ、あらためて驚いたのは手塚治虫が当時の少年たちに与えた衝撃

川崎のぼるは、手塚治虫の漫画を一目見て、漫画家になる志をもったという。それから一心不乱に漫画描きに励んだ。一つの出会いで一生を決めてしまうとは、これは大事件と言ってもいい。


川崎は大阪育ち、三鷹に長く暮らしたあと、現在は熊本に住んでいるという。熊本で学校のホールに飾るレリーフの下絵も展示されていた。

思っていた以上に充実した展覧会だった。


8/22/2015/SAT

RADIO1980 2015夏、NHK-FM(出演:谷山浩子)

昨夜は、谷山浩子が案内役を務めたNHK-FM「RADIO1980 2015夏」を聴いた。80年代の音楽と、谷山浩子のおしゃべりとピアノ弾き語り。

谷山浩子のコンサートに行ったのは、高校生の頃。神奈川県民ホールで聴いた。同じ頃、同じ場所で飯島真理も聴いた。

谷山浩子は、さだまさしオフコースと同じように十代のあいだ、よく聴いていたアーティスト。その頃の曲は今でもよく聴いている。谷山浩子の場合は、最近では、NHK「みんなのうた」で岩男潤子が歌った「ピヨの恩返し」がよかった。昨夜は非常に珍しい谷山浩子バージョンを聴くことができた。


谷山浩子の好きなところは、おしゃべりしていたかと思うと、すっと弾き語りを始めるところ。音楽が身体に密着している感じがする。ギターでは坂崎幸之助が同じスタイル。

昨夜弾いた曲。「おはようございますの帽子屋さん」と「潮騒のメモリー」。17歳のときの曲と、大人気だった朝ドラ『あまちゃん』の挿入歌。「潮騒のメモリー」は、奇しくも、「17才は/寄せては返す/波のように/激しく」と歌う。 「潮騒のメモリー」を谷山浩子の声で聴けるとは思いもよらなかった。録音していなかったのが悔やまれる。

そのほかに、NHK「みんなのうた」から彼女お気に入りの三曲。

「雨の遊園地」「誰も知らない」「ドロップスの歌」。「誰も知らない」は谷川俊太郎作詞の作品。

流れた曲は、いずれも放送当時のオリジナル版。前の2曲は、田中星児の歌声で覚えている。田中星児が「みんなのうた」を歌う「うたのおにいさん」のLPレコードを持っている。そのうちCD化されるだろうと待っていても、一向に販売されない。

最近では、MP3で録音できるレコード・プレーヤーという製品がある。そのうち買いたい。

持っているレコードが音質を保っていればいいけれど。


余談。

「雨の遊園地」の歌詞に、「白いレインシューズに雫が光る」という一節がある。長い間、「練習ズ」と思っていて、バレエの練習に使うトウシューズを思い浮かべていた。

雨のなかで薄い生地の靴を履いているのはまったく奇妙な光景なのに、なぜか、ずっとそう思い込んでいた。

『巨人の星』の主題歌にある、「思い込んだら」を「重いコンダラ」と思い込み、整地ローラのことと勘違いしていたことと同じ。


2015年12月17日追記。

『RADIO1980 2015冬、NHK-FM』(出演:谷山浩子/太田裕美)で「Desert Moon」がかかった。


さくいん:NHKラジオ谷山浩子


8/26/2015/WED

原子力空母の安全性

今更の疑問。

米軍は原子力推進の軍艦を多数保有している。大地に固定されていた原発は津波で故障した。原子力推進の軍艦は、海上の悪天候で不測の事態に陥ることはないのか?

横須賀は、西太平洋を担当する第七艦隊の重要拠点。航空母艦も配備されている。5月までジョージ・ワシントンが母港としていた。同艦は修理と核燃料交換のために、米国に帰投した。入れ替わりで10月にロナルド・レーガンに配備される。ということは、原子力船が首都圏の港を母港としていること。洋上にいなければ、原子炉が首都圏に停泊しているということになる。これは安全なのか?

南海トラフの大地震が発生し、津波が東京湾を襲うとき、停泊している原子力空母はどうなるのか? 航空母艦は、原子炉だけではない、核兵器を搭載している可能性もある。

日本政府は、日本に寄港する米軍艦が核兵器を搭載しているかどうかさえ、公式に問い合わせることができない。原子炉や核兵器の管理基準を訊くことは、ましてや、これまで事故があったかどうかも、停泊時の津波対策も、確認することはできないだろう。


8/27/2015/THU

日本語なのにわからない

自分は、日本語を使って生活している、と思ってはいても、実は、思考回路は英語的になっているのではないか。前にも同じようなことを考えたことがある妄想にばかり取り憑かれていて、しばらく言葉について考えることがなかったので、自分でも驚いた。

きっかけは新聞広告にあった一文。

平成27年12月1日より「ストレスチェック制度」の導入が義務づけられました。

一読したときには文意がつかめなかった。12月は未来のことなのに、「義務づけられました」と過去形になっている理由がわからない。もう一度、読み直し、すべての企業は12月1日までに「ストレスチェック制度」を導入することが義務化された、という意味とわかった。

これを英文で書けと言われれば、私なら、“Stress Check System is mandatory from Dec 1.” もしくは、“Stress Check System must start on Dec 1.” あるいは、 “start on” を “start by” としてもよい。


ポイントは二つある。

一つめ。日本語では、受動態と過去形が混同されないように書かなければならない。「義務と決まった」のは確かに過去のことだろう。ところが、受動態で義務化「された」として、そのうえ未来の日付を先に書いているので文意が混乱している。

受動態を使いたいのであれば時制が混乱しないように「12月1日までに導入することが義務づけられました」としたほうがいい。

「より」を使いたいのであれば、「12月1日より義務化となります」でわかる。

二つめ。start は on と一緒に使うべきで、from と続けるのは間違っている。これは学校で習う。従って、日本語でも、「12月1日「より」始まる」と書かれると、違和感が残る。自分ではそう書かない。12月1日「に」始まると書くだろう。


元の文でも違和感のない人もいるかもしれない。私にはわかりにくい。いわゆる悪文にみえる。

それは私のなかでは、“start” は “on” と合わせて「〜に始まる」という意味になる、と覚えているからだろう。つまり、私の中では英語的な感覚があり、それが日本語を読むときに影響を与えている。

多和田葉子『エクソフォニー』を読んだ時、「よい週末を」のように、元は英語の慣用句であった言葉でも、今では自然に日本語の一部になっている言葉もあることを知った。

完全なバイリンガルではない私でも、英語を学んだり使ったりしているうちに英文法の考え方が日本語の読み方や書き方に影響を与えている。

慣用句のようなひとまとまりの言葉でなくても、日本語の文法じたいが英語から影響を受けている、と言えるのではないか。

これは当然のことかもしれない。一人の人間が複数の言葉を使おうとする時、日本語は日本語文法で、英語は英文法で、と使い分けるのは、困難だし、第一不自然だろう。何か一般的な「文法」というものが不完全であろうと人のなかにあり、そこから必要に応じて日本語なり英語なりの単語や文、慣用句が出てくる。

もとより、完全な文法を身につけている人などいない。使われている言葉から見出した法則が文法なのだから。一人ずつ異なっているに違いない。


丸山圭三郎が、ソシュールの言語学を援用して、「ランガージュ」と「ラング」としたものが、私が考える「文法」と「日本語」や「英語」に近いかもしれない。

言語学を専門的に勉強したわけでもないし、丸山圭三郎の本を読んだのも20年以上前なので、迂闊なことを書く前に止めておく。

私が通う図書館には『丸山圭三郎著作集』(岩波書店、2014)がまだない。早く購入してほしい。


さくいん:丸山圭三郎


8/28/2015/FRI

ひろったらっぱ、新美南吉文、葉祥明絵、保坂重政制作、にっけん教育出版社、2003


ひろったらっぱ

戦争で名を上げる、という考え方そのものが、私を含めて戦後日本で育った人には理解できないことだろう。今の日本では戦争は悪いものと叩き込まれているのだから。

「お話し会」などで、読み聞かせるときには、「武勲」ということをやさしく説明しておかないと、物語もピンと来ないだろう。

今の子どもに読み聞かせるというよりは、成長して「武勲」という言葉を覚えた人が、戦前の子どもたちの心理を想像しながら、自分自身に読み聞かせる絵本かもしれない。

ちょっとウェブで調べたところ、「世界の警察」であるアメリカでも、軍人は子どものなりたい職業の上位に入っていない。


さくいん:葉祥明