6/13/2009/SAT
携帯電話を買い換えた。画面が大きい、いわゆるスマートフォン。ネット・サーフィンも音楽も、業務のメール確認もこれ一つでできる。
便利なのはありがたい、でも、これまで図書館やレンタル店で借りてきて録音してきた1万5千曲以上の音楽をほとんどフォーマット変換しなければならない。自動でできることになっているといっても、実際にパソコンにやらせたあとで見てみると、変換できていない曲がたくさん残っている。
音楽をかけると、アルバム・ジャケットの画像が画面に表示される。もちろん、正しい画像が登録されていればの話。間違った画像をソフトウェアが勝手に登録していることもあるし、有名なアルバムでも、自動的に表示されないこともある。これから音楽のフォーマット変換もアルバムのジャケット探しも自力の手動でしなければならない。
要するに、便利で楽しいガシェットとはいうものの、使いこなすためにはかなり時間がとられる。
部屋を片付けることは苦手な癖に、コンピュータのデータの場合、きちんと整理されていないと、どうにも落ち着かない。「画像なし」「アーティスト情報なし」「トラック1」など味気ない表示を見ていると、あまりいい気持ちがしない。
もう一つ、気に入らないことがある。画面が大きなスマート・フォンでは、『庭』の全体も表示できる。標準の表示では文字が小さいけど、二本の指を画面上で広げればちょうどよく拡大して見ることもできる。ところが、パソコンのブラウザ向けのCSSには反応しないらしく、これまで苦労して語句や音節で折り返しをつけてきた文章が節操なく、べったりと左右に広がる。
調べてみると、もう一つ、専用のCSSを作っておけば、パソコンと同じ見映えで表示をさせることはできるらしい。これまで作ったCSSのすべてに分岐を設けるとなると、それもまた時間がかかりそう。
音楽データベースの整理やCSSの修正に時間を費やすとなると、『庭』の更新頻度は少なくなるだろう。そのうえ、最近は、業務も忙しい。5時に起床、6時に出発、21時帰宅、22時就寝の生活がつづいていて、文章を書く時間がなかなかみつけられない。それでも業務の内容は以前ほど異常な緊張を引き起こすようなものではなまだなく、精神的には落ち着いた生活を取り戻しつつある。
電車のなかでは過去の文章を読み返し、推敲を続けている。インターネットの世界を自分のタコつぼにとじこもった“Daily Me”と揶揄した人がいた。私の場合、この6年間について言えば、“All the past of me”ということになるか。タコつぼとは言え、読むたびに自分自身について発見があることも確か。
飽きるほど読み返しているつもりでいても、まだ読むたびに誤字脱字が見つかる。
写真は、横須賀、鷹取山から見えた江ノ島。
6/20/2009/SAT
今週は、一週間まるまる出張だった。前の会社の2年間では泊まりがけの出張はほとんどなかった。その前に働いていた会社でも会社が傾きかけてからは出張がなくなったから、海外出張を別にすれば、一週間もの出張はほとんど3年ぶりのこと。
仙台、京都、広島、戻って京都。考えてみると、国内をこうして旅する出張はしたことがない。学生時代、通訳のボランティアでインドからの訪問者を宮崎県と長崎県の主に僻地の学校を視察してまわったとき以来か。
広島では、駅ビルでお好み焼きを食べた。新しいショッピング・モールの一角に昭和の雰囲気を残したお好み焼き屋や居酒屋が並んでいる。不思議な空間だった。それから平和公園まで歩いた。「散歩に行くから」と言いかけると、アメリカの本社からの来訪者はためらいなく、「たくさん食べたしな」とついてきた。ついてきたどころか、広島の街は彼のほうが詳しかった。前に来日した時に朝、ジョギングをしたという。
広島の街は、ほどよい大きさに感じる。仙台でも、札幌でもそう感じた。都会から少し離れた郊外で育った私には、都会過ぎても騒々しいし、田舎過ぎても不安になる。街を歩くと、仕事帰りの人や部活帰りの高校生は見かけるものの、夜も8時を過ぎるとだいぶ静かになる。騒いだり、踊ったりしている人は見かけない。
路面電車が静かに走る宵闇の街を眺めながら、広島を舞台にした映画“Hiroshima, mon amour”で描かれていた1950年代の広島の風景を思い出していた。主演のエマニュエル・リヴァが当時撮影の合間に自ら撮り残していた街のスナップ写真が発見されたという記事を読んだ。
原爆ドームの前まで来た。内側から灯りで照らされていて、暗い空に浮かび上がって見える。その前を元安川が静かに流れている。この川には高い柵がなく、それどころか、ところどころ階段があって、川面まで降りられるようになっている。川の反対には、平和公園。
もう20年以上も前の夏、ここへ来たことを思い出した。大学に入ったばかり、19歳だった。
そのとき私はある国際交流プログラムのコーディネーター兼通訳ボランティアだった。米国の、余計なことかもしれないが超がつくようなエリート高校生がサマー・スクールの一プログラムとして来日して、日本の伝統文化を体験したり、高校生と交流したり、京都を観光したりするプログラム。当初は横田や横須賀に連れていくという案もあったくらい、少々過激なところもあるプログラムだった。
アメリカの若者に広島を見せるという発想は、客観的には画期的なことだっただろう。広島で、平和運動をしている高校生との交流もしたし、語り部と呼ばれる生存者の話を聞く機会もあった。
客観的には画期的、と書いたのは、主観的にも画期的ではありながら、もどかしさや矛盾をを自分のなかに残したから。
私自身、広島へ行ったのは初めてだった。語り部の人たちが話すことはどれも初めて聞くことばかりだった。それなのに、通訳として、あるいはコーディネーターとして、訳知り顔になって、わずか数年若い人たちに説教を垂れるような口調になってしまう自分がもどかしかった。日本人として、と添えても、そのときの気持ちについては間違いではない。
通訳という仲介役とはいえ、戦争を知らない自分が戦争について語っていることがもどかしかった。また、ちょうどその頃、加害者としての日本国、日本人、日本国民、そういうことが政治的にも、それから学問や思想、いわゆる論壇の世界でも話題になりはじめていた。
日本人として広島を伝えたいならば、日本人が加害者となった場所も知っていなけれればならないのではないか。そもそも一度も外国へ行ったことのない自分が、外国から来た人に「日本」を紹介して「日本」の何が伝えられるだろうか。
翌年も継続することになっていたプログラムに参加しつづけることにためらいを感じ、私は広島から遠ざかった。そして、親しくなった参加者を訪ねて、まずはアメリカへ行き、それから、沖縄に行き、さらに南京に行ってみた。
それで、そのあと、どうなったのか。いろいろなことがあった、一言で言えば、そういうことになる。結果だけ書けば、国際交流とも平和運動とも縁のない日々を今は過ごしている。
そのことが軽く悔やまれる一方、あの夏、広島で感じたわだかまりは、国際交流でも平和運動でも、それから政治思想でも解決できないものだったに違いない、今になって、そんな風にも思う。
それに、少し見方を変えてみれば、アメリカ、台湾、中国と日々通信をしながら業務をこなしている今の生活は十分国際交流と言えるし、私が関わっている業界も、遠回しにではあるものの、世界平和に貢献していないとも言えなくもない。
同行者は口数少ない男だった。原爆がどうとも、日米戦争がどうとも、現代の核兵器についても、何も言わなかった。ただ黙って世界遺産の夜の散歩を楽しんでいるようにも見えたし、彼なりに“ヒロシマ”への思いが何かあるようにも見えた。でも、あえて、それは尋ねなかった。私も尋ねられたくなかったから。
資料館の前で、この建物は、コンクリートのデザインを得意にした建築家の作品か、と聞かれた。それは安藤忠雄のことだろう。彼は建築家になる前ボクサーだった。ここの設計は東京都庁と同じ、丹下建三。平和公園では、そんな短い会話をかわした。
写真は、広島駅前で停車する路面電車。新しい携帯電話で撮影。広島では、低床の新型もたくさん走っていた。このあとの散歩では一枚も撮影しなかった。
6/27/2009/SAT
宗教批判をめぐる―宗教とは何か〈上〉、田川建三、洋泉社MC新書、2006
マタイ福音書によせて―宗教とは何か〈下〉、田川建三、洋泉社MC新書、2006
キリスト教思想への招待、田川建三、勁草書房、2004
日本の名随筆 別巻100 聖書、田川建三編、解説、作品社、1999
通勤時間が長くなったので、電車のなかでもっと本を読むことにした。図書館の新書を集めた棚で書名が気になり、手にとった。
田川の名前は、キリスト教関連の書棚で見ていたので知っていたけれど、実際に本を読むのははじめて。
こういう攻撃的な文章を、正直なところ、私は好きになれない。こういう書き方は、まず人物に対する評価を○か×の単純なものにしやすい。一度、×をつけた人物には意地でもよいところを見つけないようにし、○をつけた人物に対しては、つい甘くなりがち。
それでも上下2冊の新書を読んでしまい、もう一冊、単著まで読んだのは、彼の論点に気づかされるところが少なくなかったから。
聖書は、最初から出来上がっていた「神の言葉」ではなく、書き継がれてきた「人間の書物」。そこまでは、聖書学の本をいくつか読んでわかったつもりでいた。そのときはまだ誤字脱字の類はいはともかく、書き換えられていたのは、それぞれの時代、それぞれの写本記者の善意の結果と思っていた。
ところが、田川に言わせれば、新約聖書の各章にはそれぞれ著者の偏見や先入観、派閥の主張や、敵対する派閥への牽制などまでが含まれている。
日本語訳に対する批判も厳しい。こうなると、どんな聖書を読めばいいのか、聖書のどこを読んだらいいのか、わからなくなる。
新約聖書の各章に隠された偏見や意図的な原資料の改竄を暴露しながら、それでも田川は、そうした雲に覆われた奥にあるキリスト教の本質については語らない。
むしろ、キリスト教には本質はない、ということが田川の主張の一つ。つまり、イエスの教えは、1世紀のユダヤ社会を支配していた「宗教」に対し、あらゆる面で徹底して「反」(アンチ)の態度をとった。形式的な律法を守れば救われる、金や金で買ってきた犠牲を神殿に捧げれば救われる、聖職者の指示に従順であれば救われる……。イエスは、こうした考えに逐一反論した。言葉を換えれば、イエスの教えは、新しい宗教ではなく、宗教そのものに対する批判だった。
だから、田川の聖書解釈はそのまま現代のキリスト教教会やその組織に向けられる。その論理じたいはわかるし、共感するところもないわけではない。
田川は、キリスト教の宗教批判の先に社会への批判、社会改革や革命への原動力を見ようとする。ここから、わからなくなってくる。
田川は、口先だけは隣人愛を説きながら、自分たちの組織に閉じこもっている現代の信者を批判する。誰にでも思いやりをもつことのほうが、教会に毎週通うことより、よほどイエスの教えを守っていると言う。それはその通りかもしれない。
この論理による批判は、18世紀のルソーも同時代の高踏な哲学者たちに向けてしていた。
書物のなかで遠大な義務を説きながら、身のまわりにいる人たちにたいする義務を怠るような世界主義者を警戒するがいい。そういう哲学者は、ダッタン人を愛して、隣人を愛する義務をまぬがれようとしているのだ(『エミール』、今野雄二訳、岩波文庫、1962)。
では、キリスト教の本質は、現体制への批判だけなのだろうか。田川の理解に従うと、一方では、キリスト教は単なる道徳理念や倫理規範になってしまうし、他方では、現行の社会体制を改革するための新たな運動や組織づくりに傾く。
そのいずれも、本来、イエスが批判していたものであるし、田川が新約聖書の解釈を通じて批判しているものではないか。いずれも形骸化したり、「金を差し出す」「指導者に服従する」という組織の論理が優先されてしまう可能性があるのだから。
そうならないために、不断の、あるいは永続的な革命、という言い方は、確かにできるかもしれない。しかし、その言葉こそ、独り歩きをして数えきれないほどの人々を犠牲にしてきたのではなかったか。
田川の議論は、堂々巡りをしているように見える。その原因は、彼の文体にあるような気がしてならない。「反」(アンチ)であることと「非」であることとは違う。「反」の姿勢をとる限り、その姿勢が頑なであればあるほど、「反」しようとしている相手を強くすることになりかねない。
では、「非」の姿勢は、どうすれば貫くことができるのか。「非」という姿勢は田川が批判した現状維持に加担してしまうことはないのか。
私が「非」という言葉から引き出そうとしている姿勢を「しなやか」と呼ぶ人もいる。でもすでに擦り切れているようで、私はあまり好きになれない。鶴見俊輔は「風」という言葉を使っていた。言葉に共感はするけど、私自身の姿勢や行動にとっては実感が伴わない。
私自身の思考もどうやら堂々巡りに陥っている。ひとまず結論を書いておく。これまでにも何度も書いている。問題は、内容ではない、表現の仕方にある。
大事なのは思想ではない、思想をどの様に表現するかといふ事です。
久しぶりに過去に書き写した小林秀雄の文章を読み返していて、目にとまった一文。「アランの事」『全集 第三巻』から。
締まらないけど、このまま放っておくことにする。
ここまで書いて、田川建三の文体には反感をもちしながら、彼の考え方には魅かれるところがあり、図書館で彼の著作を検索してみた。
『イエスという男』(作品社、2004)には、彼の主張がまとめられていると彼自身書いている。ところが、主著といえるこの本が図書館では見当たらない。代わりに見つけたのが彼が編集、解説をしている聖書に関する随筆集。
彼が選んだ文章を読むと、個性的な文体に惑わされることなく、彼の考えていることが腑に落ちてくる。そのうえで、例の調子の解説を読むと、さまざまな宗教学者や思想家、小説家がとらえている聖書やキリスト教のどんなところに田川は不満をもっているのか、わかってくる。
田川は、新書で遠藤周作『イエスの生涯』を厳しく批判していた。主な理由は、史実の無理解や曲解、読者にわかりやすくしようとするあまり、宗教、ここではイエスの存在が「癒し」としてのみ強調されていて、イエスが発していた強烈な現実社会への批判や既存宗教への批判が薄められていること、など。一方、解説では、個人的には遠藤と親しいこと、彼には恩義を感じていることなどが書かれていた。
遠藤周作に対して、田川はなぜ畏敬と批判のように両義的な複雑な感情をもっているのか、随筆集に収められた小説『死海のほとり』の抜粋や解説を読んで氷解した。遠藤周作の作品は、売れたものほど、わかりやすい、単純に受け止められやすい。しかし、それは遠藤の本意ではなかったのではないか。
彼自身は、生涯、宗教をめぐり悩み、苦しんだ。ところが出来上がった作品では、その苦闘の痕跡は消えてしまい、表面的な読みをしていると救済や癒しばかりが前面に出ているように感じられる。この点は、『深い河』を読んだときに私も感じていた。田川に共感できる点もここにある。
ひろさちやの言葉だったか、「幸福になれるとか、救われるとか宣伝している宗教は、それだけで信じるに値しない」という箴言を聞いたことがある。言葉を換えれば、「信じる」ということは、まず苦しみを伴う。何を信じるのか、信じるということはどういうことか、信じながら生きるとはどういう生き方か、そうした問いに終わりはない。幸福や救済や癒しを感じるのは、その問いかけを止めてしまった証拠。
信じることをめぐる苦しみは人それぞれ。不器用、と言ったら失礼かもしれないけれど田川の攻撃的な文体は、実は彼の苦闘の姿の一面なのかもしれない。
写真は、5月の連休に登った横須賀、鷹取山山頂にある岩山。新田次郎『銀嶺の人』にも登場した場所。けが人が多く出たので、一時期ロック・クライミングは禁止になったと聞いていたけれど、この日は練習しているグループを見かけた。
さくいん:遠藤周作
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