選ぶのは「生き方」であり、「職業」でも「働き方」でもない


職業、仕事、労働、働くこと。そうしたことに多くの人が悩みを抱えている。とりわけ、自分の経験からいっても、若い年齢では思い悩むことが多い。年齢が高くても、悩まないわけではないけれども、悩む暇もなかったり、思い煩ったところで事態は変らないし、悩むだけ無駄だと思っているようにもみえる。ともかく、職業選択についてというと若者向けの本や記事が多い。

そんな本や記事のなかで最近よく見かけるのが、従来のような会社を選ぶ、いわゆる就社ではなく、職業で選ぶ就職のすすめ。このような考え方が生まれ、広まる理由は、雇用する側、される側の両方にある。

企業からみれば、環境に厳しいときには、組織に依存する人間より、組織を補強するような人間がありがたい。労働する側からみても、企業労働に全人格を預けてしまうような就社という考えより、自らの天職として職業をとらえるほうが、ずっと前向きではある。

しかし、と私は疑うやりたいことを見つけろ、やりたいことを職業にしろ、という標語は職業を取り囲む現実を充分に反映していないのではないか。そうした考えは、机上の空論、単なる理想論に終わっているように思われてならない。そのため、職業に向かう態度をかえって混乱させているような気がする。


会社ではなく職業を選ぶ、という考え方は、二つの点で問題がある。一つめは、職業の多面性を無視している点。二つめは、やりたいことという概念を非常に単純に安易に考えている点。

第一点。職業の目的は、仕事をすることではない、暮らしていくため。それだけでも、仕事を「やりたい」という理由で選ぶのは充分に危険。どんなにやりたい仕事でも、自分の生活が成り立たなければ、職業として適切ではない。

収入面だけのことではない。自分の健康を害するような環境や条件では続けることができない。反対に、生活を続けていくためには、収入面が少なくても、拘束時間や勤務場所を優先しなければならないこともあるかもしれない。

つまり、職業を考えるときには仕事そのものも重要であるとしても、それ以外にも考慮しなければならない点は少なくない。そして、どの面をどれだけ優先するか、あるいは、しなければならないか、は、人それぞれのはず。


私の見るところ、職業は四つの要素で構成される。仕事の内容。報酬。環境や条件。拘束時間やオフィス環境、通勤距離などはここに入る。そして、人間関係。大きく見れば人間関係も環境や条件の一部と言えるけれども、この点は、働くということを継続的に考えた場合、独立して考えておいたほうがいいように思われる。

働きがいとは、言ってみれば、これら四つの要素の満足度。その配分は人によって違う。違っていなければならない。なぜなら働く理由も、人それぞれに違うから。仕事をすることが目的の人もあれば、収入を得ることが第一の目的の人もいる。平日を楽しく過ごすことが目的の人もいれば、友人や仲間、恋愛相手を求めることを目的にしている人もいないわけではない。多くの人は、それぞれにいくらかの思いがあるはず。

これら四つの要素は、組織、すなわち会社が大きくなればなるほど、変化の度合いも大きくなり、自分で決められる度合いは小さくなる。そうなると、仕事そのものに積極的に関われるか、つまり、やりたいことに関わっているか、ということが重要になってくる。しかし、ここに第二の問題がある。

やりたいことがどれだけ具体的にイメージできるか、また、実際にしている仕事と関連づけられるかは、個人によってだいぶ違う。

たとえば、音楽に関わる仕事といっても、幅は広い。音楽家として人前で演奏を披露する人から、楽器の部品をつくる会社の人事部や経理部で働く人までいる。そのなかでどれだけ音楽と関わっていると感じるかは個人の想像力に依存する。


私が危惧するのは、やりたいことを職業選択の重要項目にすると、結局それを勝ち取った人とそうでない人、つまり勝ち組と負け組という意識を植えつけてしまうこと。

たとえば、やりたい職業がF1ドライバーだったらどうだろう。それは、世界中で数十人しかなれない職業。そこにたどりつけなければ、その人はやりたい仕事をあきらめたと思わなければいけないのか。仮に最終的に世界最高峰のドライバーになれたとしても、それまでの間の職業は、やりたいことを見つけるまでの修行でしかないのか、日々の糧を得ていて、税金も払い、社会と関わっているのに。

職業とは、総合的な活動。どれほど早く車を走らせることができる人でも、直線しか走ることができない人はF1ドライバーにはなれない。自宅でしか眠れない人もなれない。一年に一度、恐ろしい速さで走ることができても、毎週末に確実に走ることができなければ、プロのレーサーにはなれない。

これは、どんな職業にもあてはまる。一つの行為だけで成り立つ職業などない。必ずそれに付随する行為、周辺の行為がある。職業として収入を得る以上、それらを拒絶することはできない。


アマチュアは違う。直球を打つことが好きなだけなら、いつまででもバッティング・センターで打っていればいい。変化球を打ち返す技も必要ないし、バントをすることも、守備の技術いらないし、監督の指示に従う必要もない。ビジター・グランドに出かける必要もない。

やりたいこと、という言葉は非常にあいまい。働くうえで、それを考えることは必要だし、職業を前向きに考える契機にもなる、と思う。けれども、それだけでは職業にはならない。むしろ、職業は、やりたいことをつきはなしたところにあるのではないだろうか。自分はやりたいことをやっていると信じているとしても、一緒に働いている隣りの人は同じ気持ちであるとは限らないのだから。

もう一つ、やりたいことにこだわるために派生する問題。それは職業上の制約を、やりたいことだから耐えられるとか、やりたくないことをやっているから我慢できないとか、主観的な忍耐の問題にすりかえてしまうこと。


職業は、結局のところ、取替えのきく活動。あの素晴らしい歌声は、あの歌手でなければ出せないかもしれない。それでも、ある時刻に、あのコンサートホールで歌うという職務は、他の誰かでもできる。ここに仕事と職業の究極的な相違がある

本来、取替えのきく活動を、主観的な忍耐の問題にしてしまえば、職業は単なる我慢大会になってしまう。より辛い状況に耐えられる人が、より高い評価を得る結果になる。職業とは、そういうものではないだろう。

むしろ職業として遂行している人、つまりプロは、後からその職業につく人のために、報酬や待遇、社会的地位を向上させるよう周囲に働きかけるべきだろう。やりたいことだから、自分は無償で構わないと我慢してしまえば、その人の後には、誰もその職業につけなくなる。

また、人は職業だけをして生きていかれるわけではない。好きなことをして、仮にその職業で社会に貢献しているからといっても、生きていくうえでのそのほかの義務から免れるわけではない。地域住民、家庭人、国籍をもった国民としても、それぞれに義務がある。最近の職業についての議論は、どれも職業だけを生きる場にみなしている嫌いがある。


やりたいことをやれ、行きたい道を進め。そんな標語は以前にも聴いたことがある。それは、大学進学を決めるときのこと。自分が勉強したいことをあらかじめよく考えなさい、とよく言われた。

何をしたらいいのか、わからないのに受験勉強だけしなければいけないとき、何でも興味を持ったらいい、そういう助言をくれた人がいた。代々木ゼミナールの古文講師、土屋博映先生。

先生は、自分の体験を踏まえて諭してくれた。受けられるだけ受けてみればいい。入ったところが法学部ならば、法律を勉強すればいい、文学部ならば文学を、経済学部なら経済学を勉強すればいいじゃないか。何が自分に向いているか、面白いと思うか、まだ勉強してもいないのにわかるはずがない。そう言って励ましてくれた。

職業にも、まったく同じことが言えるのではないか。向いているかどうか、好きかどうかはやってみなければわからない。苦手だと思っていたことが、自分を変えていく経験になるかもしれない。畑違いの人間が入ることで、組織が活性化することもあるかもしれない。


そして、職業である以上は、好きだろうとそうでなかろうと、向いていようとなかろうと、人は職業上、それ以上でもそれ以下でもない責任を負い、そこから報酬を得る。だから問題は、やりたいかどうかではない、職業として誠実にこなすかどうか、のはず。

職業として誠実にこなす、とはどういうことか。それは、日々働きながら考えて、試行錯誤していくしかない。その答えがわかっていたら、こうして文章を書いて考える必要もない。


さくいん:労働土屋博映


碧岡烏兎