この絵本に出会うまでの長い道のり。小さいときに読み聞かせてもらった記憶はない。
Shulevitzの作品で最初に読んだのは、挿絵だけを彼が担当した『空とぶ船と世界一のばか』。画風が気に入り、『あめのひ』『よあけ』『あるげつようのあさ』など、彼自身が文章を書き、絵を描いている作品を続けて読んだ。
惹き付けられたのは、内面的であったり、宗教的な、あるいは最近の言葉を使えば“Spritual”な雰囲気。それでいて、説話めいたところはなく、読後に心に何かを考えはじめる種を残していく。日本語では未訳の作品も、海外出張の折に書店で見つけては土産に買い、わかってもわからなくても英語のまま読み聞かせたりもした。
そして、本書『たからもの』、原題“The Treasure”。本書は1979年初版、1981年度コールデコット・オナー賞受賞作品。
私が持っているのは、1996年発行のペーパーバック版。初めて読んだのは、2003年。2004年の正月に再読、その後、シンガポールの書店でほかの作品といっしょに買った。
梅雨のはじめ、月曜日はいつも憂鬱になるけれど、外に出れば気分も少しは変わる。北陸で一泊して、めずらしく新幹線で帰京した。
まだ帰るには早いので、地下街で本屋と古書店をまわる。これまで通ることもなかった精神医学の書棚で立ち止まり、中井久夫の著書や、トラウマについての本を立ち読み。最近、読書の傾向が劇的に変化している。買い物はしない。
まだ時間があるので、駅につながる百貨店へ。気分を変えるために酒器を見て、もう一度書店に向かう。一回りして帰る間際、絵本の売り場で“The Teasure”の日本語版を見つけた。
訳文は、質素でいて厳かなところもある原文の雰囲気をよく伝えている。時間をかけて言葉を選んだことが伺われる。
絵本を買い、帰宅してから、英語版と読み比べてみた。繰り返し二つの言葉で読んでいるうち、この絵本の読み方が少し変わってきた。
男が<いのりのいえ>の壁に刻んだ言葉。
「ちかくに あるものを みつけるために、
とおくまで たびを しなければならないこともある」
原文は、
Sometimes one must travel far to discover what is near.
以前は、「とおくまで」というところを意識して読んでいた。いまは、“one must travel”が気になる。
貧しい男がわざわざ遠くの都まで歩いていった、その正直に馬鹿がつくような一途な行為に目が向いていた。
「こともある」とは、つまり、「そうでないこともある、むしろそのほうが多い」ということ。確かに日常生活では、近くにあるものは、遠くに行かなくても見つけることができることが多いかもしれない。
同じように近くにあるものでも、遠く旅してから見つけた場合と、すぐ見つけた場合では意味が違う。もし男が偶然にたからものを見つけてしまっていたら、その意味はまったく違うものになっていただろう。<いのりのいえ>を建てることはなかったかもしれない。
とはいえ、この絵本の意味は、遠く旅するという過程が大事ということにとどまらない。過程は大事であるにしても、この絵本からそれしか読みとれないとすれば、この絵本は単なる説話で終わる。
なぜ、男は旅に出たのか。それは彼が声を聞いたから。しかも、その声は宝物があるとは言わず、ただ「行って探せ」としか言わなかった。
出発する、何が待っているか、わからなくても。
このように読むと、この絵本は日常的な教訓を説いた説話というよりもっと深い、思い切って言えば一神教的な含意が底に流れている寓話といえる。
一つの声、それがどこから聞こえてくるのかわからなくても、疑いもせず、それに従う。アブラハムも、どこから聞こえてくるのかわからない声に従い、旅に出た。ここに一神教の秘密があるように思う。
敬虔と盲信という一神教の両義性も「一つの声」という喩えで説明できないか。もう少し深く考える必要がある。
以前、同じShulevitzの“The Magician: An Adaptation from the Yiddish of I. L. Peretz”(MacMillan, 1973)という作品も手にとったことがある。奇跡を扱ったこの物語は、意味がよくわからなかった。
シュルヴィッツの作品には、信じるとはどういうことか、という身近で深遠な問いかけが刻まれている。今まで気づいていなかった。
そういえば、世界一のばかは、斧で木を打って眠れという言葉を信じて王子になった。信じるということは、馬鹿になることなのか。
近くにあった絵本が、ずっと遠いところを指し示していることがわかった。絵本の声を聴いたら、もう一度、旅に出る。いったいどこまで遠くに行けば、近くにあるものを見つけられるのか、いまはわからなくても。