近著、『かないくん』と同様に大きな「?」が読後に残った。
動物は人間に食べられるために死んでくれた
それは違う。人間は自分が生き延びるために、ほかの動物を殺している。その証拠に、動物を殺さないように動物を食べないと決めている人もいる。
現代では、動物を「殺している」場面を見る機会がほとんどないから、野菜が畑で育てられるように、肉は肉屋で、「人間のために」作られたと勘違いしてしまう。そこから「死んでくれた」という発想が生まれる。
「死んでくれた」と「殺した」とでは、意味がまったく違う。
「殺した」の代わりに「しんでくれた」という論理を認めてしまうと、「アーリア人の血統と文化を純化するためにユダヤ人は死んでくれた」という暴論までまかり通ることになりかねない。
「しんでくれた」という言葉遣いは、責任の所在を曖昧にする。そういう事態が、あたかも勝手に起きたかのように思わせる。「しんでれた」は、「殺した」責任からの逃避でしかない。
動物の肉を食べるときに、感謝だけではなく、逃れることのできない罪を懺悔しながら食べる人もいる。そのようにして、人は動物と関わってきたのではないか。
釣りへ行った。魚が釣れた。焼いて食べた。魚は食べられるために釣られたのか?
そうではない。自由気ままに泳いでいたところ、針のついた餌をたべてしまったから、哀れにも人間に釣られることになった。
食べたい人は自分の意志で魚を食べる。殺生を避けたい人は釣った後で逃がしてやる。
フォークシンガー、イルカが1979年から歌い続けている「いつか冷たい雨が」という歌がある。この曲はオリコンチャートで1位にもなっている。
牛や鶏やお魚も 人間のためにあるのよ
さあ、残さずに食べなさい
そんな風に言うお母さんには なりたくありません
私も、「しんでくれた」なんて言うお父さんにはなりたくない。
6/30/2016/THU、追記。
この絵本はほんとうに谷川俊太郎が書いたものなのか。彼の作品を読んできた者には、そう疑わせるほど、この絵本の表現は稚拙で安っぽい。今風の言葉に換えれば「ツッコミ所」満載。ほとんどすべてのページ、すべての文に反論したくなる。
「ぼくはしんでやれない/だれもぼくをたべないから」とあるけれど、すこし海岸から離れたところを泳げば、サメが喜んで食べてくれるだろう。
(ぼくが死んだら)「おかあさんがなく/おとうさんがなく」とある。犬でも猫でも象でも、死んだ子を舐める仕草をする映像を見たことがないのか。
仮に、人間以外は子の死に感情を動かされないとしても、大漁のあとに海のなかで魚たちは「鰮のとむらい/するだろう」と詠んだ金子みすゞの想像力に比べて、なんと陳腐なことか。
加えて言えば、残念なことに、レインボーマンが戦った「死ね死ね団」のように、一人でも多くの「日本人」に死んでもらいたいと思っている人も、世界には少なからずいる。
肉親を日本人に殺されたからなのかもしれないし、過酷な状況で働かせられたせいかもしれない。それでいて日本人は自分たちは先進国で「平和」と「飽食」を享受しているとうそぶいている。
いずれにしろ現代社会は誰もが誰かに「死んでほしい」と思われる不幸な状況にある。「ぼくはしんでやれない」と呑気でいられる状況ではない。
この主題は大切で、子ども向けの作品に注ぎ込む意味はある。しかし、この表現でいいのか。この作品を書いた人と、愛犬の死をあれほど哀切を込めた追悼の詩を詠んだ詩人は本当に同じ人なのだろうか。
疑問符ばかりが読後に残る。
さくいん:谷川俊太郎、イルカ
仕事相手は欧州がいいか、米国がいいか
多国籍企業の中で日本支社に籍を置き北米と欧州、どちらの事務所を担当としたいか、と聞かれたら、仕事の内容が同じなら、私は自分自身の経験から北米を選ぶ。
北米が相手なら、夕方帰宅する前に要件や依頼事項をまとめてメールする。翌朝、家を出るときにメールを確認し、返答が来ていなければ、出社までに回答をよこせと催促することができる。重要案件なら北米時間の今日中に回答をくれ、と強要することもできる。
実際、シリコンバレーのワーカホリックの人たちは毎晩遅くまで仕事をしている。アメリカなりの事情で、夕方、子どもを前妻の家で引き取り帰宅し、寝かしつけてから自分の残務にとりかかるという人もいた。工場がアジアに多いので、生産部門の人も深夜残業になりがち。
相手が欧州にいると事情は逆転する。
朝、出社すると、あれとあれとあれをやっておいてくれ、という依頼が20年前ならFAX、今ならメールで来ている。要件を片付けているうちに昼休みが終わる。
午後になると胃が痛くなってくる。15時頃から催促の電話やメールがくるから。私が北米の人に言いたいように「帰る前にやっとけよ」と釘を刺されることもあった。
しかも欧州、なかでもドイツでは労働時間が短く、金曜日は昼過ぎに帰ってしまう人もいる。こちらは朝から夜の7時まで彼らの依頼事項をこなしているのに、向こうからは「早くしてくれないと帰っちゃうよ」と言われる。これは辛かった。
ドイツ支社と仕事をしていたのは24年ほど前のこと。国際競争が激しくなったので、事情は変わっているかもしれない。長いバカンスがあるフランスでも、管理職は避暑地でパソコンと携帯電話で部下に指示を出していると聞いたこともある。それでは、有給休暇中でもスマホを手放すことができなかった私と同じ。
さくいん:労働
江戸東京博物館での展覧会の公式本。展覧会の型録は展覧会が終わると書店で売られることもあまりなく、図書館でもあまり見かけない。公立の博物館で行った展覧会のガイドブックはもっと図書館においてほしい。
私は60年代末に生まれ、70年代に子ども時代を過ごし、子どもとして高度成長期を、ハイティーンのときにバブル経済を経験した。
そのため、映画『三丁目の夕日』を見ても、「昔の出来事」に見えていた。
本展をみると、60年代後半から70年代の高度成長期は、東京オリンピックと新幹線の開通で準備されていたことがわかる。いずれの事業も、おそろしいほどの速さと集中力で進められていたことに驚かされる。働けば豊かになる、という実感が広く共有されていたのだろう。
もちろん全ての人にとってそうでなかったことは容易に想像できる。波に乗れなかった人は余計に疎外感をもっていたことだろう。
新幹線について驚いたのは、開通当時「ひかり」と「こだま」とは一時間に一本ずつの運行だったということ。数分ごとに時速200Km/hの列車が発着する現在のダイヤにあらためて感心する。
3/25/2016/FRI追記。
松田聖子が、新横浜駅で到着した新幹線から降りてすぐにホームで歌う「赤いスイートピー」をYouTubeで見つけた。「追っかけマン」の松宮一彦は新幹線の到着が秒単位で設定されていることを説明している。番組はもちろん『ザ・ベストテン』。
さくいん:70年代、松田聖子、『ザ・ベストテン』
藤城清治製作の『銀河鉄道の夜』を見たことがある。見たのは1980年、小学六年生の5月の連休。初演が1956年とは知らなかった。
仲の良い男の子をけしかけて、クラスの女の子二人を誘い、横浜から都心のホールまで行った。帰り道で迷ってしまい、せっかくのデートを台無しにしたことを覚えている。
藤城の作品に郷愁を感じるのは、家では毎月『暮らしの手帖』を買っていたせいもあるだろう。藤城の影絵を使った「宇津救命丸」のテレビ広告も、最近は目にすることがなくなった。
花森安治と親しかったこと、イラストから影絵へ進んだ背景に花森からの影響があったこと、そして、大切な友人を若くして亡くした悲しみを1979年に書いている。
年を重ねるごとに作品はより大きく、細部は緻密になっている。飽くことのない「表現したい」という欲動に驚くほかない。
出演:綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆、広瀬すず、風吹ジュン、リリー・フランキー、樹木希林、ほか
映画『海街diary』主演の綾瀬はるかは「江ノ電」が歌詞に出てくる歌を歌っている。
曲名は「マーガレット」。作詞は松本隆、作曲は呉田軽穂(松任谷由実)。
さくいん:松本隆、江ノ電
心の隙間
今週は辛かった。先週末、出歩いたせいだろう。
日曜日の午後、両親の家から帰ると疲れきっていた。月曜日は朝食後、翌朝までずっと寝ていた。火曜日も、うとうとしながらほとんど寝床で過ごした。
身体がひどく疲れると、心に隙間ができる。小さな隙間ができてしまうと、元気なときには抑えられていた不安や悲しみが心に入り込んでくる。こいつらが居座ると、追い出すのは容易ではない。
不安時に服用する頓服薬を飲んでも、まだ落ち着かない。
不安が強くなったので、予定よりも早く、かかりつけのS医院へでかけた。
通勤もしていないし、1月から休養に専念しているから、いまはすこしのことでも疲れやすいと自覚しておいてほしい
言われてみれば驚きもしない事でも、病院に行き、医師と顔を合わせて聞くと、不安は少しずつ静まり、気持ちが和らいでくる。
先月も、天候がよく気分もよかったので2時間サイクリングしたところ、案の定、膝は痛めるし疲れて気落ちするし、気分の乱高下を自ら引き起こしているのだから情けない。
毎年6月は低調な時期。今年は最後に持ちこたえたので、何とか崩れずに過ごすことができそう。
さくいん:S医院
図書館の新刊棚で見つけて驚いた。手元には1967年発行の初版本がある。表紙はボロボロ、色は褪せてほとんど黄色、背表紙も外れそうでテープで直してある。
この本には、絵描き歌やあやとり、簡単な折り紙も教わった。
この本を両親と読んで遊んだ世代で、いま子育て真最中の人には懐かしくて、なおかつ実用的な本と言えるだろう。
さくいん:かこさとし
休むことが仕事
2007年初頭から2014年末までの7年のあいだに、思いがけずも、倒産、整理解雇、病気による退職を経験した。「失業三冠王」を経験する人は、そう多くはないだろう。
そういえば、Lionel Richieがいたグループ、The Commodoresに、“Three Times Laid-off”という曲がなかったか。
1月から無職という新生活がはじまった。「休むことが仕事」。本にも書いてあるし、医師にもそう言われた。わかってはいても、エンジンを切ってもまだオーバーヒートしているようでなかなか落ち着かない。来るはずのないメールが気になり、たびたびスマホを見たり、新聞でも関わっていた業界の記事につい目がいく。
息子の高校受験もあった。複数の学校を受験したので、入試と発表を何度も繰り返し、その度に一喜一憂した。進学先が決まり、卒業式が終わるともう3月も下旬だった。
4月初めに家族で旅行をした。行き先は大阪と伊勢志摩。大阪では通天閣に登り、カリフォルニアでも行ったユニバーサル・スタジオで遊んだ。
伊勢志摩は新婚旅行で行った懐かしい場所。10周年の時も行った。20周年からは数年遅れてしまったけど、同じ宿に泊まり、同じ店で食事をして、伊勢神宮にもお参りした。いい記念の旅行になった。
旅行先ではのんびり過ごして、ようやく休める気がしてきた。これから旅行へ行ったらくつろいだ気分になれるだろうな、と思ったときには家に着いていた。
許された休職期間は18ヶ月。もう三分の一が過ぎている。そのうち仕事も探しはじめなければならない。在籍していた会社に戻ることは無理だろう。
それに、その業界は日本で衰退の一途をたどっているから、あと20年成長して、働きがいも感じられる仕事を探したい。
ようやく穏やかな気持ちでいる時間が伸びてきたところなのに、気持ちばかりが焦り、落ち着きをなくしている。
「休むことが仕事」。時間があっても簡単にできるものではない。
今月の写真は、散歩道で見かけた紫陽花。
昨年の今頃、父の弟、私の叔父にあたる人が急逝した。
叔父のことは、去年、何も書いていない。今もまだ何も書けない。
昨年も夏に、新卒で入った会社で可愛がってくれた先輩が50歳で亡くなった。そう、彼は「先輩」と呼びたくなる数少ない人だった。
S先輩の優しさについても、書くまでには当分時間がかかりそう。