職場近くの小さな図書館。貸出カウンターの隣りに新規購入資料を並べた小さな棚がある。表紙に見覚えのある建物の壁面を表紙にした本に目がとまった。小さなレンガが壁面に積み上げられている。その壁面は、私の街の図書館によく似ている。
読んでみると、確かに題名にある建築家、鬼頭梓は私の街の図書館を設計していた。もっとも、表紙の写真は別の場所だった。
表紙の写真は、彼が最初に手がけた東京日野市の図書館。この図書館ができるまで日野市には中央図書館がなかった。その代わりにバスを使った移動図書館があった。そのあとバスの移動図書館は、都電の廃車両を使ったユニークな図書館に変わった。その物語は、絵本『ふたごのでんしゃ』で読んだことがある。やがて都電車両の図書館が手狭になったとき、鬼頭は中央図書館の設計を依頼された。
日野市を手はじめに、鬼頭は次々に図書館建築に関わるようになる。彼の設計した図書館は全国各地に散らばっているが、一つの自治体で2つの図書館に関わったのは私の住んでいる街だけ。それは彼がこの街に住んでいたことと無関係ではないだろう。鬼頭梓は昨年、この街で亡くなった。
鬼頭は若い時代、前川國男の事務所にいた。前川が設計した自邸は、小金井公園にある「江戸東京たてもの園」で見たことがある。吹き抜けの広々とした家だった。
こういう本から本へのつながり、人から人へのつながりを見つけることが、私にとって読書の楽しみの一つになっている。
鬼頭は、図書館を「生活の根拠地」と考えていた。「現代の図書館のもつ意味は、民主主義そのもののもつ意味とほとんど重なりあって」いるとまで言う。今のように図書館の近くに住み、当たり前の利用していると、少し大げさに聞こえる。しかし、彼が築いてきた戦後の公共図書館の歴史を知ると、当たり前に思えることを当たり前にするまでにどれほどの苦労を重ねたかがわかってくる。
かつて本は庶民のものではなかった。図書館といえどもそれは一部の特権階級のものであり、選ばれた少数の人々の場所であった。その時には、それは完成された一つの空間をもっていて、壮大な階段や高い天井、そして重々しい装飾に飾られた空間は、本のもつ高い精神性と、それへの深い畏敬の念に満ちていた。今その場所は、皆の場所として解放(ママ)的で、平らな床の広い空間であり、そこに並べられた書架の間を、人々は自由に歩き廻る。皆に愛され皆に利用される図書館ほど、時にその場所は雑踏に近い。その雑踏をそのままに抱きこんで、いわば普段着のままの空間として、しかし同時にどこかしんとして本への畏敬に満ち、内面的で個人的な本の場所にふさわしい空間を創れないものかと、そんな絵空事のようなことをいつも考え続けているのである。(「私の図書館建築作法、Ⅸ 図書館の空間」『私の図書館建築作法——鬼頭梓図書館建築論選集・付最近作4題』)
鬼頭が設計した私の街の中央図書館には段差がない。外の広場からまっすぐ歩くと、すぐにカウンターがある。図書館の床は外の地面と同じ高さにある。こういった工夫は、利用者に便利なほど、気づかないまま「当たり前」に感じてしまう。
私は、読書家というほどたくさん本を読むわけではない。私が好きなのは本を読むことではなく、図書館で本の背表紙を眺めながら本棚をあいだをゆっくりと歩く静かな時間。その楽しみを覚えたのは、東京にあるすぐれた公共図書館に通うようになってから。
西田幾多郎が東京帝大の学生だったとき、本科生ではなかったために彼は図書館を利用することができなかった。私が大学生だったとき、大学の図書館は建物こそ古くて立派だったけれども、閉架式で検索にも貸出にも手間がかかり、勉強にはほとんど役に立たなかった。
段差のない床、明るく、広々とした開架式の閲覧室、見やすい本棚、。それらはどれも自然にできあがったものではなく、戦後、「生活の根拠地」を夢みた図書館員と建築家の情熱が結実したものだった。
図書館はいまでは私の暮らしになくてはならない「生活の根拠地」になっている。そのおかげで民主主義の精神が養われているとまでは自信をもって言えるわけではないが、少なくとも図書館がなければ、小林秀雄の全集を読みはじめることはなかっただろうし、こうして文章を書きはじめることもなかっただろう。
図書館は、私に私自身を発見させてくれた。民主主義とは、自覚した個人一人一人がつくりあげるものと定義するのであれば、確かに図書館は私にとって民主主義の学校といえる。
このところ、私はいわゆる戦後民主主義の負の面にばかり目を奪われていた。新しい日本をつくろうとした人々がどんな思いを抱えて働いていたのか、そこに思いを馳せずに生半可な知識で彼らの努力を批判することは、自分の無恥をさらすことにしかならない。「当たり前」と気づかないでいるものほど、人々の努力の末に得られたものなのだから。
鬼頭は、日野市の図書館が移動図書館からはじまり、公共図書館サービスとしての実績を上げたあとで、いわば必要に迫られてから中央図書館を建築した経緯を強調している。器が先ではない、民主主義が育ち、それにふさわしい器が必要になった。
図書館が好きで、旅先でも図書館をさがして立ちよってみる。図書館建築についての写真集を借りたこともある。読書記録を見てみると、監修は、鬼頭梓だった。つながりのはじまりはここにあった。
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