8/4/2012/SAT
いじめ問題と最近、聴いている音楽
いわゆる著名人が、新聞や雑誌、ネット上でも、いじめについて語っている。ほとんどが「私もいじめられてました」という内容。ああいう「語り」に励まされたり、慰められたりするものだろうか。
天邪鬼の私は「でもアンタ、今は成功してんだろ」と毒づきたくなる。そんな先が見えないから苦しんでいるというのに。
本人は謙遜しているつもりで、「私みたいな者でも克服できた、だからアナタもがんばって」と言いたいのかもしれない。でも、どん底にいる人は「這い上がった人もいるよ」と言われてもとても自分にできるとは思えない。だからどん底にいるのだから。それは、いじめでもうつでも同じ。
成功者の体験談より、いのちの電話や人権救済委員会の連絡先など、実用的な情報を掲載したほうがずっと有益ではないか?
通勤の行き帰り、音楽を聴いている。最近はラジオは聴いていない。ランダムに流していて、スキップしない音楽、つまり、最近よく聴いている音楽を列挙しておく。ただし、毎日必ず聴くような定番は除く。こういうことは、ずっとあとになって読み返したときに面白い。
ボーカル系。ハンバート ハンバート、久保田早紀、和久井映見、二名敦子、刀根麻理子、倉橋ルイ子、児島未散、太田裕美、空気公団、国分友里恵、具島直子、水谷優子、坪倉唯子、比屋定篤子、キャンディーズ、上松美香、山本潤子、彩恵津子、佐藤聖子、木村恵子、当山ひとみ。
Fusion、インスツルメント系。s.e.n.s, Alexander Zonjik, Acorstic Alchemy, Kohara, Kangaroo, Spyro Gyra、松居慶子、大村憲司、鈴木大介、曽根麻矢子。
コンピレーション・アルバム。青春歌年鑑、癒、image、青春ドラマシリーズ ソングブック、ポプコン系、the most relaxing~feel、荒井由実、都倉f俊一、筒美京平、永六輔、村井邦彦、Windham Hill artists, Neo-Acorstic, The Guitar Songs。
8/13/2012/MON
特別展 元素のふしぎ、国立科学博物館、東京、上野
3日間×2回の夏休み。第一弾が終了。呑んで食べて寝て、食べて呑んで寝た。ようやく今日は出かけて、国立科学博物館で「元素のふしぎ」展を見た。面白い展示ではあったけれど、内容はかなり難しかった。
ウランを混ぜて作ったウラン・グラスが何の遮蔽もなくガラス・ケースのなかに置いてあって驚いた。あの状態では放射線は出さないのだろう。
8/18/2012/SAT
評伝 ナンシー関 「心に一人のナンシーを」、横田増生 、朝日新聞、2012
時が経つのは早い。ナンシー関がなくなってからもう10年になる。10年前といえば、飛行機や新幹線での出張も多く、彼女のコラムを楽しみに「週刊朝日」や「週刊文春」をよく買っていた。生い立ちからタクシーで急に倒れるまでを綴った評伝は、彼女のことを知っている人が忘れないためにも、知らない人が出会うためにも大きな意味がある。
評伝を読みながら、実生活が充実していたことに驚いた。私は主にテレビ批評のコラムを通してしてしか彼女を知らなかったので、カラオケ好きという一面は知らなかった。一日中テレビを見て、夜になると原稿書きと版画彫りをするような生活を送っていると想像していた。実際には、仕事をたくさんこなしながら、夜遊びもたくさんしていた。
失礼な書き方かもしれないけど、思っていた以上に幸せな生活を送っていた。でも、それが彼女の命を縮めた一面もある。いくつもの連載を抱え、そのうえ、つきあいよく夜遊びをしていたら、身体がもたないだろう。
頻繁に息が苦しくなっていたのに健康診断やきちんとした診察を受けてはいなかった。彼女は生き急いでしまった。その理由はわからない。おなじように抱えきれないほどの仕事を抱えたまま亡くなった手塚治虫のように過剰なほどの使命感を自分の仕事に対してもっていたようにも思える。
もう一つ、読みながら感じたこと。ナンシー関は、テレビを二つの面から見ていた。一つは、テレビのメジャーな面、すなわち茶の間の王様としてのテレビ。もう一つは、ニッチな芸を楽しむ面、すなわちサブ・カルチャーの発信源としてのテレビ。前者は、ドリフターズや紅白歌合戦、ワイドショーなど。後者はプロレスや深夜のお笑い番組など。彼女はその両方を楽しんでいた。そして、両方に対して辛辣な批判を加えた。
彼女がテレビタレントを揶揄するとき、大きく二つのパターンがあったように思う。「成り上がる」ことと「下りてくる」こと。前者の典型は本書でも触れられている神田うの。天然ボケの不思議ちゃんとして登場したにも関わらず、徐々に「普通の人」であることを強調し、やがて大物芸人と交遊があることを踏み台にして一流を気取りはじめる。
後者については枚挙にいとまがない。二枚目アイドルが思わず庶民的な一面を曝してファンを失望させる、巨悪事件を追及していた硬派なルポライターが知名度が上がると、ワイドショーのコメンテータになり、タレントの不倫問題から政治や教育問題まで「コメント」し、ついには「人生」やら「成功」やらについてまで「語り」出す。
ナンシー関はそういうあざとい人たちをとくに嫌っていたように思う。テレビに出ている人は、誰であっても芸人、その芸を究めてこそ、芸人の意味がある。私生活の切り売りや得意気な人生論など、何の意味もない。ナンシー関の思想の真髄を私はそうとらえている。
ナンシー関がいなくなったあと、テレビにとって一番大きな出来事は言うまでもなくインターネットの普及。もし彼女がいたら、という問いではなく、本書も掲げている「心に一人のナンシーを」はネット文化のなかで実現されているか、という問いをたてたい。
結論から書けば、達成されている面とそうでない面があるように思う。ネットではブログ、掲示板、ツイッター、さまざまな場所で素人たちが自らの意見を書いている。そのなかにはナンシー関に学んだかのようなアプローチも見かける。「成り上がる」アイドルは非難され、「下りてくる」自称知識人(竹内洋の言葉を借りれば「テレビ文化人」)は糾弾されている。
とはいえ、ナンシー関が憎悪したようなタレントや文化人は今もいなくなっていない。それは、そういう人たちをもてはやす人たちがいるから。どの時代でもメディアに踊らされる人はいる。
残念なことに、テレビから多チャンネルのテレビやインターネットまで主要なメディアが拡大したため、タレントや文化人の「成り上がり」や「下りてくる」数も早さも彼らの活動する場もナンシーが活躍していた時代よりも多く、早く、広くなっていて、要するに憂えるような事態になっている。
ナンシー関のようなコラムニストはもう現れないだろう。それでいいと思う。たくさんテレビを見て、たくさん批評することは一人でしなければならないことではない。「心に一人のナンシー関」を抱いた人が、彼女に学んだ方法ですこしずつ発言することで、世の中がよくなるという保証はないけれども、少なくとも生き急いでしまう人を減らすことはできるかもしれない。
さくいん:ナンシー関
8/25/2012/SAT
最近の週末
長い文章を書く気力がない。読み終えた本がいくつかある。きちんと感想を書き残しておきたい。そうは思いつつ、何もしていない。
週末は寝てばかりいる。本も読まなければ、ラジオも聴かない。週末はウェブサイトを見ることもない。
土曜日の夕食はつくる。
それ以外は、ずっとベッドでごろごろしている。眠っているときもあれば、ただ天井を眺めていることもあるし、黙って目を閉じているときもある。
そういうときにあとで文章になるような断章が心に浮かんでくれば、書きはじめることもできる。いまはそういうこともない。何も考えていない。いや、同じことをずっとずっと考えている。つまらない堂々巡りを続けている。
8/25/2012/WED
クラスタとキャラ
インターネット上で「クラスタ」という言葉をよく目にする。私が嫌悪する「キャラ」、また少し古い言葉では「レッテル」という言葉に響きが似ている。ひとりひとりの個性や経験を無視して十把一絡げにする言葉。
怖いのは、この言葉を他人に押しつけるよりも自分自身に使うこと。
そんなことをすると、自分が単純な存在になってしまう。
8/31/2012/FRI
GOLDEN☆BEST/南沙織 筒美京平を歌う、ソニー、2002
南沙織がいたころ、永井良和、朝日新書、2011
「昭和歌姫伝説」のような番組で南沙織が特集されていた。すでにベスト盤はもっている。お気に入りは「色づく街」と「早春の港」。もっと聴いてみたいと思い、図書館で検索したら面白いアルバムを見つけた。
『筒美京平を歌う』には「よろしく哀愁」など、男性歌手に提供した歌も収録されている。南沙織の歌声をいろいろな曲で楽しめる。
加えて、筒美京平の音楽の幅広さも堪能できる。このアルバムは貴重。
南沙織と山口百恵は若いときから歌が上手い。
『南沙織がいたころ』を読むと、彼女の生き方と彼女が活躍した時代の背景がよりよくわかる。
一人のアーティストが、ある時代に存在して活躍した意義を伝えながら、そのアーティストが活躍した時代の空気を分析する。
社会学の興味深い研究方法を知った。
uto_midoriXyahoo.co.jp