2/18/2016/THU
戦後文学は生きている、海老坂武、講談社現代新書、2012
海老坂武の名前は、『シングル・ライフ』(1986)を学生時代に走り読みして知っていた。一橋大学でフランス語を教えていたことも、どこかで聞いて知っていた。
書店で、「戦後文学」という書名に目が留まり、目次に森有正の名前を見つけたので、きちんと読んでみることにした。
本書は20冊の作品を紹介する。今回は、自分でも読んだことのある作家の章を選んで読んでみた。
順序は、登場順。
- 『きけ わだつみのこえ』 (1949)
- 原民喜『夏の花』 (1947)
- 坂口安吾『堕落論』 (1947)
- 鶴見俊輔『転向研究』 (1959-1962)
- 丸山眞男『日本の思想』 (1961)
- 高橋和巳『わが解体』 (1971)
- 森有正『遥かなノートルダム』 (1967)
- 永山則夫『無知の涙』 (1971)
ほかに、田川建三と、フランス文学では彼の先達にあたる丸山圭三郎の名前もある。
森有正が1950年に文部省派遣の留学生として渡仏してから17年後に上梓した『遥かなノートルダム』(1967)について、海老坂は森の思想発展の大きな転換点と見ている。
(前略)<経験>はそれまで、自己と<もの>(芸術作品)との不断の接触の上に成立する<感覚>を基盤にしていた。(中略)しかしいまや、<経験>は、自己と人びととの関係の上に成立する<生活>の上に軸足を移そうとしていることです。あたかも<生活>という視点を導入することによって、<経験>の概念を拡大しようとしているかのごとく。あたかも<経験>を<生活>の中に位置させることによって、社会を語る視点を築こうとしているかのごとく。(<経験>に集約される)
こうした思想形成の理解は、容態の描写こそ違えど、高橋和巳が島崎藤村の思想形成を叙述したものに非常に似ている。
一たん自己は極小化され、そこでほとんど嗜虐的な自己露出によって、最低のしかしもはやその一線からは後退することのない自己を確認してから、次にその自己の精神を開示するために必然的に行きつかざるを得ないものとして、社会や歴史にも目を注ぐという迂回路をとったわけである。さまざまの試行錯誤を含みつつも、その迂回は、しかし誠実な歩みであったと評価されてよい。
森も藤村も、逃げ切ることのできない自己を見つめることから「出発」し、長く苦しい思索と表現の試行錯誤の末に社会に生きる新しい自己、すなわち「新生」を得た。
本書の面白いところは、若い人たちに薦めるために「いま」これらの作家を読む意義を伝えると同時に、海老坂がそれぞれの作品に出会ったときに、彼が感じた気持ちが率直に書かれていること。
言葉を換えれば、作品が発表された時代に、どのように受け止められていたのかを伺い知ることができる。驚愕だったり、知的満足だったり、共感だったり、憧憬だったり。
さらに言えば、文学が一人の人間の感性や考え方や生き方に、大きな影響を与えていた時代の空気を知ることができる。
海老坂は高橋和巳の死について「一体どの作家について、「私たちは⋯⋯を失った」と書き得たでしょう」と慨嘆している。
一人の作家や、一つの作品が、一つの世代にさえ幅広い共感を得られる時代では、もうない。確かに、一人一人は影響を受けた作家や作品を挙げることはできるかもしれない。
それは、必ずしも嘆かわしいことではない。それでいいのではないか。読書とは本来、ひとりひとり違う体験であり、大勢の人を一度に動かす「イデオロギー」の道具ではないはず。
極めて私的な読書の回想が、人を変えて、人を育てる、という、読書のもつ大きな力——荒川洋治の言葉を借りれば「文学は実学」——を教えてくれる。