数々の名作絵本を企画してきた名編集者は、自らも作品を創作する作家であり、外国から名作を探してくる名バイヤーでもあった。「世界の絵本スケッチ」という章は、世界の絵本事情に通じた松井ならではの絵本を通じた文化批評となっている。
ディック・ブルーナの原色と直線的な画法に、同じオランダ出身であるモンドリアンと共通性があることは、松井の指摘を読むまで気づかなかった。ちょうど同時に読んでいた『ブルーナ ミュージアムーーミッフィーのすべてがわかる』(MOE編集部、白泉社、2001)のなかでも、ブルーナは単純な線や色を使う画法は、モンドリアンやリートフェルトに端を発するデ・スティール派と呼ばれる二〇世紀初頭にオランダで起こった芸術運動と関連があると認めている。
確かにオランダ文化の色彩感覚はヨーロッパのなかで際立っている。ベルギーからオランダへ列車で旅すると、駅や列車の色彩が鮮やかになって国境を越えたことがわかる。ベルギーでは列車や駅の装飾は茶色や灰色が多い。オランダの列車はブルーナを思わせるような青、黄色で色分けられている。赤、黄、緑に彩られたチューリップ畑もオランダらしい色彩の風景。色ではあまり華やかではないベルギーだけれども、チョコレートやレストランでは種類も質も欧州随一。
宇宙から地球を見下ろすと国境は見えないという感傷的な発言をしばしば聞く。境界線は目に見えるものばかりではない。日本国内でも、丸餅と角餅にしてもうどんつゆの濃淡にしても、境界線は確かにある。それは人為的なものかもしれないし、恣意的かもしれないが、境界線がないわけではない。
大切なことは、境界線は存在することを知った上で、境界線の上に住む人もいれば、境界線を往復する人もいることを理解すること、また、こうした色彩感覚や味覚、広い意味で文化の境界線は必ずしも法的な国境とは一致しないことを自覚することだろう。「国境は見えない」という言葉は、こうした文脈ではじめて甘口でない定義となるのではないだろうか。
松井の文章でもう一つ興味深いのは、フランスは芸術の国と言われる一方、絵本にはあまり傑作がないという指摘。フランス語は世界的な文学や哲学を数多く生み出したことは今さら多言を要さないだろう。私自身、フランス文学やフランス文学を学んだ人の書物に強く惹かれている。
ところが、フランス語原著の絵本というと松居同様、サン・テグジュペリ以外にあまり思い浮かばない。強いて言うなら、ババール(ジャン・ド・ブリュノフ)、リサとガスパール(アン・グッドマン、ゲオルグ・ハレンスレーベン)、それからバーバパパ(アネット・チゾン、タラス・テイラー)だろうか。
ババールやリサは子どもの世界が舞台にしているけれど、子どももそのものが主人公ではなく、象や兎でなければならない必然性は感じられない。バーバパパも楽しいけれど、形が変わるというSF的な非日常性が面白いのであって、子どもの生活感覚に根ざした感動とは違う。いずれの作品もキャラクター・グッズになるほど登場人物は可愛らしく特徴的だけれども、物語そのものはそれほど面白くはない。むしろフランス語原著の絵本を読んで驚くのは、そのシニカルさ。
例えば『ババールとサンタクロース』(やがわすみこ訳、評論社、1974)では、ババールはサンタクロースを探すためにでかけたパリのホテルで、「サンタクロースがいるよ」とねずみに屋根裏へと案内される。そこで見つけたほこりをかぶったツリーの飾りにババールは怒り出してしまう。さらに旅を続けて仕舞いには、ババールは人と会うのを嫌がるサンタクロースと戦うはめになる。別な話では、車ででかけたところ事故と故障で車は動かなくなってしまい、ババールは車を放り出し家に帰ってしまうところで突然話が終わってしまっていた。
リサにしてもバーバパパにしても似たようなもので、ほのぼのした台詞や教訓めいた結末など日本語や英語の作品に多く見られる傾向とは程遠く、皮肉や子どもにしては小賢しい台詞や、あまりに現実的な落ちでまとめられている。こうした絵本の傾向と一般に言われるフランス語やフランス哲学の合理性とはどのような関係があるのだろうか。松井もその点については触れていない。
この問題は、フランス語の出版事情はもとより、フランス語文化が子どもの世界をどのようにとらえているかに関わっていると思われる。あるいは日本語に翻訳されるフランス語絵本にはそうした特徴が強いだけなのかもしれない。いずれにしても興味深い問題ではあるけれども、今はわからない。
絵本の乏しいフランスに対して、絵本の世界で傑作を生み出し続けているのがアメリカ合衆国。合衆国で多くの傑作が生まれている理由は、まず、アメリカが世界最大の出版市場であるということが大きいだろう。
その結果として、多くの傑作が生まれ、そのいくつかが日本語へ翻訳されて読まれている。合衆国と日本国との政治経済や文化での密接な関係、英語翻訳者の層の厚さ、なども背景にあるに違いない。
さらに言えば、アメリカ合衆国と一口に言っても、いま、名作と呼ばれている絵本をつぶさに見ていくと、作家の出身地はさまざまで、合衆国への移民やその二世も少なくない。ここに、アメリカで多くの傑作絵本が生まれている大きな理由があるように思う。
レイ(『ひとまねこざる』)、ベーメルマンス(『げんきなマドレーヌ』)、シュルヴィッツ(『空とぶ船と世界一のばか』)などは、いずれも英語を母語としない移民一世。個人的な読書体験をもとにした感想なので正確な統計ではないが、絵本作家に合衆国への亡命者や移民が少なくない。その理由を思いつくまま挙げてみる。
――第二次大戦後、工業デザインやポップ・アートなどが合衆国を中心に爆発的に広まった。
――同時に、絵本、漫画などの大衆文化がベビー・ブームとともに拡大した。
――言葉の不自由な移民にとって、絵画やデザインの世界は比較的才能を発揮しやすい分野だった。
――加えて絵本の文章も初級の英語力で間に合った。それどころか、第二言語として学んだ者による簡潔な表現が、子供向けとして新鮮ですらあった。
――故郷を離れて孤独な移民には家族、とりわけ自分の子どもに自分の出自を含めた物語を伝えようとする気持ちが強かった。
移民やその次世代によって書かれた絵本には、彼らの飛び込んだ合衆国の文化とともに、彼らが持参して引き継いできた故郷の文化も時には明瞭に、時には背景となり映し出されている。そのように考えると、合衆国の絵本には「アメリカの絵本」と一括りにはできない多様性があることがわかる。
あるいは、合衆国そのものが移民によって成り立っている国家であることを考え合わせると、モザイクのような多様性という合衆国文化の本質が、絵本の世界にも表れていると言うべきかもしれない。
こうした多様性は何も合衆国にだけあてはまる性質ではない。移民ほど極端ではなくても、現代において一人の人間は一つの文化だけによって形作られているのではないし、ある一つの作品も一つの文化の影響だけを映し出しているのではない。
ディック・ブルーナの作品はオランダ的、より細かく言えばユトレヒト的であると言える。それでもその人物や作品は、オランダ的なもの、ユトレヒト的なものだけで形成されているのではない。
また、オランダ的、ユトレヒト的と言う場合にも、何か固定した性格や傾向が決まっているわけではない。隣接するベルギーやフランスと重なる部分もあれば、かつて植民地支配したインドネシア文化からも影響を受けているはず。イギリスにインド料理屋が多いように、オランダにはインドネシア料理のレストランも多く、家庭料理にも溶け込んでいると聞く。
オランダの絵本、フランスの絵本、あるいは合衆国の絵本と言うと、あたかも固定した区分けができるように思い込んでしまいかねない。こうした区分けはあくまで便宜的な道具であることを忘れてはなるまい。過日、松井はテレビ講演『絵本のよろこび』のなかで、カナダで出版されている多彩な文化背景をもつ絵本を紹介していた。
日本語でも、モンゴルを描いた『スーホの白い馬』(大塚勇三再話、赤羽末吉絵)やロシア民話を題材にした『おおきなかぶ』(内田莉莎子再話、佐藤忠良絵)や『おだんごぱん』(瀬田貞二再話、脇田和絵)などがある。
これらは和魂洋才などという機能主義的な配合にとどまらない、諸文化の融合によって生まれた世界的な傑作絵本と言える。もちろん、諸外国語からの翻訳も読むことができる。絵本や児童書はロシアや北欧、オーストラリアなど、版元は大人向けの文学より多地域に広がっている。
松井直の著作を読んだり、講演を聞いたりしてみて、彼がもっとも言いたいことを私になりにまとめれば、「絵本は、多文化世界への入口」ということになる。
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