夏休みは昔ほど長くないけれど、ふだん読まない小説や冒険もののような児童書を読みたくなる。もっとも小学生のころは、夏休みに自分から本を読んだ記憶はほとんどない。
昨年の夏休みは『シキュロスの剣』(泉啓子、童心社、2002)でそれまで知らなかった児童暗黒小説の世界を知った。見知らぬ世界の本はないものか児童書の棚をまわって歩いても、ピンとくるものがない。通り過ぎた棚の横に児童書に関する本が並んでいて目が止まり、借りられるだけ借りてきた。
鳥越信は、岩波書店で児童書シリーズ、「岩波子どもの本」の発刊に関わった一人。初期の岩波子どもの本シリーズは思い出深い以上に、大変世話になった。
『ちいさいおうち』『ひとまねこざる』『ふしぎなたいこ』『かにむかし』『はなのすきなうし』それから、『ちびくろさんぼ』。いまでも折に触れて言葉が口をついて出るくらいに読んでもらった。
「岩波子どもの本」には恩義を感じる一方、以前から違和感もあった。『ちいさいおうち』や『ひとまねこざる』は、あとで原書を見つけて、大きさから開き方まで違うので驚いた。また、スパゲッティがうどんと訳されるなど、幼いときには気づかなかった古さも、大人になって読み返したときに奇妙に感じた。
『絵本の歴史をつくった20人』のまえがきで、鳥越は初期の「岩波子ども本」には功罪両面があると率直に述べている。その両面は『絵本史』の第四章、近藤昭子「<岩波子どもの本>の新しさと時代による限界」で詳しく論じられている。
確かに「岩波子どもの本」は国語や修身の教科書でもなければ、玩具のような「絵本」でもない、子どものための「本」という視点にたって、欧米の優れた「絵本」を紹介した点で、功績は大きい。
その一方で、統一された大きさ、縦書き、右開きという装丁を貫いたために、とくに翻訳絵本では、原書の意図をことごとく壊してしまった。これは「絵本をトータルデザインとしてみる視点がなかった」ため。オリジナルの日本語作品が少ないという点も、開拓者の限界だった。
このような限界は、実は、当時から指摘されていたらしい。九段下の昭和館の展示で読んだ当時の週刊朝日。書評子は、シリーズ第一作『ちいさいおうち』について内容を好意的に受け止めながらも、訳者の名前がきちんと表記されてないことを作品として不十分ではないかと指摘していた。
『ちいさいおうち』は、1981年になって原書と同じ大きさで、省略されていた部分を含めた完訳版が出ている。訳者石井桃子の表記もされている。ただし、その版には初版一九六五年とあるだけで、版型まで変っているのに改訂版という表記はない。また、完訳をうたっているわりには、献辞は訳されず空白のまま。「岩波子どもの本」の限界は、時代の限界であった以上に岩波書店の限界であるように、私には思われる。
日本語によるオリジナル絵本を開拓したのは、福音館書店。岩波だけでなく、福音館の雑誌「子どものとも」から生まれた傑作シリーズも、私が幼年期を振り返るときに欠かせない。『しょうぼうじどうしゃじぷた』『かわ』、そしてもちろん、『ぐりとぐら』。いずれも今も人気があり、私自身も読み聞かせている。
『絵本史』第五章、大橋眞由美「福音館の時代」は、前章同様、新しい文化を生んだ絵本シリーズの功罪を冷静に分析する。功はもちろん、日本語作品の製作。それにともない福音館は、中川李枝子と山脇百合子、加古里子、瀬田貞二、今江祥智、林明子など、多くの優れた作家や画家を発掘した。
福音館の絵本製作は、松居直を中心としていた。従って、日本語作品の製作と絵本作家の発掘と育成という福音館の功績は、そのまま松居に帰せられる一方で、その限界も松居に帰せられる。都会的で東京中心、性差別に無頓着、生活主体が希薄、保守的ではないにしても現状維持的な傾向などを、大橋は列挙する。いずれもなるほどと膝を打つ指摘。
岩波と福音館の歴史的意義を功罪両面から照射する『絵本史』を読むと、戦後の絵本史は、戦後の教養主義の歴史に重なるように感じられる。大橋は、福音館「子どものとも」シリーズの限界として、絵本において文を絵に優先させてきたことを挙げている。それは長年「作、画」と表記したことに如実に表れている。
戦後の絵本史の勃興期、その担い手の多くは高学歴者や、大人向けにも書いている文学者だった。この点、絵本の作り手が作家だけではなく、早くから画家や移民、その子孫、女性が少なくなかった合衆国の絵本界とは風土に大きな違いがみられる。
そうした日本語絵本の戦後史が、いわば「<民主>と<愛国>」の精神に支えられていたことは、加古里子の回想記を読むとさらに強く感じられる。加古はあとがきで、軍人になろうと勉強をしていた少年時代を後悔することが絵本作家としての志につながっていると告白している。
加古は東大時代から演劇やセツルメント運動(金ではなく労力を提供する社会奉仕活動。貧民街で勉強を教えたり、保育所代わりをした)に参加し、そこで紙芝居から絵本製作に進んだ。彼の回想には、絵本を社会復興の重要な手段とみなす考え方がみてとれる。
教員として戦争期を過ごした瀬田貞二も、敗戦後の思いを次のように述懐する。
私も負けた後のことをいろいろ考えてみると、どうもやっぱりこれからは子どものことを中心にして自分のもっている力の一切を出して、なんとかしなくちゃいけないんじゃないかっていう、まあ、責任みたいなものをそのときとっても深刻に感じたんですね。(『絵本論』付録「瀬田貞二氏の子どもの本の仕事」)
瀬田は東大国文科を卒業し、戦前から教員をしていた。加古は、同じ東大で工学部出身。加古は、48歳まで企業労働も並行して続けた点が個性的。
ところで、私は、「岩波子どもの本」や「福音館こどものとも」を読んでもらって育ったといっても、すべての作品を読んでもらったというわけではない。原画集『アメリカ絵本の黄金時代』でとりあげられた三人のうち、『ちいさいおうち』のバートンにはなじみがあるものの、エッツは大人になってから読んだ。ガァグは未読。もう一つの原画集、キーツも最近まで知らなかった。
私はもとより、私の両親も絵本の専門家ではなかった。だから、今では「よい絵本」といわれる作品のなかにも知っているものもあれば、知らないものもある。松居、瀬田、加古ら、戦後絵本の啓蒙主義者たちから見れば「悪書」といわれるような絵本もたくさん読んだ。
書店や図書館で、自分が読んでもらった絵本が「よい絵本」として紹介されているのを見るとうれしい。そうした絵本を幼い頃に読んでもらったことは、かけがえのない財産にちがいない。しかし、そうした良本と言われる絵本であっても、出版された時代の社会的背景や、作者や編集者の個人的資質を離れてはありえないことも忘れてはなるまい。
私が読み聞かせてもらった絵本には、時代の個性とともに時代の限界もあったことを始まったばかりの絵本史研究は教えてくれる。
同時に、偏りのない読書というものもありえないということを肝に銘じておいたほうがいいだろう。すべての絵本を読むことはできないし、できたとしても、それもまた一つの偏った読書法でしかない。
今、自分が読み聞かせてもらった絵本の多くを、私は自分の子どもに読み聞かせている。それは偏読の再生産になっているのかもしれない。それでも、偏ってしまっていることを意識しながら、なお偏ることでしか、個性もはぐくまれなければ、伝統の継承もありえないように思う。
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