民藝――民衆的文藝――について―――ただ大衆こそはすべての根源であり、よいものはすべてそこから出て来るからである。よい政治家、よい有識者、またよい皇帝もいるとすれば、それは大衆の心を心としたからである。(森有正「パリで中国を思う」『森有正エッセー集成5』、二宮正之編、ちくま学芸文庫、1999) ―――人類を構成するのは民衆である。民衆でないものはとるにたりないほどだから勘定に入れるに及ばない。人間は、どんな身分にあろうと同じである。そうだとしたら、もっとも数の多い身分こそもっとも尊敬に値するのだ。(Jean-Jacques Roussearu「エミール」第四編、『ルソー全集』、小林善彦、樋口謹一ほか編、白水社、1980) 多くのウェブサイトには、リンクのページがある。企業では関連会社、個人サイトでは、友人やネットを通じて知り合った同好の志を紹介している。私の「庭」にもリンクのページがある。そこには縦書き変換ソフトの開発元と、書評を投稿しているネット書店しか掲示していない。他のサイトを見ていないわけではない。むしろ最近では、本を読むのと同じくらいの時間と精力で個人サイトを見ているといってもいいくらい。同じサイトを繰り返し読み、更新を楽しみにしている。 それでも、そうしたサイトをリンク先として掲げることはしなかった。それは、個人サイトとはいったい何なのか、自分のなかで測りかねていたから。定義づけられていない、といってもいい。出版され、本になっている文章と、個人が無料で掲示している文章。そのあいだには、どんな違いがあるのか。その違いは、読み手にどんな意味があるのか。その意味は、リンクとして他人のサイトを掲示するとき、どんな注意を必要とさせるのか。 こうした疑問は、しばらく考え続けているプロフェッショナルとアマチュアの問題に深いところでつながっている。プロとアマの問題は、私にとっては二重の問題。職業上の問題であり、表現上の問題。金をもらって、働くとはどういうことか、金ももらわず文章を書くとはどういうことか。何度か、文章にして考えをまとめようしているけれど、なかなかすっきりとしない。 そんなとき、業務で鳥取に出張することになった。一泊二日の短い旅。帰京する前、空港へのバスを待つ間、偶然に「鳥取民芸館」を見つけた。医師であり、柳宗悦に師事した民藝運動の中心人物の一人である吉田璋也が蒐集した民芸品や、柳の書が展示されていた。 二階の展示室におかれた椅子は、座り心地がいい。テーブルに置かれた吉田璋也『民芸入門』(保育社、1986)を手に取る。さまざまな民芸品をカラー写真で紹介する入門書。巻末に「民芸とは」と題された文章が添えられている。民藝といえば、昔の家庭用品程度にしか思っていなかった。白樺派の流れを汲む穏やかな文章は、そうした思い込みをていねいに解きほぐし、民芸の意味を教えてくれた。同時に、私に個人サイトを読む意味を考え直すきっかけをもたらした。 民芸とは何か。柳の一言を借りれば、「民衆の生活に必要な工芸品」となる。吉田は、六項目をあげて、詳しく説明する。 一 落款のある名人の作品ではなく、町やむらの名もない職人の作った、庶民がふだん使った雑器が主体なのです。つまり、芸術家が美しさをねらって作った物ではなく、一介の職人が実用のために無心に作っているうちにいつしか美しさがみのったという物なのです。 柳が長年、古道具や骨董品の収集を通じて得た考えは、「ほんとうの美しさ」は民衆の生活用具のなかにあること、美術品の美しさはそうした雑器もつ美しさとは別に存在するのではなく、それらを析出し結晶化させたものであること、つまり、芸術的な美しさの源泉が民芸品にあること、などだった。芸術品と民芸品のどちらが優れているというのではない。芸術には芸術の美しさがあり、民芸には民芸の価値がある。 こうした考えの背景には、吉田の説明にもあるように、産業革命によって、民衆の生活用具が画一的な大量生産品にとってかわられ、そのため、用具だけでなく生活そのものが画一的で味気ないものになっていることに対する危惧がある。その結果、民芸品の美を源泉とするはずの芸術品の美が、それらとは何のつながりもない奇を衒った装飾品になりさがっている。 柳や吉田が考えたこと、心配したことは、そのまま言葉や文章の世界についてもあてはまるような気がする。言葉は、誰でもが使うもの。そして名前もない人々が話した言葉や物語が、かつては人々の心を支えていた。ことわざや昔話などがそれにあたる。文学とよばれる芸術は、そうした民衆の言葉に対する感性を源にしてそれを高度に結晶化させたものであったはず。 それでは、いま文学は民衆の言葉の美しさにつながりをもっているだろうか。仮につながりがあるとして、それは民衆自身の目にみえるものだろうか。専門家や業界の人だけが見通すことのできる連関になっていないだろうか。 同時に、インターネットの世界を見渡したとき、そこに溢れた有象無象の個人サイトのなかで、名もない人の「作品」が、本という形に押し込められた職業作家の文章以上の感動を私にもたらしている。 柳や吉田にとって、民芸が「民衆の生活に必要な工芸品」ならば、私にとっていくつかの個人サイトは、「民衆である私の生活に必要な文芸作品」。民芸は、民衆の文藝。吉田に促されてたどりついた考えを、吉田の文章形式を借りてまとめなおしてみる。民衆の文藝としての民芸の定義。 1 職業作家ではない、素人の作品。多くが匿名または筆名で書かれている。本名を公開している研究者のような場合でも、職業とは距離をおいた作品を含んでいる。 これから、日ごろ読んでいる個人サイトをリンクとして掲示しようと思う。いま書いた七か条は、そのときの選択基準になる。その目的のために、もう一条、追加しておくことになる。 7 碧岡烏兎が、情報、思索の両面で恩恵に浴し、感謝している。 リンク先の個人サイトについては、当面、一切論評することはしないつもり。 金を払った作品については、期待通りではないと批判することはできるけれど、ただのものにはそうした批判はできない。反対に、安易にほめることもできない。私のつたない言葉で、そのサイトの真価を評価できる自信がないから。とはいえ、すでに掲げた七か条が充分に価値判断を含んではいる。 金をとるということは、賞賛だけでなく罵詈雑言を含めて、あらゆる批評を引き受けるということ。見方をかえると、金をとったら、支払われた価格に対する責任が発生する以上、無制限の表現の自由はありえない。もっとも、世の中には、ただで読んでいるものを平気で批判するだけでなく、抗議したり非難したりする人まであるらしい。 批判も賞賛も直接にはできない。できることは、それを読んでいる自分の批評。ここでも自己批評。それらの文章を読んで、考えたことがこれから私の文章に反映されていくに違いない。これまでもそうだった。逐一注記をすることはない。それでも、自分の作品の一部が引用されていることが、その人にだけこっそりわかるようには痕跡を残しておこう。 その意味では、私の文章は秘密の手紙。気づいてくれるといいけれど。 |
碧岡烏兎
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