図書館に行って時間のないときは総論、図書館情報の棚で目についた本を借りる。本書は作家、研究者、評論家などが高校生への推薦図書や自ら十代に愛読した本の紹介。若者への読書案内は単行本だけではなく雑誌、新聞の企画でも新学期を中心に頻繁にされている。
執筆者のなかには、読書指南など柄でないと謙遜する人もいれば、本は人に勧められて読むものではないと主張してまったく具体的な図書をあげない人もいる。それでも大半は自分の体験にもとづいて十代に読んで感動した図書、大作、長編をあげる。長編や大作はとっつきにくいものだから、こうした企画を通じて出会う、言ってみれば本とのお見合いも悪くはない。出版社にとっても宣伝の一部となっているのだろう。
読書の案内役をかってでようとして十代の体験を披露しながら、いつの間にか売れっ子作家になれた成功談や、出したばかりの自作の宣伝になっている人もいるけれど、それもまだご愛嬌。
気になるのは、若いときの読書の大切さを強調するあまり、読書は若いときにこそ、さらには若いときにだけ「効用」があるという論調になっている文章。
このような主張には同意できない。かっこ付きで「効用」と書いたように、読書を何かためになるものと考えるのが、まず間違っている。ドストエフスキーは確かに若いときに読めば、心の糧となるものが多いのかもしれない。そうかもしれないとしても、それはあくまで目に見えない糧であり、また老人には意味がないというようなものではないはず。
人生の深遠を本を通じて先に言葉で知り、それを案内として生きて行く人もいるかもしれない。けれども、そういう人ばかりではないし、そうでなければならないわけでもない。長年実生活で培ってきた知恵を、壮年をむかえてからの読書で確かめ、噛みしめる人もいるに違いない。
こんな風に書くのは、私自身、多くの人がすすめるドストエフスキーの作品をまだ読んだことがないから。これから読んでも意味あるものであってほしい。言葉をかえれば、いつか深い読書をするために、いま読書以外の経験を積んでいると信じたい。
明確な目的がある読書もあるし、心の糧にするといった抽象的な目的をもった読書もありうる。しかし読書は何といってもそれ自体が楽しみであるはず。その楽しみは読者が何歳であっても変わらないし、変わってはならない。
話題は少し変わる。以前、新潟の少女監禁事件のあとにある新聞の社説が「人生のもっとも美しい(あるいは輝いている、だったかもしれない)時代を奪われた」というような表現をしていた。一般的にはそう理解されているかもしれないとしても、まさに人生のある期間を奪われた人にむかって「あなたはすでにもっとも美しい時代を過ぎた」というのは非礼にしても度が過ぎる。
人生のいつがもっとも美しいかは、本人が決めること。社説の発言はこれから新たな人生を踏み出そうとしている被害者に対して、犯罪以上の苦しみさえ与えかねない。子ども時代や青年時代が美しいとか輝いているとか、そんな紋切り型の理解はそろそろ改めたい。その後の人生のほうがずっとずっと長いのだから、少なくともそうありたいと願っている限りは。
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