ぷちナショナリズム症候群ー若者たちのニッポン主義、香山リカ、中公新書ラクレ、2002本書は2002年10月7日付朝日新聞書評で知った。評者は朝日新聞編集委員、清水克雄。書評は香山の危惧に対して懐疑的、すなわち若者のニッポン主義に対して楽観的な立場をとっている。香山に対する皮肉をこめた評者の結語。 分身の術で日の丸好きにもリカちゃんにも簡単になれる。ナショナリズムまでを軽く「ぷち」化したのは日本人の知恵のような気もする。今回の日本人拉致事件に対する世論の反応が冷静なのも知恵が働いた結果なのではないのだろうか。 この文章からは、サッカーW杯後に競技場での「ニッポン」大合唱を絶賛した別の新聞記者のことが思い出される。二人に共通するのは大衆への過信。一人一人は合理的な判断力をもっていても、あるいは評者の言葉をかりれば「ぷち」化しているつもりでも、それが集団となり、政策とマスメディアの操作と影響を受けて、思いもよらない行動することが、全体主義の恐ろしさではないか。 すべてとはいわないが、大マスコミのジャーナリストはメディアの影響力を意識的に過小評価しがちにみえる。ともかく、政治家とジャーナリストが「世論」は正しいなどといっているときは、あやしい。何か胡散臭いものが感じられる。喜んでいる場合ではない。 それにしても、拉致疑惑への反応が冷静であるとはどういうことだろう。もともと冷静というより誰も気にも留めていなかった問題を、関心事どころか、今度はただの大騒ぎにすりかえているのは当のマスメディア、とりわけ件の評者が属している大新聞ではないのか。 本書に目を戻すと、卑近な事例の観察、ごく最近の文献、発言からの引用など、ここ数年、乱発気味になっている新書の典型ではあるが、グローバリゼーション下の国籍の問題、社会の階層化、結婚観の変容、「期待族」の問題、石原新党など、取り上げられた話題は多岐にわたり、時評として面白い。 書評では取り上げられていないが、香山は、たんにスポーツの応援で旗をふることが「いつのまにか国そのもののために振られているという事態も起こりかねない」と危惧しているのではない。 問題は、日本社会の格差が拡大していること、具体的には下層の広がりと中間層の地盤沈下が見られることに根ざしている。極右勢力の台頭と外国人排斥の動きはヨーロッパでエリート層や富裕者層に対する、とくに中間層下部の不満を梃子にしてすでに広がりはじめている。 日本では「屈託のない」ナショナリズムが、外国人や社会的弱者を排斥する動きへつながりはしないか、香山の問題提起はそこにある。そうした事態を避けるシナリオとして香山は祭りへの昇華、階層社会からの離脱などをあげているけれど、このあたりはまだ議論が必要だろう。とくに後者は、一人ではじめられると言える反面、そう簡単にはじめられるものでもないから。 面白かったのはナンシー関の引用があったこと。香山も指摘するとおり、ナンシー関はワールドカップ杯開催前から終了後まで一貫して批判的な論陣を張っていた。メディアはイベント中にはこぞって盛り上げておいて、終わった途端にアリバイを作るかのように「あの騒ぎは行き過ぎていた」などとしたり顔をするから始末がわるい。 ナンシー関が亡くなってから、『週刊朝日』も『週刊文春』も読まなくなってしまった。 |
碧岡烏兎 |