オリンピックメダルは誰のものか


ベルリン・オリンピックのマラソンで優勝した当時日本国民、亡くなったときは韓国籍の男性が亡くなった。メディアは、優勝したときの報道で彼のシャツの日章旗を塗りつぶした新聞社が休刊に追い込まれたこと、強制された名前で残っている公式記録を修正するようオリンピック委員会に申し出ているが受け入れられていないことなどを報道している。彼が悲劇のメダリストであったことは間違いないとしても、それはナショナリズムの一面であって、本質ではない。

大日本帝国の韓国に対する植民地政策は不当だった。その評価を否定はしない。だからといって、その裏返しの韓国のナショナリズムが正しいことにはならない。韓国のジャーナリズムが美談に仕立てるのはともかく、日本国のジャーナリズムがメダルの帰属にまで疑問を投げかけるような報道をするのは、屈折した判官贔屓でしかない。


ほとんどの人は、生れ落ちたときに血統に基づくか、出生地に基づくかしてある国籍をもつ。多くの人は疑いもなくその国籍を持ち続けるが、一生の間に国籍が変わる人もけっして少なくない。国家の側からみれば、国家が崩壊、消滅して国籍を保障することが不可能になることもあれば、別の国に併合されることもある。個人の側からみれば、亡命や移住によって国籍を変えることもある。

個人の心情の面でみれば、元の国籍が嫌で、進んで変える人もいれば、変えることを強制される人もいる。また、変えざるをえない心境に追い込まれてやむなく変える人もいる。国籍が変わる瞬間の感想だけではなく、そうした人たちがその後どう考えたかを聞けば、とりわけ最後の例では、もっと複雑なはず。

ベルリン・オリンピックを走ったマラソン選手にとっては、望んだのではない国旗を背負って走ることは苦痛だったのだろう。それは否定しないが、その心境はすべての国籍変更者に当てはまるわけではない。悲劇を美談に仕立てることは、似たような境遇の人を不当に扱うことになりかねない。


例えば沖縄県出身者。沖縄は明治維新までは別の国だった。今でも沖縄を例外とみなす本土からの視線がある。それでも、沖縄県出身の選手がメダルをとったとき、あなたはもともと外国だったところの出身だから日本国のメダル取得とはみなしませんとは言えないだろう。

琉球王国は日本国に帰属したくて沖縄県になったわけではない。そうかといってまったくいやいやながらに併合されたわけでもない。資源が少なく、政治的に不安的な位置に置かれた小島の苦渋の政治的決断であったはずだ。だからこそ琉球処分以降、つねに「本土なみ」が合言葉となり、また日琉同祖が本土側だけでなく、沖縄内部でも激しく賛否両論が戦わされてきている。

在日韓国人で日本国籍を取得した人にも同じことが言える。現代の在日韓国人は、植民地時代のように日本国籍、日本名を強制されているわけではない。しかしさまざまな理由から、日本名を名乗ったり、日本国籍を取得する決断をせざるをえない心境に追い込まれたりする場合もあるにちがいない。

国籍を変えてからも、それでよかったと思うときもあれば、後悔するときもあるはず。彼らにむかって、「あなたは元外国人だからほんとうの日本人ではない。だからあなたの取ったメダルも日本のものではない」と言えるだろうか。


こんなことを言うのは、今回の報道の中で怖ろしい発言を聞いたからである。曰く、「ベルリンのメダルは悲劇に終わったが、シドニーで『ほんとうの日本人』が金メダルをとったときはうれしかった」。あの金メダリストが国籍を変えた人かどうか知らないが、もしそうであったら、この発言者はどう言葉をつづけるつもりだろうか。

ベルリンで走った選手は、大日本帝国の「ほんとうの国民」ではなかったのか。さまざまな差別があり、いわゆる二級市民であったことは予想されるけれども、ほんとうに差別されるのであれば、そもそも代表選手にはなれなかっただろう。経緯は何であれ、彼は当時日本国民だったのだから、メダルは日本国選手のとったものと理解すべきだろう。


そもそもオリンピックはスポーツ選手が個人として最高の技を競い合う舞台ではなかったのか。つまり、メダルは日本国がとったのではなく、日本国に属した選手、より正確にはその大会で日本選手団の一員として登録された選手が獲得したもの。それ以外の何ものでもない。

あるときは個人主義の理想に浮かれ、あるときはナショナリズムの美談に酔いしれる。マス・メディアのご都合主義は今にはじまったことではないが、今回の報道には、ここに極まれりといった感がある。


碧岡烏兎